見出し画像

マントラチャンティングとカルマヨーガ

※写真は南インドのフランス、ポンディシェリで滞在したホテル①

カルマヨーガは、すべての行いを
「自分」のためじゃなく
「神」へ捧げるためにする

っていうように理解してるんだけどね

ヴェーダの詠唱
ヴェーディックチャンティングに関しては
カルマヨーガであることが前提なの

で、似た言葉でヨーガスートラにある
イーシュヴァラ・プラニダーナは

サマーディに向かうこと
クレーシャを減らすこと

このための努力である
タパやスヴァーディヤーヤを

イーシュヴァラに献上することで
「行いの結果を放棄すること」なんだよね

での、私個人としてはカルマヨーガに
シンパシーを感じてなくて

というのも、カルマヨーガってそもそも
輪廻転生からの離脱のためのコンセプトで

いい行いをしたらいい来世
悪い行いをしたら悪い来世

そのどちらもほしくないから
悪い行いはもちろんせず
いい行いは神様に捧げることで

悪いカルマもいいカルマも残さないから
悪い来世もいい来世も用意されない

、、、でも
私は来世を意識して生きてなくて

「今」の満足や納得の積み重ねで

「今世」をなるべく満足できる
納得できるものにしたいっていう
モチベーションでヨガを実践してて

だからこそ
イーシュヴァラプラニダーナは
よくわかるから

行いの結果に執着する強い欲望は
あんまりないかもしれない

うまくいくときはうまくいく
みたいな感じで、それがまだだとしたなら

今はそのタイミングじゃない的な
楽観っていうか笑

・・・

なんらかのサービスを提供するとき

自分を空っぽ=無我の境地で行うこと
なんじゃないかなっていう人を
しばしば見かけてたんだけれどね

なんかそれって、イタコ的な
神おろし的な??みたいに思ってて
特に共感しなかったんだけどね

でも、こないだふと
あれ?それはカルマヨーガかな??
って思ったんだよね

私の凝り固まったものの捉え方という
マインドの汚れが溶けて消えていった?!

での、自分に当てはめてみると
マントラチャンティングを教えてるとき
それだなって思った

サンスクリット語の6つのルールに
忠実にということだけを考えて

自分の主観はなく
上手い下手とかじゃなく

ただただ、マントラに向き合う感じ?

マントラの意味とか
それによる恩恵とか
それありきじゃなく

真摯な気持ちで詠唱するっていう
シンプルな感覚があるの

ただ、アーサナに関しては
「目に見える」ってとこが難しくって

体も日常的に使ってるから
やっぱり癖も強く出るところで

そこをオーガニックな状態に
戻していくためには知識や経験
ものをいうと思ってて

なかなか自分を空っぽにするって難しく
奮闘が続くわけで

私の持ってる技術を差し出す
ということと
自分を空っぽにする

っていうのがイコールに
なりにくいと感じるんだよね

それも、あと10年ぐらいすると
突き抜けてるのかもしれない??

そう思うとワクワクするよね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?