ヨガの恩恵のこと1
ヨガに何を求めるのかは人それぞれ。したがって、感じる恩恵も人それぞれ。
そんな中で、私にとってのヨガの恩恵はなんだったのか考えてみたい。
ヨガの良さを感じる前に、あれよこれよという間にインストラクターになってしまった私としては、ヨガのメリットってなんなのかという探求から始まった。それが2005年。
前提としては、もともとがフィットネスインストラクターだったので肉体面での(骨格調整的な)メリットは一切求めてなかったことがある。
ようやく納得できるヨガの教えであるクリシュナマチャリヤ師の伝統に出会ったのは2007年34歳の時だったが、実際の恩恵を感じたのは9年後の2016年以降な気がしている。その理由は、同じ伝統だからといって誰から教わったとしても効果が出るわけではなかった。そんな実感があるからだ。
とはいえ、模索し続けてきた期間があるから今があると思っている。でもそれって、そこに到達したから言えることでもある。
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では、どこに到達したのか。もちろん、悟りなんかじゃない。
それは、心からの満足だ。
そうはいっても、心からの満足だけで100%生きているかというと、そうではない。生きているのだから妥協もある。それでも心からの満足を少しでも感じられているなら渇望はない実感があって、これは外側由来の満足なのか内側由来の満足なのかに関わる。
そして、内側由来の満足を感じる人は、進むべき方向性が見えてる人だとも思う。
方向性とは、すなわち生き方だ。
その方向性を見続けていけるなら、追い求め続けていけるなら、少々の妥協や犠牲も受け入れられるのだと思う。
だからこそ、外側由来の理由づけがなくなるまで模索する必要があるとサラスワティは言っていた。
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20代の時に私は何かになりたくって色々試してみたが、どれもこれも満足がいかず常に渇望を感じ続けていた。その渇望を埋めるために散財しまくり、虚しさも感じるような日々だった。
27歳からエアロビクスのインストラクターとして活動を始め、充足感があった。その一方で、それでもお金や人間関係etc.を消費するような日々だったと今は思う。
34歳で師の伝統に出会って、この方向に行くべきなんだと直感的に感じた。46歳の現在ではその生き方(信念)は完全にじぶんの中にあるものだと感じている。
私の場合たまたま職業(伝えたいこと)とリンクしているが、こう生きたいということは多岐にわたって定義できると思う。
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最期の時に考えることは、あれが食べたかったとかこうしたかった/したくなかったというようなことではなく、できるだけのことはやったという感想でありたい。
それが完遂できていないにしろ、今できるとこまではできたならそれは満足できるだろうと確信している。
そう感じられていることが、ヨガ(日々の練習や哲学)から得た私にとっての恩恵だ。
Mika(@mikachant)でした。
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