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院の御子 第三章 奥州編

奥州編 登場人物

■藤原秀衡
奥州藤原氏の三代目。義経からの要請で御子を受け入れ、自分の娘のように愛しむ。

■藤原泰衡
秀衡の次男。母親は、藤原基成の娘であり、父秀衡の正室なので、藤原氏の家督を継ぐ立場にある。兄国衡と比較されているためか、いつも焦燥に駆られ必死に動いている。

■藤原国衡
秀衡の第一子。おおらかで欲がなく、腰が重くて懐が深い。控えめが過ぎて愚直と評される。
母は、奥州出身の女性。

■藤原忠衡
秀衡の三男。御子より二歳下。世間知らずで真直ぐな性格。兄泰衡に殺される。

■源義経
かつて牛若として御子とともに遊んだ武将。

■源頼朝
以仁王の令旨を受けて平家打倒の挙兵をしてから、各地の源氏を従えるまでになった。義経とは性格上相いれないところがあり、最終的に義経の命を奪う。

■和田義盛
頼朝と同い年。最初の挙兵からずっと頼朝に従っている。平家滅亡に際しては、義経を支援して戦いやすくするなどの侍所の立場にあった。

■畠山重忠
もとは、関東で発展した平家の一族。頼朝に降伏してからは、頼朝の家臣となる。あまり細かいことや複雑なことに気を配らない、雑な性格のため、悪気はないのだが和田義盛に少々嫌がられている。


一、再会

 御子はなかなか起きあがれなかった。首を起こすのもだるく、寝返りをうって手を床につき身を起こそうとすると、世の中がぐるぐると回ってしまい、どうしようも耐えがたくなって目をつぶり、そのまま床に転ぶように身を投げた。起きあがれなくても、どうしてもやっておかなくてはならないことがある。御子は人払いをし、覚山坊を呼んだ。
「院の御所で、安倍泰親なる陰陽師に会った。二条帝を呪詛したというのは、まことか」
 覚山坊の顔色が変わる。逡巡の挙句、
「院のご命令です。逆らえません」
「陰陽師が言ったのだ。私は凶相であり、兄二条帝の怨念が宿って生まれてきたと。それもまことか」

一、再会

 御子はなかなか起きあがれなかった。首を起こすのもだるく、寝返りをうって手を床につき身を起こそうとすると、世の中がぐるぐると回ってしまい、どうしようも耐えがたくなって目をつぶり、そのまま床に転ぶように身を投げた。起きあがれなくても、どうしてもやっておかなくてはならないことがある。御子は人払いをし、覚山坊を呼んだ。
「院の御所で、安倍泰親なる陰陽師に会った。二条帝を呪詛したというのは、まことか」
 覚山坊の顔色が変わる。逡巡の挙句、
「院のご命令です。逆らえません」
「陰陽師が言ったのだ。私は凶相であり、兄二条帝の怨念が宿って生まれてきたと。それもまことか」
「いいえ」
 そこは随分、簡単に、覚山坊は言ってのけた。
「あの男の言はお信じなさいませぬよう。院の秘密の命が自分以外に下されたのを知った時に、突然言いだしただけです」
 そういうと、遠い目をして昔語りを始めた。

 あの日、二条帝は、息もゆっくりとしかなさらず、意識もおありではありませんでした。典薬頭の見立ては、明日までもつかどうかという状態だということでした。御所中沈んでおり、わが友成親も二条帝の近くに伺候していました。そこへ、見舞いと称して後白河院の御幸がありました。私はその時、帝の隣の室で護摩を焚いておりました。
 初秋のまだまだ暑い日でございました。護摩の火と気温の暑さにすっかり参って、しばし休むことにしたのです。渡殿で風に当たっていると成親が来て、一月(ひとつき)も早く九条院の女房が突然産気づいて、苦しんでいるらしい。一応院にお子が生まれそうだと奏上したが、いま見舞うわけにもいかぬしと、お困りのご様子だ。二条帝は明日までもたぬだろう? お前の祈祷の験はすごいが、なにも院のお子がお生まれになる時と重ねなくとも良かろうにというので、本当に私ごときの祈祷で二条帝を弑し奉れるはずがなかろう。後白河院のご下命の手前、祈祷して見せているだけだ。二条帝の御命運が、もともとここまでだったのだ、などと話しておりました。すると、すぐ横の孫廂の几帳の向こうに、陰陽師安倍泰親がおったのです。
 彼は勢い良く渡殿に出てくると、わしをじろりと睨みつけ、
「なにゆえ旅の小汚い僧などに、そのような大事を! 我が陰陽道を蔑ろになさればいかなることになるか、院にお示し申し上げねば!」
 そう憎々し気に吐いて、その場を去りました。
 隠密の事を漏らしてしまったので、私と成親は覚悟しました。あの陰陽師泰親にばれたことを院がお知りになれば、陰陽師泰親か、あるいは我々の命、どちらかが抹殺されるだろうと。
 二条帝はその後一時もせぬうちに崩御なさり、その場の皆が悲しみにくれていました。そこに、陰陽師泰親が勢いよく入ってきて、まだ涙にくれている人々を、「お人払いを」といって、外へ出し、院に食い下がったのです。
 泰親が我らから秘密が漏れたと言うかもしれぬと、私と成親は几帳の裏に身を隠し、様子を伺っていました。
「二条帝は随分と院をお怨みになって身罷られたようですな。私にはわかります。その怨念は凶星となって、この三日以内にお生まれになる後白河院の近親者にうけつがれます」
 後白河院の顔色がさっと変わったのが、几帳越しにも見て取れました。九条院女房が産気づいているというのは、既に成親が奏上していたのですから。
 紅を引いた薄い唇をぐっと引き揚げて、泰親は笑いました。
「そのような凶星を担った子が生まれれば世は乱れます。しかし、ご安心を。私の申し上げます通りになされば災いは避けられまする。お生まれの者が、男なら急ぎ仏門に、女なら、ああ、これは救いようがございませぬ。すぐに命を奪って封じ込めなさいませ」
「生まれたばかりの子を、殺せと申すか」
 院は驚愕の内にそう聞き返されました。
「そもそも女人は往生ができぬ罪深き者といわれております。それが凶星を宿らせておるのです。世に放てばどうなるか。院の名は、災いをもたらした暗主として歴史に名を刻まれましょう」
 その後、二条帝の御葬儀をいかようにするかなどの僉議が持たれましたが、院は上の空でした。そして、成親を秘かに呼んで、
「九条院女房の子が生まれれば、男ならば比叡山に。女ならば命を断て」
 と仰せになったのです。

 覚山坊は、そこで一旦言葉を止め、横になったままの御子の手を握った。
「しかし、陰陽師泰親の言うことなど気に留めてはなりませぬ。霊験だの式神だの、そのようなもので世の中は動いておりませぬ。あの男の言は、私への嫉妬から出たものです」
 御子は、肯いた。
「わかっておる。先日対峙した時、私を女と見抜くこともできなかった。ただ、父院が信じてしまっていること。そこが気がかりなのだ。それと……」
 御子は意を決した。ずっと胸に重く抱えたままだったあの問いを、今ここで聞くしかないと思った。
「私は、まことに、院の落胤なのか」
 覚山坊は、よく意味が分からぬ顔で御子を見た。
「成親卿と九条院女房の子では」
「まさか」
 覚山坊は、思っても見なかった様子で声をもらした。
「九条院女房隆子殿は、確かに見目麗しい女人ではありもうしたが、成親との間に何かがあったとは思えませぬ。そもそも、隆子殿と院が出会われたのは九条院邸の宴の折で、成親もその場にいたのですぞ。自分の女を院に差し出したり、院のお手がついた女房に手を出すような男ではございませぬ」
「しかし、自身と何の関わりもない女の産んだ私を、なぜここまで養育してくださったのか。そこが私には腑に落ちないのだ。祖父資隆や大和、伯耆のように、私を利用しようと思っていたのだろうか」
 覚山坊の顔が、刹那、強張った。御子はそれを見逃さなかった。
 覚山坊は、取り繕うように、
「……御子はご存じではないでしょうが、成親と院は、大変な信頼関係を築いていたのです。親密な……。いえ、ただ、本当に常に院と成親は心を開いて通じ合っておられた。成親は院を尊敬申し上げていたのだ。そうだ、だから、あなたを育てたのです」
 覚山坊は、脂汗をかきながらそう言うと、ふらりと御子の居室を出ていった。 
 御子の疑念は、すっきりと拭えないままだった。
 覚山坊の様子がおかしかった。もしかすれば、父様も他の者と同様に私を利用する算段だったのかもしれぬ。しかし、利用することもなく、私を資隆のもとへ手渡した。それに、父様はずいぶんと私をかわいがってくださった。
 百歩譲って、私を利用しようと目論んでいたとしよう。しかし、やはりそこに情を注いでくださったのは間違いないのではないか。そう信じたかった。
 覚山坊ともう一度会って話したいと願ったが、覚山坊はその日を境に、京より姿を消してしまった。

 二月十八日。まだ寒さの残る春の日。御簾越しに見上げる空は、一層澄んで、梅の枝に映える。塀の外が、ずいぶん賑わっている。京の人々の活気が戻って来たようだった。そんな中、ふいに歓声が上がり、馬や人の足音が聞こえる。余程の人気者が大路を歩いているのだ。いったい誰だろう。平家を破った人か。それともまたどこかで戦があるのだろうか。外を見たい。そんな気持ちを久々に持ったが、やはり起きあがる力が出なかった。
「御子様」
 當子の声に目を覚ます。いつの間にか眠っていたようで、すでに妻戸も閉められている。燭台の明りの中、當子は粥を匙ですくって、御子の口に流し込む。美味とは思えない。それでも、當子を悲しませたくなくて、御子は口に入れられた分はすべて飲みほした。
 邸の門辺りで、人々がざわついている。
「客人《まろうど》か?」
 御子がそう言うと、當子は嬉しそうに微笑んだ。
「兄上がお連れしたのでしょう。きっと御子様がお喜びになるといって、今朝出て行きましたから」
 ――成国?
 御子の頬は少し色づく。
「髪を梳いてくれ」
 當子は頷いて、横になったままの御子の髪を柘植の櫛で丁寧に梳いた。香を焚き、胸を躍らせて御子は待って居た。
 不意に御簾が上がって、仲影が勝ち誇ったように微笑んだ。
「意外なお人が、御子様に会いに来られました」
 御簾の向こうの人影が、御簾を上げるのももどかしそうに中に入ってきた。
「御子!」
 それは、十数年ぶりに見る牛若――義経だった。
 御子は、うれしい一方、胸の底には澱のように寂しさがたまった。
「牛若の、兄様」
 義経は、御子の床の横に走り寄ると、膝をついて、御子の手を両手で握りしめた。
「兄様、ご立派になられて」
 義経は何も言葉を発せず、御子の手を自分の頬に当てて歯を食いしばる。温かい涙が、ぽたぽたと落ちた。
「御子に一言の挨拶もできぬまま、京から姿を消さねばならなかったのが、ずっと悔やまれていた。もう会うこと叶わぬと、そう思っていた。ああ、御子! 私の大事な妹よ」
 御子は、涙を抑えなかった。流れるままに枕を濡らした。
「仲影からすべて聞いた。よく頑張ったな。今はもう何も考えずに、養生することだけに専念するのだ。この兄が、おまえのことは守ってやる。早く元気になって、また私とともに遊ぼう」
 御子は、おかしそうに笑った。
「兄様、もしかして、今日京に入られたのですか。もしや、一の谷からの入洛ですか」
 自分が院宣を用意できなかったために、伯耆の者たちは平家側につかねばならなかったこと、成盛が小鴨基康に刺殺されたことは、當子から聞いていた。
「京には、もう十日程前に戻ってきていた。合戦は、二日ほどですべて蹴りがついたのだ」
「でも、今朝は何か、京が賑わっていましたが」
「京の警固役を仰せつかって、そのために配下を連れて京の中を移動していたのだ」
 なるほど、その歓声だったのかと御子は納得した。
「御子、また明日くる。明後日も来るぞ。そして、動けるようになったら、私の邸にきなさい。いいな、今日よりは明日、明日よりは明後日、必ず元気になるのだ。約束だ」
 御子は、呆れながらも笑って頷いた。
 それから半月ほど経って、御子はようやく身を起こして一日を過ごせるようになり、一月後には、歩けるようにまで回復した。そして、約束通りに、義経は御子を牛車に載せて、六条室町邸に引き取った。
「こちらの大男は、武蔵坊弁慶。私とずっと行動を共にする一の家臣だ」
 義経に引きあわされた弁慶の、その大きな体躯を見ると、御子は成国を思いだした。今頃伯耆はどうなっているのだろう。弁慶は、成国とは全く違う闊達そうな笑顔を見せた。
「武蔵坊弁慶と申します。以後、お見知りおき下さりませ」
 義経邸に、尼君が御子を見舞いに来た。右大臣邸でこちらに移ったと知り、いそいできたという。尼君が来た時、義経は不在であった。
「御子、何故、我が邸に帰って来ぬのです。この婆の思いを汲んでおくれ」
 尼君は、悲しそうに御子の手を両手で包んだ。
「尼君、私が女ということをもうご存じでしょう。あなた方には決して得には働かないのですよ。かえって、そちらの家を没落させるのです。もう、縁を切ってください」
 祖父資隆は、御子のことは厄介払いしたい様子で、御子が目覚めてから、一度たりとも見舞いに来はしなかった。
「悲しいことを……大事な曾孫を手放すものですか。姫だろうと御子だろうと婆にはどちらでもよいのです」
 御子はひどく胸が痛んだ。尼君から手を引きとると、そっぽを向いた。
 以仁王の挙兵以前、御子は尼君に冷たく当たった。そうでなければ、自分を保てなかった。しかし、今になって自分の行いを後悔するとは思ってもいなかった。御子の気持ちを、尼君は察したかどうかわからない。が、また来ますと言って、帰っていった。

 御子は、ときおり唐櫃《からびつ》から父院の鏡を取りだし、自分の顔を映した。いまだ血の気が失せた生気のない顔だった。
 成国は、今も伯耆にいる。成盛亡きあと、小鴨との関係はどうなったのだろう。会いにゆきたい。けれど、とても顔を合わせる勇気がない。最後に見たあの雪景色の中の成国の姿が、胸に刻みこまれている。黒髪豊かな、雪景色の中の成国を。
 私の恋しい男よ。あなたの子を失ってしまった今、どんな顔をして会いに行けるというのか。

二、都落ち

その年の晩秋、一人の女人が、供を数人連れて義経の邸にやってきた。東国から来たという。御子を見ると、少々寂し気な顔をして、しかし自分を奮い立たせるように笑って見せ、
「河越(かわごえ)太郎(のたろう)重頼女(しげよりのむすめ)、郷(さと)と申します。鎌倉の頼朝様の御命により、九郎義経殿に嫁するため上洛いたしました」
 と、小ぢんまりとした小さな体で、三つ指をついて、御子に挨拶した。
「さようですか。義経殿は、今、出仕なさっていて、この邸にはいらっしゃらぬ。申し遅れました。私は、故あって、義経殿に庇護されておる者でございます」
「故……」
「幼き折、兄とも妹とも共に呼び合うて過ごした義兄妹のようなもの。今は我が身困窮の折ゆえ、恥をしのんで庇護に甘えておるのです」
「あら、ふふふ、まるで、武士のようなお話のなさりよう。面白いお方ですわね」
 屈託なく笑う。それにしても、供周りも少なく、このような華奢な女人が、よくも祝言を上げるために鎌倉より長旅をしてきたものだと、御子は驚く。義経もそうであるが、体が小さい者の方が、存外元気なのかもしれない。そんなことを思った。
 郷御前の出現に義経は少々慌てたが、兄の命とあらば夫婦となりましょうと受け入れた。先日後白河院より任官され、従五位下という位を賜ったことに、兄頼朝の不興を買ったばかり。その兄が自分の正妻を決めたのだ。ここは従順に受け入れるしかない。それに、遠路はるばる来た郷に対しても、ここで拒否をしては申し訳が立たぬと思ったのだった。
 時流はどんどん渦巻いていった。
 平家は屋島、壇ノ浦で合戦し、ついに海の底に沈んだ。義経は京に凱旋し、生け捕りにした宗盛父子と重衡を鎌倉へ送る。ところが、義経だけが腰越で足止めされ鎌倉に入ることを禁じられた。その後、宗盛を再び京に護送するよう命が下るも、義経の胸中は穏やかではなかった。
 父の仇を打ち、兄とともに力を合わせて勝ち取ったはずの平家追討の勝利であるにもかかわらず、兄頼朝は自分を軽んじ、疎ましく思っているようだ。釈然としない心の内を苦々しく抱えながら、義経は日々を過ごしていた。
 そんな折、一旦鎌倉に送った重衡が帰京した。南都の衆徒の要求で、明後日、京から南都へ護送するらしいということだった。
「重衡が……南都の衆徒の手に落ちるのだな」
 炎荒れ狂う東大寺の、焼け死ぬ民衆の阿鼻叫喚の声が、生々しく御子の耳に甦る。
「私も共に南都へ下ろう。彼の最期は、この目で見届けておきたい。武士でもなく、抵抗するでもない女子供を焼き殺した男だ」
 御子は立ちあがって、久しぶりに狩衣に着替えた。義経は心配げに止めたが、子が流れてからもう一年以上が経っていた。昔通りとはいかないにしても、馬に乗って大和に行くくらいのことはできる。立烏帽子をつけて太刀を佩き、馬にまたがって、御子は、重衡護送の列から距離をとりながら南都に赴いた。
「興福寺、東大寺の周りを三度ひきまわした後、鋸で首を引いてやる!」
「火であぶりながら殺せ!」
 南都の大衆らの口々から飛び出す言葉に、護送の武士は眉をひそめた。
「いくらなんでも残忍すぎる。急ぎここで首を落とし、首級を南都に渡すことにしよう」
 武士の計らいで、重衡の斬首が早急に決まった。
 場所は、木津川の河原だった。以前、仲影の秘密を問い詰めて泣いたあの河原で、数年後、重衡の首が落とされることになろうとは、御子は思ってもいなかった。
 重衡は斬られる前に、民衆の中の御子を見つけ、ぐっと睨んだ。
 首は落ち、衆徒は怒りとも喜びともつかぬ唸るような声を出し、それが音の波のように木津川の河原に渦巻いた。あっけなく、大罪人は命を終わらせた。
 大和には、長居無用と心得、すぐに京へ取って返す。宮城に入ったところで、追い抜いた牛車に呼び留められた。右大臣の牛車だった。
 御子は、そのまま右大臣邸に招かれた。
「ずいぶんお顔色もよろしく、この兼実、安堵いたしました」
「右大臣殿には、受けた御恩に報いることも叶わず、心苦しいばかりで」
「なんのなんの、高貴の方をこの邸に御迎えできましたことは、大変な栄誉でございます。どうか、お気になさらず」
 御子は、兼実の様子を見て、ふいに感慨にふけった。
 この方は、若くして右大臣にまで昇りつめておられる。父成親も生きていたら、右大臣ほどにはなっていたのだろうか。
「いかが、なされました」
「……いえ。ふいに養父権大納言のことを思いだしまして」
「ああ、我らの憧れの君でした。お顔立ち、お言葉遣い、所作、才芸、すべてにおいてこの上なく美しい方でした。京の老若男女は成親様を見かければ歓喜したものです。ときに、院が嫉妬なさるほどに」
 兼実は何かを思いだしたようで、楽しそうに笑った。
「何です?」
「いつぞやのことですが、行列で京の大路を通っていたところ、後白河院への歓声より成親卿への歓声が大きかったものですから、院が臍をお曲げになりまして。確か賀茂祭でしたか……。成親卿を呼びつけてずいぶん長い時間お怒りでした。しかし、結局は、成親卿をご自分のものになさって。院が嫉妬なさっていたのは、……」
 兼実は、扇で口元を覆って、しまったという顔をした。
 御子は、何とも言えない顔をした。院と父成親が、男色関係だったと兼実は口を滑らせたのだ。
「……ご当人のことを、いらっしゃらない場でとやかく言うものでがございませぬな。まあ、我ら貴族というのは、男女関係なく美しいものを好みますゆえ」
 それでも御子が何も言えないでいると、兼実は、ふと微笑んだ。
「院の御子であるあなた様を、成親卿がようお殺しにならず、慈しんでお育てになったと聞いた時、私は真っ先に思いました。おそらく院への親密なる想いが根底にあるのではないかと。院と成親卿を間近で見ておりました私などは思うのですよ。院は、あのようなお方ですから、時勢を見ていくらでも敵味方を変えられる。昨日は敵だった者でも、政に有利だと思えばすぐに懐にお入れなさる。しかし、成親卿は、本当に情の深い方でしたから、一度関わりを持った人には、ずっと誠意を尽くされる。あなたのことも、院のお子と思えばこそ殺せず、一度懐に入れてしまったからこそ、大切に養育なさったのでしょう」
 そう、なのだろうか。父に、一瞬たりとも、自分を利用しようという気持ちはなかったのだろうか。そう問い詰めた時の覚山坊の強張った顔をふと思いだす。
 私は成親卿の子か。後白河院の子か――。
 自分の子を後白河院の子と称して帝位に就けようとしていたのか。それとも、女ならば殺せと捨てられた私を利用して、父院を苛む種にし王権を手にしたかったのか――?
 疑念が疑念を呼ぶ。
 御子は、鉛玉を呑み込んだような心持で義経の邸に帰った。
 六条室町邸にもどると、義経が在宅していると聞き、御子はその足で寝殿に向かった。が、途中で「今はお人払いです」と家人に止められた。「いったいどうしたのだ」と聞いても何も答えない。そこへ、寝殿から武人らしき男が随身を連れて出てきた。
 御子と目が合うと、軽く黙礼だけして帰っていった。
「兄様、お邪魔ですか」
 簀子縁のところから遠慮がちに声をかけると、入っていいと言う声が聞こえた。御簾をよけて奥の間まで行くと、義経は文らしきものをいくつも巻きとって文机に載せていた。が、顔を上げて、
「重衡の斬首はどうであった」
「南都大衆の怒りを避けるために、南都入りの前に行われましたが、滞りなく」
 御子は腰を下ろすと、
「今の男は誰です? 京の者とも思われませんが」
 義経は、忙しそうに文を全て巻き取ると、
「御子、私は以前、奥州は平泉というところにいたのだ」
「存じております。源頼政殿から兄様が平泉へ行かれたと聞いていました」
 頼政の名が出た途端、義経の顔は明るくなった。
「私の憧れの武士であった。あの御方と御子がともに戦したと聞いたときは、羨ましく思ったものだ」
 御子は懐かしく頼政の笑顔を思い浮かべた。清々しいほどの武士ぶりだった。
「平泉は、金がとれて財があり、大陸の国々との貿易も盛んで、さながら都のように煌びやかだときています」
「今のこの荒れ果てた都と比べれば、あちらのほうが格段に美しいだろう」
「なにゆえ、突然、平泉の話を?」
 義経は、口だけで笑って、御子のすぐ前まで膝を進めた。そして声を潜ませた。
「数日の内に、平泉へ向かいなさい。京から離れるのだ。すでに御子を庇護して下さるというお返事は頂いた。私もすぐ、後から行くから」
「どういうことですか。京で戦でもおこるのですか」
「分からぬ。しかし、不穏な動きが私を取り巻いている。先程我が邸に訪れたのは源行家という男だ。以前は新宮十郎行家と名乗り、以仁王の院宣を全国に触れて回った男だ」
「あの男が! そうか、そうでしたか」
 義経は、御子の手をとって、一層小声になった。
「兄の頼朝殿は、どうやら私を亡き者にしようと画策されているらしい。行家はそれを私に告げに来たのだ。彼の話では、今後、京も畿内も、いや、東国も含めて、混乱が起こる。そのような中で、私は、おまえを守ってやることはできない」
 御子は義経の手を握り返す。
「兄様! 憤りを通り越して、私、呆れてしまいます。私の手腕をご存じないにしても、お役に立たぬ者と思わないでください。いくらでも兄様と共に戦います」
 義経は、頑なに首を横に振った。
「頼朝殿は執拗に私に迫るだろう。かわいい妹を再び戦火に巻き込みたくはない。どうか、兄の願いを聞き入れてくれ。旅支度を始め、すぐにでも平泉へ」
「でしたら、私は伯耆に行きます。あちらには、どうしても会いたい人がいます。彼に何としても会って話さなければならないこともあります。勇気が出ないままに、一年以上経ってしまいましたが、もう引きのばすのは……」
 義経の顔色が変わる。
「御子。実は、仲影からこのような文を見せられたのだ」
 義経が文箱から文を取り出し、御子に見せた。それは、御子に宛てた信連の文だった。そこには小鴨が村尾の邸に奇襲をかけたとあり、成国を心配して方々探したが見つからないので気がかりだとあった。
「寝付いているお前に見せるわけにはいかぬと、仲影はこの文を私に託した。その折、成国殿のことは仲影から聞いた。私もその後、壇ノ浦での戦の折、情報を集めたが……」
 御子は義経の顔をじっと見つめるが、血の気はだんだんと失せてくる。悪い予感が御子を襲いはじめた。
「信連殿の文にあるように、村尾氏は、成盛殿亡き後、間をおかずに小鴨の兵に攻め込まれたらしい。一の谷の戦で、小鴨はほとんど兵を失わなかったのに対し、村尾軍は壊滅し、数十名の兵が残っただけだったのだ。村尾の力がそがれ、領主が死んだその好機を逃さず、小鴨は攻め入って伯耆をほぼ統一したと聞く。一旦は成国殿とその家臣たちは小鴨邸に連れてゆかれたということだったが、ほどなくして家臣団のみが解放されたらしい。信連殿が解放された家臣に問い質したが、成国殿のその後どころか、その生死も、実は分かっていないということだ」
 御子は、心を失いそうな気がした。
「すまぬ、御子。この事実は、できればお前に告げたくなくて、隠していた」
「兄様、私に馬をくださいませ」
 御子は亡霊のように立ちあがった。左に佩いた太刀をぐっと握りしめた。成国に作ってもらった太刀を、力いっぱい握りしめる。
「兄様……馬を!」
 御子が泣き叫ぶように言うと、義経は焦って御子を抱きしめ、その背を何度も撫でた。
「大丈夫だ、きっと生きている。強い男なのだろう、その成国というのは。ただ、今やみくもに伯耆へむかっても、徒労に終わる。私とて人をやって散々探したのだ。それでも見つからない。もう、かの者は伯耆を出てどこかに身を潜ませているのかもしれない。それに、地方地方で、平家討伐の残り火のような戦がくすぶっている。先日以来、院の召次《めしつぎ》らが次々と暴行を受けておるとも聞く。西国に行くには非常に危険な状況なのだ。頼む、この兄の願いを聞き入れてくれ」
 御子は、どうしようもなく、泣き崩れるよりほかなかった。

 義経に説き伏せられるように平泉行きを承知した。
 その夜――。
 塀の外で、何か音が鳴った。甲冑がぶつかった音だ。
「仲影、起きよ。當子を塗籠に!」
 急いで太刀を掴み、単衣のまま寝殿に走って行く。寝殿に走り込むと、義経もすでに目覚めて太刀を握っていた。
「兄様」
 義経は黙ってうなずく。
 そこへ、義経の家人たちも集まってきた。今日に限って主な家臣どもは出払っている。
「女どもを塗籠へ。動けるものは武具を身につけ、襲撃に備えよ」
 御子も、久しぶりに鎧をつけ、弓矢を負い太刀を佩いた。そうこうしているうちに、兵の気配は邸を囲み始める。
 義経が少ない家人を門の内に静かに集めた。
「中に入れるな。我らが一気に出て防ぐのだ」
 門を勢いよく開き、飛び出る。ある者は塀を飛び越え、ある者は門の屋根にのぼって弓を引く。門はすぐに閉じられた。御子も応戦する。襲撃を目論んでいたところへ逆に攻め出られたので、敵勢は乱れた。
 敵の大将はどこだ――。御子がそう思った時、
「義経殿! 九郎義経殿はどこじゃ! 潔く名乗りを上げよ!」
 と大音声がした。
「我は土佐房昌俊ぞ。鎌倉殿の命により、御命頂戴しに参った!」
 御子の横で太刀を振るっていた義経が、小さく呟いた。
「もう、ここまできては修復不可能だな」
 兄が弟を殺そうとする。何故兄弟の絆が捻じれてしまったのか、御子には理解できなかった。
「判官殿!」
 その声とともに、突然大路の方からたくさんの松明が寄ってきて、その軍の武将が義経を呼んだ。
「行家殿!」
 昼間訪れた行家が加勢に来たのだ。
 突然の援軍に、土佐房昌俊の軍勢は、次第に崩れゆき壊滅状態に陥った。行家は、義経の方へかけてくる。
「判官殿、土佐房は逃げましたぞ。ここは決着をつけたがよかろう」
 義経は、御子をちらりと見て、そしてまた行家に視線を戻した。
「土佐房のことは任せたい」
「承知」
 行家は、すぐに軍勢を連れて後を追っていった。
「御子、今すぐ旅支度をせよ。ここにいてはならぬ。夜が明けたらすぐに京を発つのだ」
「しかし」
「しかしではない。旅程は地図にして仲影に渡してやる」
「兄様はどうなさるおつもりですか」
「しばらくは戦が続くだろう。が、平泉で待って居よ。必ず行くから。約束だ」
 兄と妹は、固く抱き合った。
 義経は、衣冠を整えてすぐ院の御所へ向かい、御子たちは旅支度をし始めた。
 夜が明ける前に、義経邸の門を叩く音がした。
門兵が開けると、そこにはすっかり旅支度を整えた尼君が立っていた。御子が笈《おい》に荷物を籠めて背負い、今まさに出立しようと郷御前に挨拶をし終えた時だった。
 門兵から報せを受けて出てきた御子の手を、尼君は縋るようにとった。
「義経殿から、ともに平泉へ下るよう告げられたのです。足手まといにはなりませぬぞ。婆はこう見えても高階氏の出。血脈をさかのぼれば、天武の帝の血を受け継いでおります。馬にも牛にも乗れまする」
「しかし、尼君、お体に障りましょう」
「義経殿のお気持ちを無下になさるおつもりですか。御子の御身を案じて、この婆に同行を頼まれたのですよ。それに、老婆が一緒にいれば、怪しまれずに済むでしょう」
 それを言われると御子は肯くよりほかなく、仲影、當子、尼君をつれて京を出た。
 一方、院の御所に昇殿した義経は、後白河院の前に畏まっていた。
「覚悟のほどは良いのだな」
 文机にはすでに院宣の書かれた紙が乗ってある。義経が肯くのを確認すると、後白河院は花押を描いた。
「頼朝討伐の院宣を九郎判官義経に下す」
「畏まって承りて候」
 義経は恭しく頭上に掲げた手で院宣を受け取った。これで兄と戦う大義名分は出来た。あとは、やられる前にやるよりほかはない。
「時に判官よ」
「はっ」
「そなた、六条室町の邸に朕の縁者を住まわせておるな」
 義経は、驚いて後白河院を見た。が、
「私にも縁の者ですので。九条院様の許でよく遊んだものです」
「ふむ。まさか娶ってはおるまいな」
「まさか! 妹のようなものでございます。それより、後白河院、御子のこと……」
「下がれ」
「どうなさるおつもりで」
「下がれと申した」
 義経はむっとした。これがあの御子の父親か。なんとも冷たい……。
「御子は、幼き時より、あなた様をお慕い申し上げておりました。けれど、はからずもこのような仕儀となり、いまや御子は心も体も傷だらけです。どうか、どうかお怒りなきよう、この義経、心より懇願申し上げます。なにとぞ、なにとぞ」
「お前はお前のなすべきことをせよ」
 後白河院は、ふいと奥に入ってしまった。
 義経は、その襖をじっと見つめるしかなかった。義経が、力なく退出すると、右大臣兼実と沓脱で出会った。
「右大臣殿、御子が姫宮だということを、院はご承知であると、御子から伺っていましたが、御子の命を取れと命じられませぬのは、なにゆえでしょう」 
「院のお考えになっていることは、我々凡人にはわからぬ」
 兼実は、苦笑した。

 御子たちは、京を出、行程は遅々として進まぬながら、なんとか信濃国にまでさしかかった。東山道沿いの比較的人の集まる町らしく、とある寺の宿坊に一泊することになった。それまでは野宿を強いられていたので、一行は久々に屋根のあるところで休むことができると、僧が用意してくれた一室に腰を下ろすと一同からため息が漏れた。尼君は、倒れ込むようにして畳の上に横になった。
「ああ、何とも命の縮むことよ。旅路がこれほど困難を極めるとは思いもしませんでした」
 そういうと、よほど疲れていると見えて當子に足をもませ、鼾をかき始めた。
 隣の室にも泊り客がいるとみえ、話し声が聞こえる。
「壇ノ浦で平氏をうち破りなさった判官義経殿が、今度は討伐の憂き目に合うとるそうな」
 御子ははっとして聞き耳を立てる。
「なんでも、鎌倉殿追討の院宣を判官殿が授かったと思ったら、今度は判官殿が院より解官され、諸国に義経殿追討の院宣が回っておるとか」
「なんともおそろしい。後白河院という方は天狗じゃ。して、判官、いや解官されたのなら義経殿じゃな、その御方はどうなさった」
「良く分からぬらしい。こちらの北陸に逃げたという噂があれば、大宰府の方へ向かって船に乗ったとか、西国の方へ落ちていったとか」
「西国といえば、丹後、備後、伯耆のあたりは、まだまだくすぶっておるようだの」
「末法の世とは言え、これ程までに世が乱れるとはの」
 御子は、唇を引き結ぶ。ごうごうと音を立てて眠る尼君を見ながら、御子は諦めたように呟いた。
「義経の兄様が、何故旅に難儀する尼君を同行させたかわかった。私を伯耆に行かせぬためだ。穏やかな北陸道奥州への道行きでさえこれほどの困難。まさか尼君をつれて戦の落ち着かぬ伯耆へは行くことかなうまいと考えたのだ」
「義経様の優しさだと思いましょう。まだまだ先は長うございます。御子も少しでも横になられた方が」
「いや、仲影と當子こそ、休むといい。尼君の足は、私がもんで差し上げよう」
 二人は御子の言葉に甘えて横になると、やはり眠ってしまった。御子は尼君の筋張った細い足をやさしくさすった。

三、数珠

 年が明け文治二年二月。
 途中、雪に阻まれて旅路を中断してしまったがために半年かかったが、御子たちはようやく陸奥国に入った。白河庄に入ったところ、官人が平泉に早馬を出したらしく、武士たちが平泉から迎えにきた。
 「院の姫宮か」と問われた時には、長旅の疲れも吹き飛ぶようだった。
 すぐ牛車が用意され、尼君はそれに乗せられた。途中から北上川を船で北上、平泉についた一行は、その荘厳さに目を奪われた。京では考えられぬほどの大規模な寺が目の前にあった。ふと、規模は違えど以仁王とともに戦した宇治川沿いの平等院と似た構造だと御子は感じた。通りから奥を望めば、大きな池の中心に中洲があり、そこに朱塗りの柱の美しい寺が左右対称に翼を開く形で建てられている。こちらからそこへ行くには、緩やかな太鼓橋を渡って行くようになっている。あまりに広大で言葉が出なかった。
「まるで極楽浄土のようですね」
 牛車から降り立った尼君が、思わず手を合わせた。
「さようでございます。奥州は、今の平安を得るために夥しく血を流した地でございますれば、人々の苦しみ悲しみ、そういったものを包みこむような寺を、藤原秀衡様が建てられました。無量光院《むりょうこういん》と申します」
 案内の武士が誇らしげに説明した。
 御子たちは、その東門の近くにある伽羅御所《きゃらのごしょ》という建物に通された。
「こちらは姫宮様の御所でございます。お好きにお使いくださいませ。後程、我が主秀衡様がご挨拶をいたします。まずはごゆるりと」
 案内の武士は一礼し、足をこする音をきびきびと鳴らしながらいずこかへ消えた。代わりに女房どもがやってきて風呂に案内し、御子たちの着替えを手伝った。御子には女装束の小袿が用意されたが、自ら持ってきた直垂に袖を通し、髪を後ろで束ね烏帽子をかぶって秀衡の所へ赴いた。
 金に輝く眩しい屏風を背に、入道姿の老人秀衡が端座していた。その左右に、六人息子が座って御子を迎え入れる。
 御子と尼君は孫廂より内へ入り、仲影と當子は孫廂で畏まった。
「私は……」
 御子は自分の出自を、刹那、口に出すのを憚った。院の血筋を言うべきか、成親の名を出すべきか。院の姫宮と認識されていることはわかっているが、何となく気が引けた。あるいは、ここで、国子と名乗ってもよい。しかし、女性が軽々しく自分の名を人に知らせる習慣は、京にはなかった。
「……わしは陸奥押領使、藤原秀衡と申す」
 御子の様子を窺って、秀衡は、痰の絡まったような声でそういった。
「義経より、院の姫宮を匿ってほしいという文が届いてから、随分時間が経ちましたな。今か今かと、待っておった」
 後白河院の落胤という認識を、わざわざ覆す必要もないと思いなおし、御子は頭を深く下げた。
「かたじけのうございます。我らが身をお引き受け下さり、何と感謝申し上げて良いか。こちらにおりまするは我が曽祖母で、肥後守藤原資隆入道の母です。後ろに控えおりまするは、我が乳母子の源仲影と當子と申します。我ら四人、恥かしながらお世話になり申す」
 そこで、秀衡は初めて微笑んだ。
「わしが用意しました小袿はお気に召しませんでしたかな」
「申し訳ございませぬ。十一の時より男装束に慣れておりますので、すこし、気恥ずかしい気も致しまして」
 秀衡の右隣りに座る男が、くすりと笑った。切れ長の目が印象的な男だった。
「面白いことをおっしゃる姫宮だ。あ、失礼。私は次男泰衡にございます」
 御子は、一礼すると、秀衡の左に座す男に目を向けた。
「私は、国衡と申します」
 秀衡の左隣の男が、丁寧に頭を下げた。やさし気な落ち着いた感じの男だった。
「しかし、姫宮。あなたが女人でよかった」
 秀衡が感慨深げにそういったので、御子ははっと息をのんだ。
 女であってよかったなどと、今まで言われたことがあったろうか。
「院の親王であれば、危のうて、とても受け入れられませんでした。平泉は何かにつけ中立を保っておりますのでな。清盛率いた平家に対しても、朝廷に対しても、そして、鎌倉に対してもです」
 御子があまりにじっと見つめるので、秀衡は年老いて小さくなった目で応じた。
「義経の文で知りましたが、まさかこのような姫宮がいらっしゃるとは。さまざまな貴族や武家の思惑に翻弄され、男の格好で戦を切り抜けてきた姫がいると。身も心も疲れ果てている故、平泉で静かに暮らさせてやってほしいと」
 秀衡は、御子に手招きをする。
 御子は戸惑いながらも秀衡の前に、言われるままに腰を下ろした。
 秀衡は御子の手をとると、しわしわの温かい手で包みこんで、裏返したりして観察した。
「よう御働きなさった。太刀をもつタコ、弓を引くタコ。無数の傷跡。たくさん働いた良い手をしていなさる」
 そう言って御子の目をじっと見つめて、
「ゆっくりなされよ。この陸奥国は魂の安らぐ国。ここにさえおれば、人を殺めることも殺められることもございますまい。今日はもう休みなされ」
 秀衡の微笑みに、このように懐の深く温かい人がいるのだと御子は不思議な気さえした。

 平泉での日々が始まった。長旅の疲れで、尼君は寝ついてしまった。
 御子は、看病の合間合間に、秀衡に誘われて平泉を馬で回った。
 平泉は、荘厳な寺のある都市だった。平泉に入った時に目を奪われた無量光院、秀衡の父基衡の建てた毛越寺、祖父清衡の中尊寺など、絢爛たる寺が人々の暮らしを見守っている。住む人々は京に劣らず雅で人口も多い。戦で衰微している今の京と比べれば、平泉の方が格段に繁栄していた。少し南西に足を延ばせば、古代に、坂上田村麻呂が建てたといわれる毘沙門堂も見られるというので、御子は、秀衡らとともに馬で出かけた。
 その御堂を見た途端、御子の目から涙が溢れた。どう頑張っても止められぬ涙を必死に拭いながら見る毘沙門堂は、規模こそ大きいが、まるで三徳山の投入堂にそっくりだったのだ。涙の止まらぬ院の姫宮を、秀衡は哀れ深く黙って見守っていた。国衡と泰衡は、御子の涙に顔を見合わせ、戸惑っているようだった。
 国衡は、懐から懐紙を引っ張りだし、黙ったまま御子に差し出した。
 館に戻ると、御子は涙を見せた恥ずかしさに、急いで自室に戻った。その後姿を見送りながら、泰衡は、父秀衡に、
「姫宮様の涙は、何故なのでしょうか」
「何故かはっきりとはわからぬが、聞けば十一歳のみぎりより身分を取り戻すために後白河院との確執があったと聞く。その後は戦続きで、大切な人々を亡くしてきたのだろう。なにかを思い出したのやもしれぬな。できる限り気遣って差し上げなさい」
 秀衡は、そう息子たちに告げた。

 数日後、御子は秀衡の居室を訪ねた。が、そこには国衡がいた。
「国衡殿、御父上様はいずこか」
「父は今、船を見に泰衡と出かけておりますが、いかがなさいました」
 国衡は、書類の整理をしていた手を止めて、御子を見上げた。
「実は、尼君が、音に聞く中尊寺金色堂を見たいとひどくおっしゃるので、案内を請いたいと思ってまいりました」
 国衡は、眉を開いた。
「お加減はもうよろしいのですか。ひどく寝込んでいらしたようでしたが」
「あのお方は元来丈夫な性質のようで、元気を取り戻すと所在ない所在ないとうるさくて」
 御子が少々あきれ気味にそういうので、国衡は人のいい笑顔を見せつつ噴き出した。
「それは何よりですが、姫宮様はお困りのご様子。私が金色堂までお供いたしましょう」
 尼君を馬の背に乗せて、御子と国衡は館を出た。中尊寺に着くと馬は入れぬので尼君を下ろし、長い坂道の前に立った。
「さ、尼君、失礼ながら私の背に」
 国衡が尼君の前に背を向けてかがんだ。御子は驚いてそれを止めようとしたが、
「なに、私のためにするのですよ。これで、功徳を積んで極楽に行けると思えばやすいもの」
 と軽口を言って尼君を笑わせた。
 長く急な勾配を上って着いた先には、深緑の森があり、その中を少し進むと御堂が点在する場所があり、そこに突如黄金に輝く御堂が現れる。まばゆいほどに輝く仏が幾体も御子たちを見下ろす。
「こちらが金色堂です。わが曾祖父清衡、祖父の基衡の棺も納められており、藤原家の主が眠る御堂です」
 尼君は、感心したように仰ぎ見る。御仏の黄金色の光が、尼君のしわのある顔を照らしている。
「国衡殿も、では、そのうちこちらに入られるのですね。うらやましいことです。わが身はいずこの土となり果てるやと、不安に思うのですよ」
「婆様、縁起でもないことを」
 御子がたしなめると、国衡は少し楽しそうに笑って、
「残念ながら、私は第一子とはいえ正室の子ではありませんので、ここには入りませんよ。もし入れるといわれてもお断りですがね。こんなキラキラしたところでは、ゆっくり眠ることなどかなわぬでしょう。土の下が、静かで良いかと存じますよ、尼君様」
「そうでしょうか。いかにも極楽浄土の様《さま》ではございませぬか」
 そう言って、尼君がありがたがって拝む。その姿があまりに熱心なので、御子も懐から数珠を出して手を合わせた。
「おや、御子、いえ、姫宮。婆はその数珠をあなたにお渡ししたのでしょうか。この頃記憶が曖昧で」
 尼君の言うことが分からぬ御子は、首を傾げた。
「この数珠は、成親様から頂いたのです」
「まあ、まあまあ! そんなことがあるのかしら。あなたの母君隆子も同じものを持っていたのです。ですから、母の形見として姫宮にお渡ししようと、折を見ていたのですよ」
 母と同じ数珠――まさか、尼君の思い違いではないのか。
 御子はそう思いつつも、気が気ではない。ほかにも案内したいと申し出る国衡を促して、急ぎ伽羅御所に戻った。
 尼君の笈から出された数珠を成親の数珠と並べてみると、果たして、全く同じであった。
 一〇八の玉の内琥珀と水晶が三つずつあり、その他は甘い香りがする伽羅の玉が連なっている。生みの母隆子が持っていたということだが、一つ一つの球が大きく女性が持つには重い。琥珀の玉の一つに凝った彫刻があるのも同じ。だが、両方をきちんと並べて見てみると、少しだけ隆子の数珠の粒が小さく作られている。つまりこれは、対になっているのだ。
 御子は愕然とした。
 つまり、成親と隆子は、同じ数珠を共に持ち合う関係だと、そういう……。
「おや、隆子ったら、数珠の玉を割ってしまったのですね」
 尼君が、老いた目で数珠の粒と距離をとって見ている。
「一度割ったのをまたつけて直しているわ」
「尼君、それは成親卿の方でしょう。母君のはこちら……」
 御子は、母隆子の数珠を尼君に渡そうとして、手を止めた。
 ――違う。私が持っている方が父様の数珠だ。と、いうことは……。
 御子は尼君から奪うように隆子の数珠を取ると、手で触りながら割れた数珠を探す。
「あった。これ、同じように割れた数珠が、両方に同じ場所にあります」
「まあ、どうしてかしら。あれ、御子!」
 御子は、太刀を持ちだして数珠の玉を割ろうとする。折しも入ってきた仲影が驚いて、御子を止める。
「御子、いかがなされました!」
「数珠だ! 数珠に何か仕掛があるかもしれぬ」
「だからといって太刀で割るなど乱暴です。職人を紹介して頂いては」
 数珠のことで尋ねたいことがあるからと言って、国衡に職人を呼び寄せてもらうと、平泉一の職人という老人が道具を携えてやってきた。
「ほう、これはまた高価な品でございますな」
 数珠を持った途端そう言った職人に、御子は割れ筋のある球を指さして見せた。
「これ、ここです。これは何でしょう」
「ううむ。一度割ってもう一度はりつけたようですが、誤って割ったという傷ではございませぬな。職人が道具を使って一旦斬り割っている。その後また張りつけている。が、本来ならもっと傷の分からぬように張るはずでしょうが。なにゆえ、手で触った時にそれとわかるほどの太い傷になっているのか……。もしや、間に何か挟まっているのかも」
「割ってください。中に何が入っているのか知りたい」
「よろしいのですか。元に戻せぬかもしれませぬが」
「かまいません」
 御子が必死なので、職人は道具箱の中から鑿と金づちをだして、一度打った。
 すると簡単に球は割れた。
「おや、やはり中に……」
 職人が割って開いた成親の玉の中にあったのは、衣の切れ端だった。
 本当に小さな布片だったが、青い布で地模様の細かな織りが光っていた。
「あら、これは隆子の単衣の布によく似ています。あの子は皮膚の弱い子でしたから、肌に直接あたる単衣には本当に気を配っておりました。絹でも特に柔らかく良い品をということで……そうそう、それこそこちらの陸奥国産のものを選んでいました。他の者の単衣と区別するために、ほんのり青く染めていたのです」 
 御子の生みの母隆子は、この肌着の単衣の切れ端を数珠の中に隠して愛しい男と交換したと思われる。つまり、母と成親は……。御子が愕然としている内に、今度は隆子の数珠が割られた。
「こちらは、紙きれですな」
 折りたたまれた紙を、職人がそっと破れぬように開くと、花押が現れた。
「誰の花押だろう。父様の花押など見る機会はなかったのでわからない。仲影はどうだ」
「いえ、私もございません。文を頂く時は、たいてい秘密裏のことでしたので、個人を特定できる花押などは書かれておりませんでしたから」
「けれど、どこかで見た気がしますね」
 尼君がそう言ったが、どうしても思い出せないという。
 しかし成親と隆子が対の数珠を持っていたのだ。それは何よりの証拠になるのではないだろうか。つまり、御子は、後白河院の落胤ではない。そういうことになるのではないか。
 御子の胸の中が、寒々しく震えた。
 ――では、父成親は、自分の子を親王と偽って帝位に就けようとなさったというのか。
 成親という人物が、御子にはわからなくなって来た。いったい誰を信じ何を思って生きればよいのだ。今までの自分の人生はいったい何だったのだ。そして今後どうすればいいのか。もうこうなっては、伯耆に戻って成国を探したい。御子はそう思う。
 成国だけが御子にとっては現実で、信じられる確たる存在だった。
 
 御子が平泉に来てから三月たった頃、秀衡に呼ばれ寝殿にいくと、女物の衣が一式用意されていた。
「暖かくなってまいりましたのでご用意いたしました。最高の絹を最高の職人が織り上げて作ったものです。どうか、この年寄りのために、着てもらえませぬか」
 御子は気が乗らない。断ろうかと口を開きかけたそのとき、秀衡に遮られた。
「御髪《みぐし》もずいぶん長くなり、この衣にはようお似合いだと思うのです。わしには娘もおりません。こういう楽しみが、今まではございませんでな」
 御子は断れなくなった。自室に戻って袖を通す。當子と伽羅御所の女房が二人がかりで着せた。女人の正装十二単だ。なかなかの重さに、背が丸くなる。當子に背中をたたかれて、御子はぐっと胸をそらした。
 秀衡に見せたら、また元の動きやすい狩衣に着替えよう。
 そんなふうに思いながら寝殿に行き、秀衡の前に立った。秀衡は老いて小さくなった目を目一杯見開いて頬を紅潮させたかと思うと、御子に駆け寄ってその手を取った。
「姫宮、もう、これでよいのですよ。あなたは姫宮に戻られればよろしいのです。そして、もしよろしければ、泰衡の正室になっていただきたい。泰衡に子はおりますが、正室はおりませぬのです。わしの娘となって穏やかにここで生きなされ。もうつらいことは忘れるのです」
 そういうと、皺の刻まれた頬に行く筋も涙をこぼした。その様子からして、おそらく義経からの文には、詳細に御子のことが書かれていたのだろうと、推し量られた。
「心お優しい秀衡殿。血の繫がりも縁もない私をそのように思ってくださり、かたじけのうございます。しかし、私には、思う人がいるのです。できれば今すぐにでも、その人のいる伯耆に戻りたいのです」
 秀衡は難しい顔をした。そして、御子の手を引いて自分の上畳にともに座らせると、ずいぶん悩んでいるようでさんざん逡巡した。御子は、暖かく大きい秀衡の手を見つめた。
「実は、姫宮が村尾成国とやらをお忘れであればよいと祈っておったのですが……。村尾氏は滅んだという情報を得ております。小鴨が伯耆を支配し、村尾成国という男は斬首されたと」
 顔を上げた。秀衡の顔を、目を大きく見開いて御子は、じっと見た。
 何と言った――? 今、何と言ったのだ!?
「強い領主ではあったのでしょうが、兵の数が揃わず、戦らしい戦にもならなかったと聞いております」
 御子は反射的に、秀衡から自分の手を引き取った。
 斬首だと――?
 あの武勇の誉れ高い成国が、甘んじて斬首されるなど、そんなはずがない。恐ろしく力持ちで、太刀筋も厳しい。頭も切れた。あの、成国が! 伯耆を統一してもよいほどの男だ。その、成国が!
「嘘を申してはならぬ、秀衡殿」
 御子は薄笑いを浮かべて立ち上がった。この老人は、何もわかってはいないのだ。
「姫宮、どうか、お気を確かに」
 秀衡が憐れみを湛えた眼差しで御子を見上げる。その憐みに嫌悪感さえ抱いた。
 御子は踵を返すと、十二単をはためかせながら、長い長い廊下や渡殿を通って自室に倒れこんだ。
「御子様!?」
 當子と仲影が驚いているのも目に入らぬようすで、御子は無言のままに衣装の袖を握りしめて、震えている。が、急に歯を食いしばると、
「こんなもの! こんなもの!」
 と憎々しげに表《おもて》の幾枚かを脱いで床にたたきつけ、乱暴に身軽になると、太刀をつかんで走った。そして厩舎に駆け込んで裸馬にまたがり、そのまま平泉の町を一直線に突っ切った。
 東へ、東へと馬を走らせた。平泉の町の人々は、あられもない格好で姫らしき女が、太刀をもって裸馬を走らせているのに、度肝を抜かれて見送った。
 東に海があると聞いていた。東へ東へ、海を求めてひたすら馬を走らせた。
 随分馬に走らせて、やっと着いた海は、以前伯耆で見た海とは全く違った明るい海であった。汐の匂いは確かにするが、温かい風が湿気を御子の髪に吹きつけ、べたべたとして髪が束になった。
「違う。このような海を、見たいのではない……」
 御子の涙は、風にちぎれて飛んでいく。
「このような、このような思いは、しとうない……成国! 成国、会いたい。会いたいぞ!」
 御子は落ちるように馬から降り、砂の上にうずくまって苦しい嗚咽を漏らし、一頻り泣くと、顔を涙で歪めたまま太刀を鞘から抜いた。
 美しい、よく斬れる太刀だ。成国が作ってくれた伯耆の太刀。
 いまや、自分は院の御子かどうかもわからぬ存在で、慕っていた養父の思惑を訝しみ、このような北の果ての海に一人いる。こうなるとは、このようになるとは、思ってもみなかった。
 御子の心に、あの雪の日の朝の、御子を見送る成国の姿が浮かぶ。黒い艶やかな髪に、大きな体躯で姿勢よく、人を見透かすような底光りのする眼差し――国子と名付け、国子と呼んだその唇。優しい微笑みが、御子の心を斬り刻むようだった。
 ――まことに、もう、この世におらぬのか、成国。
 いくら苦境にあっても、例えば京に自分を探しに来てもいいはずだ。さすれば、後白河院に自分を訪ねてもよい。あるいは、資隆の家あたりで、自分の行き先を漏れ聞いてもいいはずだ。平泉まで来ることがかなわずとも、文の一つくらい、あってもよいはずだ。
 それが、ないのは――。
 ――そうなのか? ほんとうに、もう、いないのか? もう、二度と、会えない、のか?
 太刀を天に指して持つ。刃身に青い景色が写っている。
 天には我が子もいる。成国が赤子を抱いている姿が、瞼の裏に映った。
 手を返して、刃先を首に当てた。
 と、手の甲に、突如激しい痛みが突き刺さり、太刀を落とした。手の甲に矢がつき立っている。骨が砕けたようだ。御子は思わず振り向いた。仲影がいた。弓を手に持ち、足場の悪い砂浜を何度も転びながら必死に御子に向かって走ってくる。
「御子様! 御子様、お許しを! 御子様」
 何度も震える声で叫ぶようにそう言いながら、仲影は御子の右手の甲の矢の篦《の》を折り、自分の袖を引きちぎって結んだ。
「仲影、きさま、主君に弓を引いたか」
「ええ、ええ引きました。構いませぬ。打ち首にでも何でもなさいませ。しかし、御子様、自刃だけはなりませぬ」
 仲影の後を追ってきたのか、国衡と泰衡も、馬から降りて走って向かってくるのが見えた。
「放せ!」
 仲影の手を払うと、砂の上の太刀に駆け寄って左手で拾った。
「御子様、後生でございますから、この仲影の命を代わりにお取りください」
「御前の命などいらぬ! 私は成国と子の許へ行きたい、ただそれだけなのだ! 邪魔立てするでない!」
 御子は、仲影を蹴飛ばした。仲影は、尻もちをついて砂まみれになりながらも、すぐに身を起こして、
「どうか、尼君のことをお考えくださいませ。もし御子様がここで自刃なされば、尼君は衝撃のあまり、身罷られますぞ!」
「尼君がどうなろうと、私の知ったことか! どうせあの方も私の院の御子としての身分を利用しようとしているだけだ!」
 パチン! と仲影が、御子の頬を打った。
 思わぬことに、御子は頬を押さえ、言葉無く仲影を見つめる。
 国衡と泰衡が、青ざめた顔で御子のもとに走りつくと、二人で取り押さえるように御子の手から太刀を奪い、御子の腕を押さえた。
「心にもないことをおっしゃるものではありません。あのご老体で、この長旅をどのような思いで耐えられたのか。どれほどお辛かったか、傍でご覧になっていたでしょう。利用しようなどという下賤なお考えでは、到底できぬことでございます。御子、尼君様を大事になさいませ。あの方だけは、真実、あなたと血の繋がりがある御方なのですから。あの御方のために生きて差し上げねば、あなたの命も意味がなくなってしまいます。このまま死んでしまったら、苦しいだけの人生だったことになってしまうではありませぬか!」
 仲影が泣き叫んだ。まるで喧嘩した幼き日々にしたように、御子の両袖を握って、必死に揺さぶって、泣きながら叫んだ。
「……しかし、寂しい。生き続けるだけの自信がない……」
 御子は、力なく砂の上に腰を落とした。

 御子の手の甲はひどい怪我で、骨を繋ぎ合わせるのに、痛みを伴う施術を受けねばならなかった。骨を並べ直して、布でぐるぐると巻きつけて、動かしてはならぬと異国から来ていた医師に厳しく言われた。
 秀衡は怒って、仲影の罪を問うと言ったが、国衡と泰衡がそれを止めた。
それから後も、御子は何かの折にふいと死にたくなった。自刃を試みたと聞いた尼君がひどく心を痛め、寝込んでしまった。自分に自刃は許されぬのだと思いしらされた。では、せめて、成国の菩提を弔って生きていくしかない。御子は秀衡に頭を下げた。
「尼寺を紹介してくださいませぬか。落飾したく存じます」
 秀衡は、首を何度も横に振った。
「悲しいことを申すでない姫宮。わしの生きておるうちは許すことはできませぬ。わしはそなたが自分の姫のように思えるのだ。どうか、幸せになることを考えてほしい」
 そう言って、平泉中の尼寺に御子の落飾を受け付けぬよう通達をしてしまった。

四、実父

 縁に胡坐をかき、庭木をじっと見つめている一人の男が、膝の上で扇を開いては閉じをくり返している。折烏帽子に濃紺の直垂という衣装だが、およそ武士らしからぬ面構えだ。丸く柔らかそうな頬。鼻の下にはきっちりと整えられた髭。そして、細く、人を訝るような目つき。何か憂えがあるらしく、細い眉を、かすかに寄せている。
 そこへ、一人の家人が足音も静かに近寄ってきて一礼すると、男の耳に何かを囁いた。
 男は、小さく頷く。
「源行家も捕らえられ、あやつの追捕の院宣も取り付けた今、ほかに身を寄せる所は、北以外にあるまい。関守に今一度義経を逃さぬよう通達せよ。――いや、待て」
 男は、白目をむくようにして空を見上げる。そして、唇の端をほんの微かに上げた。
「関守には、義経を捕らえず、いずこからいずこへ向かっているかということのみを見極め、鎌倉に報告せよと触れて回れ」
「しかし、頼朝様、関所で見逃しては、九郎殿は奥州へ入ってしまうのではないでしょうか。平泉には藤原秀衡殿がおられる。かの方の庇護下に入ってしまうと、手出しができなくなります」
「まあ、見ておれ。万事うまくゆくはず。そのためにも、東国の武士たちに話をつけておかねばなるまい」
 家人は、不思議そうな顔をしながら、去っていった。
 頼朝は、誰もいなくなると、不敵な笑みを隠さなかった。

 御子は、ほとんど抜け殻のように、毎日を虚しく過ごしていた。成国の斬首を聞いてから、九ケ月経っても、心ここにあらずで、その日も縁に一人腰掛け、ただぼんやりと庭先の犬の子を見つめていた。
「義経様は……」
 ふいに、御子の横で、當子がぼんやりとこぼした。
 その声が、いつもの當子とは随分違うので、どこかにさまよっていた御子の意識は彼女に向いた。
 しかし、いくら待っても、當子は続けない。御子は、じっと當子の横顔を見た。
 その柔和な横顔は、心持ち空を仰いでいる。長いまつげは震えているように見えた。
「兄上が、心配なのか」
 御子の声に、當子ははっと我に返ったように御子を見て、ふいに鼻の頭を赤くした。
 その表情の変化に、御子は何とも言葉をかけてやれなかった。今まで何も気づいてやれていなかったことを恥じた。
「郷御前は、懐の深い方だし、兄上は幾人も恋人をお持ちだ。こちらに参られたら、私から話してみようか」
「おやめください」
 當子の柔和な顔つきが、急に険しくなった。
「おせっかいにも、ほどがありますわ、御子様」
 ――おせっかい、とは……。
 その豹変ぶりに、御子がまじまじと當子を見つめる。すると、當子はより一層目を吊り上げた。
「放っておいてくださりませ。私はただ、幼少の砌より兄上様と等しく大事にお思い申し上げているだけですわ」
「しかし……」
 まだ続けようとする御子に、當子はキッと眼差しを向けて、
「私には私の生き方というものがございます。御子様とは、違うのですから」
 そういって立ち上がると、足早に奥へ引っ込んでしまった。
 ――私とは、違う……か。
 御子は、當子が眼差しを向けていた空を見上げた。思えば、幼いころから、私は自分のことばかり考えて生きてきたのだ。私以外の人の思いや立場を、私は思いやったことがあったろうか……。成国のことにしてもそうだ。彼の望むようにしていればよかったのだ。
 自分の器の小ささに、御子は、自身へのふがいなさを感じ、情けなくなった。
 ある日の昼過ぎ、ふいに寝殿の方が騒がしくなった。が、御子はわれ関せず、またいつも通りにぼんやりと縁に座っていた。
 仲影が見に行ってしばらくすると、頬を紅潮させて帰ってきた。
「御子様! 義経様がご到着でございます!」
 仲影に腕を揺さぶられて聞くその報に、御子の目は久々に輝きを宿らせた。一も二もなく急いで寝殿の方へかけてゆくと、はたして山伏姿の一行が、秀衡の前で座っていた。周りに集まる家臣たちの間を縫うようにして、御子は歩を進めた。
「秀衡様に戴きました佐藤兄弟を失ってしまい、申し訳ございませぬ」
 聞き覚えのある声だった。
「兄様!」
 御子は義経に縋りついた。
「よくぞ! よくぞここまでたどり着かれました!」
「御子、心配をかけた。約束通り、ここへ帰ってきたのだ」
 義経はちらりと周りの家臣団の顔を見ると、
「さ、姫宮、あちらに。郷が会いたがっています」
 義経に促された女房の案内で、御子は郷御前のいる居室へと向かった。
 郷御前は幼い姫をつれていた。疲れた中にも、郷御前は安堵の表情を浮かべた。
「御子様」
「お子を連れて、よくぞここまで」
 御子と郷御前は懐かしさのあまり、手に手をとった。
「ここまで来れば、私はもう安心と心得ております。途中で赤子も産みました」
 御子は、何度も頷いて、小さな姫を膝に乗せた。
 成国の子も、産まれていればこの子より少し大きいくらいなのだ。御子は、涙が胸に迫ったが、胸の奥に押し込めて笑顔をつくり、赤子のつややかな頬を撫でた。

「歌合せ、でございますか」
 御子は困った顔をした。抜け殻のような御子を心配して、秀衡が歌合せでもすれば気がまぎれるのではないかと口にしたのだ。
「和歌は、習うには習いましたが、どうも不得手でして」
「ああ、なるほど、父院様に似ていらっしゃるのですね」
 泰衡が、いたずらっ子のようにニッと笑って見せた。
「噂では、後白河院は和歌を好まれず、今様ばかりにご執心あそばされているとか」
 たしかに、そう聞いたことがあるが、父院に似ているといわれると、御子は、複雑な思いに駆られた。
「では、琴をお聞かせ願えまするか。お上手だと伺っております。皆が歌を詠む間に、管弦が入りますゆえ、そこに合わせていただきたい」
「いや、お恥ずかしい。京を離れてからほとんど手にしていなかったので、弾けるかどうか」
「姫宮様は馬も上手に乗られるし、弓箭の心得をお持ちです。お手の矢傷ももうだいぶ良いようですし、犬追物《いぬおうもの》などいかがです」
 そう言ったのは国衡だ。義経も、その意見にうなずいた。
「鏑矢とはいえ、犬はやはり痛がります。どうも生き物に矢を向けるのは気が進みませぬ」
 御子がそういうので、国衡が、
「では、流鏑馬にいたしませんか」
「流鏑馬ですか。したことはございませんが、的を馬上から射る、あれでございますね」
「初めてなら手ほどきいたしましょう」
 泰衡は、御子に笑顔を見せた。海辺での一件以来、国衡も秀衡も折に触れて御子を元気づけようとしているのが、御子にも感じられた。少々申し訳ないような気持ちに駆られた。
 流鏑馬に使う的は小さい。が、矢を射る距離は短い。
 ところが、それを疾走する馬上から射とめ、さらに的は割り切らねばならぬ。
 御子は試しに、馬を走らせて射てみた。
 的に当てるのは難なくできた。が、的は割れなかった。近ごろ武具に触れていなかったのと、手の傷のために、弓を引く力が衰えていたようだ。
 御子の弓矢引く姿を初めて目の当たりにした平泉の面々は、眉を上げて驚いた。
 国衡は、遠くから頼もしげに御子を見て、
「なるほど、戦を切り抜けてきた女人ではあるな。そういえば、木曽の朝日将軍のもとにも女武者がいたというのを聞いた。薙刀をふるい、いとも簡単に敵の首をねじ切ったとか」
「おい、鄙びた女武者と院の姫宮様とを同等に語るなど、恐れ多いことをするでない」
 泰衡は、たしなめるようにそういうと、馬上の御子のもとへ駆け寄っていった。
 国衡の後ろに控えていた家臣の一人が、面白くなさそうに口を曲げ、国衡のそばによって声を潜ませた。
「家督を継ぐとはいえ、泰衡様のあの居丈高な物言いは、許されることではありませぬぞ。泰衡様からすれば、国衡様は兄であり、義理の父親であらせられるというのに」
 国衡は、困った顔をして微笑むと、家臣に口を閉じるように手のひらを向けた。仲影はその後ろで首をひねった。
 ――兄であり父親? 義理の、ということだが、どういうことだろう。
「秀衡殿の苦肉の策よ」
 試し矢の後、御子の居室で弓の張替えをしていた弁慶が、仲影の疑問に答えた。横では、義経が、當子に出された白湯を飲んでくつろいでいる。
「秀衡殿の太郎君は国衡殿ではあるが、惜しいかな妾腹。正室のお子泰衡殿が家督を継がれるのだ。泰衡殿の母御は、元鳥羽院近臣で後白河院とも関わりの深い藤原基成殿の娘であり、貴族の出であるのでな。しかし、国衡殿のお人柄を含め、国衡殿に家督を継がせるべきという勢力も、実は強い。それを嫌って、泰衡殿側の家臣団が、国衡殿にあらがう姿勢を見せるなど、この二派は相克する存在なのじゃ」
「そこで、秀衡殿は、自身の正室である藤原基成のご息女、つまり泰衡殿のご生母を、太郎の国衡殿の正室とし、義理の父子関係を国衡殿と泰衡殿に持たせたのだよ」
 義経が、弁慶の後を続けていった。
「なんとも、複雑でございますな」
「まあ、義理の母親との婚姻など、形の上だけの事。ただ、秀衡殿は、ご自身が亡くなられた後のことをご心配なさっているのだ。こう申しては何だが、泰衡殿は血気盛んで少々無謀なところがあり、国衡殿は穏やかに過ぎる。二人の良いところを合わせれば、よい後継者となるのだが……残念ではあるな」
 襖があいて、着替えを終えた御子が入ってきた。刹那、弁慶を見て肩を聳やかした。が、素知らぬ顔をすぐに作って腰を落とし、白湯の入った椀に視線を落とした。仲影と義経は、その様子を見逃さなかった。
 弁慶は、弓を張りおえると、御子のほうに顔を向けて屈託ない笑顔を見せた。
「かなり強く張りなおしましたが、御子のお手に合うかどうか。いま、一矢引いて見せてくださいませ」
 御子は、弁慶の顔を見たが、すぐ目をそらし、
「弁慶殿が張ってくださったのなら、三人張りの弓であろう。それで間違いない。その弓で今日から鍛錬する。かたじけのうござった」
 とそっけなく言って、弓も受け取らずに襖の奥に引っ込んでしまった。
 寂しげな顔の弁慶に、仲影が、
「御子はおそらく、お辛いのです。弁慶殿のお姿は、どことのう成国殿に通じるように思えます。今は、お許しください。きっともうすこしすれば、心も落ち着きましょう」
 義経は、襖の向こうを案じるように、襖絵の松を見つめた。

 木津川の河原で、跪いて役人に肩を押さえられ、重衡が御子の方をにらみつけている。
 ――ふん、天など恐ろしくない。こちらにはこちらの、正義、というものがあるのだ。
 重衡は、口も開かずそういった。そして不敵に笑う。
 役人に押されて頭を一旦下げる。武士が太刀を振り上げる。
 その瞬間、重衡が顔をまた御子のほうにむける。が、その顔は成国であった。
「成国!」
 御子は急いでその処刑を止めようと駆け出すが、全く足がついてこない。いくら足を前へ出そうと思っても動いているのか動いていないのか。とにかく前に進めない。
 太刀は振り下ろされる。
 はっと目を開けた御子の目には、館の天井が見える。心臓が耳の奥で荒ぶっている。息が上がる。のどが詰まる。
「御子様?」
 几帳越しに當子が心配そうに声をかける。が、御子は返事すらできなかった。
 荒い息が治まらぬまま、部屋の中をねめ回す。板戸の隙間が、もうそこまで朝が来ているのを知らせている。
 御子は起き上がると、単衣のまま弓をもって庭に出た。
 矢を付けず、弓を引く。何度も、何度も、ぐっと後ろに引いた。少し手の甲が痛んだ。が、その痛みすら今は救いのような気がする。
 気が狂いそうだ、と思った。何もする気が起きぬのに、何かせねば気が狂いそうだった。手の甲の痛みに意識を向けていれば、自身を保っていられそうな気さえした。
 當子は、それを何も言わず見守っていた。
 一月後、流鏑馬が行われた。
 一直線に貫かれた馬場に、平泉の民たちが見物に集まっている。その最前列に、御子の尼君も座っていた。御子の自刃未遂以来寝付いて弱ってしまったが、御子が流鏑馬に参加するというのを聞いて、是が非でもと外に出てきた。當子が横で付き添っている。その二人の後ろに、仲影が立ってみていた。
「次郎君、泰衡様!」
 名を呼ばれ、泰衡が馬を駆る。土を蹴り上げて、馬が真直ぐに駆ける。
 パンッという響きとともに、三つの的のうち、二つが割れた。民衆から歓声が上がる。
 続いて、国衡の名が呼ばれ、馬の腹をける。的は三つとも見事に割れた。
「さすがは、太郎殿! 母御《ははご》もこの土地の産、血筋が違いますわな」
 国衡の家臣団がそういうと、泰衡側の家臣たちが、
「なに、京人《みやこびと》の血を引いていらっしゃる泰衡様は、妾腹の太郎君に見せ場を作られまでよ」
 いがみ合う家臣たちを、義経は困ったように横目で見てから、馬場へ向かう。馬場に登場した義経を、尼君の横の當子は、ほんのりと頬を紅潮させて見つめる。
 ワッと歓声が上がった。流鏑馬など、歴戦の英雄源義経には、童の遊び程度のことだ。
「次、院の姫宮様」
 民がざわついた。その中で、尼君と當子が手をつないで、馬上の御子を見守る。
「御子は、こうしてみるとずいぶん痩せましたな」
 當子は、心配ないというように、尼君に微笑んで見せた。仲影はその二人の後ろに立ち、御子を祈るように見つめる。この一月あまり、まるで物の怪でも付いたように、御子は矢を射ていた。痩せた、というより、そぎ落とされた。そんな様子だった。
 右手に民衆、真直ぐな馬場をはさんで、左手に的――。御子は、この上なく静かな気持で、一つ呼吸をする。
「はっ!」
 馬の腹をけって、加速する。まず一矢。
 パンッ!
 乾いた音とともに、的が飛び散った。
 民衆は、姫宮の矢が当たったことに驚愕してため息を漏らす。
 パンッ! 
 二矢目が当たると、わっと手をたたいて次を見守った。
 御子は最後の一矢をつがえた。強い弓をぐっと弾く。
 ずきんっ……。手の甲から人差し指にかけて痛みが走った。
 ぐっと奥歯をかみしめ、矢を放つ。
 パンッ! 
 的が真っ二つに割れた。
 民衆は喝采し、湧いた。
 秀衡は、満足そうに何度もうなずいた。
 そこへ、家人が一人、書簡を秀衡に渡した。
「鎌倉より、文でございます」
 秀衡は、顔をしかめて文を握ると、開かぬまますぐに館へと戻っていった。

「義経殿を生け捕りにして鎌倉へ引き渡せ、ですと。おのれ、義経殿の実の兄とは思えぬ」
 国衡が珍しく声を荒げた。義経は、ただ黙って成り行きを見守るように、姿勢を正して、秀衡の顔を見ている。泰衡は唸るようにして腕を組んで、
「頼朝には、ほとほと、嫌気がさします。が、いかがなものか」
 秀衡が何も言わないので、義経は片手をついた。
「われを、鎌倉へお送りください。これ以上、秀衡様にご迷惑をかけられませぬ」
「いや、これはただ単に、義経が鎌倉に行けばよいという話ではない」
「どういうことですか」
 国衡が、父の顔を見た。
「もちろん義経を捕らえたいのだろう。しかし、それ以上に、この平泉を滅ぼしたがっているのじゃ。以前より、何かにつけ無理難題をこちらに押し付けてきた。わしは今まで、平泉の安泰のためと、ある程度は要求を呑んできたのじゃ。先だっての東大寺への献金も頼朝の要望通り、わざわざ鎌倉を通した。しかし、次々に難癖をつけてくる。つまり、本当に何かを要求しているのではなく、平泉を滅ぼすか支配下に置くかしたいのであろう。ここで、義経を引き渡しても、おそらくまた何かと難癖をつけてくるだけじゃ」
「しかし……」
 義経が心配そうに口を開いたが、秀衡は手で制した。
「奴の策略に乗ってはならぬ。そなたを引き渡そうが引き渡すまいが、奴は必ずこちらをつぶしにかかってくるはず。ならば、義経、そなたがここにいて、平泉を守ってくれれば、これ以上力強いことはない」
 義経は、しっかりとうなずいた。

 流鏑馬は終わり、平泉は落ち着きを取り戻し、また日常へと戻る。
 御子は時折、毘沙門堂を一人で訪れた。三徳山の投入堂を彷彿とさせる御堂の前で、御子はただ黙って立ち、成国に思いをはせた。初夏のさわやかな風が、御子の頬を撫でた。
 ――成国、首を落とされるときに、何を思ったのだ。どのように痛みに耐えた? 寂しくはなかったか。死ぬときに、私を思ってくれたか――。
 ふいに、足元に赤い実が落ちているのに気づく。
 ――茱萸か?
 成国がとって食べさせてくれた茱萸だろうか。そう思って手を伸ばしてつまんだ。
 刹那、右手の人差し指にしびれが走った。つまんだはずの赤い実は、ころころと土の上を転がった。
 御子は、じっと自分の手を見る。
 大方治っていたものが、新たに痛みを含むとは、あまり良い傾向とは思えなかった。

 夜半に、仲影は、耳を澄ます。庭に目当ての者が来ているようだった。御子たちに気づかれぬよう、するりと庭に降りて、そのまま御所の裏門の所まで足音をひそめて進む。庭に訪れていた者も、静かについてきた。
「待ちかねたぞ。十月もかかるとは」
 仲影が静かに、しかしいらだちを含ませた声で言った。
「すまぬな。何分、西国は混乱しておる上に、鎌倉の力まで及び始めたのだ。動きが取れぬ日が多々あった」
「そのようなことは百も承知。だからこそそなたに行ってもらったのだ。飛脚では話にならぬのだから。で、お返事はいただけたか」
 物陰から伸びた手には、書簡があった。仲影はそれを急いで手に取るとすぐに懐に入れた。
「時に大和は?」
「二川冠者は、童たちに弓箭を教えておる。河内源氏の三男だった頼朝が朝廷と互角にふるまっておるのが、気に食わぬらしい。それと、母御が少々、お体を悪くされているぞ」
 仲影は、ふと寂しげな光をまなざしに宿らせたが、すぐに顔を上げた。
「では、道中気を付けて」
 そう言って、館に戻った。
 
 秀衡が倒れたのは、流鏑馬が終わってしばらく経った頃だった。
 その頃には、すでに鎌倉の頼朝は、秀衡に義経を差し出せと何度も書状を送ってきていた。苦しい息の下で、秀衡は国衡と泰衡、そして義経三人の手を重ねさせ、
「何があっても互いを守れ。頼朝は、そなたら三人の仲を割ろうとするであろう。しかし、それに乗じてはならぬ。乗ずれば最後、義経だけでなく、この平泉も終焉を迎えることになる。よいな、決して頼朝に翻弄されるでないぞ。出来得る限り知恵で闘え。戦をせずに勝つのじゃ。しかし、もしどうしてもという時は、総大将は義経だ。国衡も泰衡も戦の経験がない。義経に従って勝を収めよ」
 国衡、泰衡は、義経と見合って頷く。が、国衡は、何か悩み深そうに眉根を寄せた。
 病床から御子の方へ秀衡の手が伸びる。
「姫宮、何も心配めさるな。ここに、立派な男が三人もおるのじゃ。今まで通り、平泉は中立を保っていればよい。なに、頼朝とて、むちゃはできまい。鎌倉からこの平泉は遠い。あの男の武力も、東国といっても南側に限られておる。そうそう戦にはなるまいよ」
 御子は、だまって老いた手を握った。何度、この手に触れただろうか。いつも暖かかった手が、今日は冷たく湿っている。御子は、娘が父にするような気持ちでその手を包んだ。
 秀衡は眠ったようだった。
 それを見届けてから、国衡が自室に戻ると、家臣団が待ち構えていた。
「国衡様、また頼朝から書状が参りました。ご決断を! 頼朝とて、国衡様こそが当主と見込んでこのように書状を送ってくるはずでございます」
 家臣団を困ったように見ながら腰を下ろし、受け取った書状を開く。
 そこには、義経を渡せば、平泉に手出しせぬし、今後、平泉の主は国衡と認めて、ともに交流を図るというような旨が認められていた。
 国衡は、その書状を閉じ、すぐに火で焼いた。
「国衡様!」
「静まれ。鎌倉の思うつぼだ。頼朝の義経に対する扱いを見れば、火を見るより明らか。利用だけして、すぐにこちらを切り捨てるつもりに違いない。このような安易な策に、ゆめゆめ乗るでないぞ、皆々方」
 家臣団は、唸るように口を閉じた。 
 その数日後、秀衡は六十七歳の生涯を閉じた。
 翌文治四年に入ると、頼朝からの圧力は一層強くなった。義経追討の院宣を掲げ、義経の身柄を拘束し鎌倉へ差し出せと、今度は泰衡に強く迫ってきたのだ。秀衡の遺言通り、国衡も泰衡も義経庇護の姿勢を取っている。が、この状態がいつまで続くかわからなかった。
 義経の住まいである高舘は、平泉の中でも少し高台にあり、町が見渡せた。御子は今後のことを相談すべきだと考えて訪れた。どうも長男国衡殿は妾腹ということで遠慮する嫌いがあるし、泰衡は、秀衡の遺言を守ろうと必死だが、頼朝に追いつめられている。頼朝は大軍を平泉に寄せると脅して、先日も文を送ってきていた。
「頼朝という男は、蛇のような男でございますね。利用するだけ利用して、意に染まぬとなれば殺す。あのような狭量の男には理解できぬ方法を取ればよろしいのです」
 義経は苦笑いをする。御子は、平泉の地図を広げた。
「この平泉は、北上川に水運を開いております。そのため、南からずっと遠い他国からの象牙や紫檀、伽羅などの珍かなる交易品が参っております。北からは、蝦夷地との交易品が。こうやって財を得る方法を、秀衡殿はとっておられた。かつての清盛も同じくそうやって財を築き、力を蓄えたのです。清盛に関しては、腹立たしくとも、そういう面での視野の広さに感服致すところもある。ところが、同じ敵とはいえ頼朝の頭では、こういうことは思いつきますまい。彼のしていることは、力でもって周囲をねじ伏せ、自分の支配下に置こうとすることだけでございます。彼の目に映っているのは、この国だけです」
「御子、私にもよく分からぬ。私は太刀を振るうことしか学んでこなかったゆえ」
「兄様、船です。船に乗って日本国でないところへお逃げ下さいませ。郷殿と姫をつれて」
「逃げよと申すか」
 義経は愕然とした表情で御子を見た。
「情けないことを申すな、御子。我は武士ぞ」
「なればこそ、機を見て動かねばなりますまい。とりあえずは、夷狄島《いてきじま》へ。あそこなら言葉も通じましょう。ここで生き延びねば、郷殿と姫が不憫でございます」
 義経は頭を抱えた。
「御子にこのようなことを言わせてしまうほどに、私の身は窮しておるということか」
 義経は懐から一通の巻紙を出した。
「頼朝追討の院宣まで頂いたこの我が身であるのに、今度は兄頼朝にこの義経追討の院宣を下されるとは、後白河院とは、天狗のごときお方じゃ。御子の父院とは思えぬ」
 御子は、なんとも複雑な気持ちになった。
 ――兄様、私はどうやら、院の子ではないのです。そう言ってしまおうかと義経の横顔を見つめた。
 義経は、巻紙をくるくると開いてじっと見つめるも、ため息をつく。御子は、何の気なしにその巻紙を覗いて、はっと息をのんだ。
「兄様!」
 その巻紙を義経の手から奪った。
「気をつけよ、院宣なるぞ。破れでもしたらいかがする。が、そうだな、もう単なる紙切れに相違ない……」
 そう言って自嘲する義経の横で、御子は院宣の最後を睨み、手を震わせた。
「この、花押……」
 義経は、御子の様子がおかしいので心配げに見た。
「この、花押、は……どなたの」
「後白河院だ。これは院宣だからな。目の前でお書きくださったのだ」
 御子は、懐から布袋を急いで出す。指が震えてなかなか袋が開けられない。なんとかして中から、数珠に挟まっていた紙切れを取りだした。それを院宣の花押の横に並べた。
 御子は、息をのんだ。
「同じ……同じ花押……」
 御子は呆然とした。
「どうしたのだ、御子」
「やはり、我が父は、院なのでしょうか」
 義経は不思議そうに御子を見ると、噴き出した。
「何をいまさら。御子は、後白河院の御子であるに相違なかろう。顔つきは違えど、所作はよく似ている。特に、何かに心を傾けているときや、誰かを睨み付けるときなどは。離れていてもここまで似るとは、血とは恐ろしいものよ」
 しかし、義経の言葉は、もう御子の耳には入っていなかった。
 ――なぜ、この数珠を父様が持っていたのだ。
 何度も何度も、成親に数珠を渡された時のことを思いだす。
 ――何があってもご身分を軽んじられませんようにと、決して御身をお疑いなさいませんようにと――
 そして、成親は懐から数珠を出したのだ。折れて腫れあがった指で差し出したのだ。
 本来、隆子と院の間で交わされたはずの数珠。それを、なぜ成親が持っていたのか。そしてなぜ、最後の最後で御子に渡したのか。御子にはその裏で何が起こっていたのか、想像もつかなかった。
 数珠に挟まっていた花押が後白河院のものである以上は、自分が院の子であるに違いないと、長年の疑念が晴れた安堵はあったものの、何故か喜びの感情は湧き上がってこなかった。ただやっと今まで靄がかかっていたような一天四海のこの世が、明らかにはっきり見えたような、目が開いたような感覚になった。

五、義経の最期

 鎌倉の鶴岡八幡宮に頼朝の参詣する姿が、ある朝あった。文治五年三月のことである。
 御堂を出て階段に向かうと、目元の涼やかな女人が幼子の手を引いて待っていた。頼朝は女人の前まで行き、幼子のもう片方の手を握ると、三人で長い階段を降り始めた。
 階段を下りきったところに、家人が片膝をついて控えている。意味ありげに、頼朝に目配せをした。頼朝は小さく頷くと、
「政子、先に館へ帰っておれ」
 そういって、女人と幼子を牛車に乗せて見送った。家人が頼朝に近づき、
「頼朝様、一条能保殿のご使者が、参着しております。平泉の返事を携えられているご様子」
「そうか……。京の大天狗も、もうこの長《なが》の戦に嫌気がさしているとみえて、天王寺で参詣中にもかかわらずわざわざ兼実殿に、早く義経を追捕するよう伝えて、念を押したそうだ。いよいよだな。平泉が落ちれば、あの大天狗もこの鎌倉をぞんざいにはできまい。北は常陸から南の筑紫まで、出兵の準備をしておけと触れを出す」
「筑紫、まででございますか」
 家人が驚いて顔を上げる。
「平泉に戦意を喪失させると同時に、この国はこの頼朝が動かすということを、京人に知らしめるのだ」
 頼朝は白目がちな目で遠くを見た。

 伽羅御所に郷御前と四歳になる姫が訪れてきた。初夏の新緑が目にまぶしく、キラキラと輝くよく晴れた日だった。
 御子は、懐に姫をかき抱くと、その甘い柔らかさに疼くような幸いを胸にともらせる。姫が嫌がって、母の郷御前の方へかけていってしまうと、寂しげな目をした。
「姫宮様がせっかくかわいがってくださるのに、もったいないこと。お前が大きくなった時には、姫宮様に抱いて頂いたことが良い思い出になりますよ」
 郷御前は、屈託なく笑う。
 そこへ、當子が鮮やかな萌黄色の小袿を持ってきて郷御前に差し出した。
「郷様、お持ちいたしました」
「では、お借りいたします。かたじけのうございます」
「明日は、管弦なども入るのですか。藤原基成様と言えば、御子の父、後白河院様と主従でいらっしゃいますもの、きっと雅な会になるのでございましょう」
 當子がそういうと、
「さあ、私にはよくわかりませぬ。ただ、義経様とともに呼んで頂いただけですから。御膳を頂くだけかもしれませんわね。もし雅な会であっても私にはわかりませんわ。私は武蔵国の女です。管弦やお歌は、ご縁がございませんもの」
 そう言って、大事そうに御子の小袿を両手で持って、帰っていった。
「なんですの」
 御子がもの言いたげに見るので、當子は居心地悪そうに言う。
「いや、私にはまねのできぬことだ。よく平気な顔を装える」
「平気と言えば平気ですし、そうでないと言えばそうではございません」
「訳のわからぬことを言う」
 御子が不思議そうに言うと、ふいに足音がして、義経が顔をのぞかせた。
「郷は帰ったか」
 不意打ちを食らって當子の顔は真っ赤になった。が、すぐに逃げるように奥へ引っ込んでいった。
「當子はどうした」
 義経が不思議そうにそう言って、どかりと御子の前で胡坐をかく。すぐ後ろから、仲影が追いついてきて、義経の横に腰を下ろした。
「當子は、兄様がお見えになったので、白湯を用意しに行ったと思います」
 御子はそう言ったが、つい小さく笑ってしまった。さすがの當子も、心が動いたと見える。あいにくというべきか幸いというべきか、義経は全く気付いていない。
 しばらくして白湯を携えて現れた當子は、いつも以上に能面のような表情で、白湯だけおいて出ていこうとした。
「當子、ここへ座らないか」
 義経が呼び止めた。當子は、表情を崩すことなく、御子、仲影、義経とともに向かい合って座った。
「こうしていると我ら四人、まるで幼い頃のようではないか」
 御子の胸に、四人で書を読み、様々なことを話し合った日々が駆け抜けた。
 それは、この場の全員の胸におなじく甦った。
 幸せな日々だった。何も知らないが故の、何も始まっていなかったが故の、取り戻せない幸いの時――。
 仲影も、義経も、當子も、そして御子も、誰からともなく手をつなぎ合い、微笑み合った。

「今頃、衣川館は、基成様の饗応に賑わっているでしょうね」
 翌日の夕暮れ、當子はそう言いながら大殿油に火を入れて、御子の膳を下げた。このごろやっと、以前と同じように御子が食事をとるようになったので、當子にすれば一安心というところだった。
 五月初夏の夜。日は長くなったとはいえ、もう、庭は暗く、大殿油の灯りも届かない。
 御子は、何の気なしに、影にしか見えぬ庭木を見つめていた。気楽な平泉の、御簾も下がっていない部屋から見る、夕闇ににじむ庭木の影が、ふいに、うごめいたように見えた。
 目の錯覚か――そうおもっていると、闇から不意に、見知った顔が現れた。
 あまりのことに、御子は声が出ない。ごくりと息をのむ。
「ご無沙汰を、お許しください、御子様」
「覚山坊……」
 そう一言いうのがやっとだった。存外に小ぎれいに身を整えているが、相変わらずの旅装の僧だった。
「おっしゃりたいことは、多々おありと存じますが、今は、私の言をお聞きください」
 御子は何も言えず、ただ見つめるだけだ。覚山坊は続けた。
「義経様が、危のうございます。泰衡が基成殿の衣川館にいらっしゃる義経様を捕らえんと、兵を差し向けた様子です」
「……何? 何を言っている」
 御子が事態を飲み込めていない様子なので、覚山坊は無遠慮に縁に上がってきた。
「あの男、泰衡という男は、もしかしたら御子様をも害するかもしれません。この伽羅御所にも数人の兵を潜ませております。すぐさま、わしとともに、平泉を出ましょう」
 覚山坊を間近に、いよいよ御子は目を大きく開けて見つめていたが、眉間に深くしわを刻むと首をひねった。
「今、義経の兄様のことを言ったか?」
 そう、確認するように言うと、勢いよく立ち上がって、大声を上げた。
「仲影! 仲影!」
 覚山坊はひるんだが、逃げずに御子を見つめた。
 何事かと焦って駆け付けた仲影は、はっと覚山坊をみて、刹那動きを止めた。
「太刀を持て! 兄様が一大事だ! 覚山坊も来い!」
 はじかれるように仲影が太刀を御子に投げ、御子は武具もつけず太刀と弓矢を負い、覚山坊の襟首をつかんだ。
「行くぞ、兄様をお救いするのだ!」
 三人は、闇の迫る外へ飛び出した。
 伽羅御所からすぐ北へ向かったところに、衣川館はある。御子が駆け付けたときには、すでに軍兵が館を囲んで、戦闘が始まっていた。
 御子たちは、館の築地塀を飛び越え、兵を斬って奥へ奥へと進んでいった。
「兄様! 兄様!」
 途中、見知った義経の家臣たちが太刀をふるうのを横で見ながら、彼らが守っている奥へ奥へと、戦を切り抜けて進んだ。
「弁慶殿!」
 御子の声に、弁慶が大薙刀をふるって、泰衡と基成の兵をなぎ倒し、
「主《あるじ》は、奥にいらっしゃいます! 恥のないようお計らいくださいませ!」
 その言葉に、御子は青ざめ毛が逆立つようだった。
 つまり、敵の手にかかる前に自刃するというのだ。それが終わるまで、敵兵を近づけさせぬようにしてくれと、弁慶は言ったのだ。
「わああああ!」
 御子は叫び声をあげながら、弁慶が敵兵を抑えている脇をすり抜けて、奥へ入っていった。そこには、持仏堂があり、扉は固く締められている。
 御子はその扉に激しく体当たりして、押し破った。
「兄様!」
 はたしてそこには、義経が小太刀をもって座っていた。
「兄様、早く! ここから逃げましょう!」
「御子!」
 後ろから仲影に肩をつかまれ、御子ははっと息をのんだ。
 義経の傍らには、四歳の姫と郷御前の亡骸が、すでに転がっていた。御子が貸した萌黄色の小袿が、郷御前の血に赤く染まっている。
「そんな……! そんな!」
 御子は、幼い姫の頬に手を当てた。まだ温かい。生きているようだった。
「御子、妻子を先に行かせた。この二人を、浄土で放っておくわけにはいかぬ」
 義経は、御子の頭を乱暴に胸に抱いた。
「楽しかったなぁ、御子。この世は残酷だったが、私は精いっぱい生きたぞ」
 義経の声を頭の上で聞きながら、同時に義経の心の臓の力強い音を聞いた。
「兄様、嫌です」
 義経は、御子をさっと押しのけると、仲影に目で合図した。
 仲影と覚山坊に両肩をつかまれて、御子は兄から引き離された。
「御子、我が妹らしく振舞え。私の自刃を守ってくれ」
 御子たちの背後から、大勢の兵の足音が迫った。
「さらばだ!」
 義経は、小太刀を自らの首に突き刺し、外に引いた。
 血しぶきが御子の顔に走った。
「兄様! 兄様ー!」
 御子の肩を押さえていた仲影と覚山坊の手が、ふいに外れ、代わりに冷たい感触が、御子の首に触れた。
 振り向くと、泰衡が御子の首に太刀を当てていた。仲影と覚山坊は、兵たちにとり押さえられてえられている。
「姫宮様、困りますなぁ、勝手をなされては」
 泰衡は、目を吊り上げて御子を見下ろしたが、その奥に転がる義経の骸を見ると、より一層不機嫌そうに眉をしかめた。
「生け捕りとはいかなかったが、まあ、よい。鎌倉殿は首だけでも良いとおっしゃったらしいからな」
「泰衡……、貴様……!」
 御子の声に、泰衡はふっと笑った。と、次には、太刀の柄で御子のこめかみを強か撃った。
 御子の世界は、真っ暗になった。

六、父の愛

 御子は、目を開くとすぐに飛び起き、横にあった太刀を手にして抜いた。
 が、太刀を握る手はがたがたと大きく刻むように震え、しっかりとしない。
「御子!」
 そばにいた仲影が御子の手を握って、太刀をそっと取り上げると、何も持たぬ右手がひどく荒ぶるように震えて止まらない。手の甲から人差し指にかけて、激痛が襲っている。
 痛みに顔をゆがませる御子を、仲影は心配そうにのぞき込んだ。
「御手が痛むのですか」
 御子ははっと顔を上げた。
「いや、恐ろしさで震えているだけだ。どうやら夢ではなかったらしい」
 そう言ったとき、初めてこめかみにも痛みが襲っていることに気づいた。こめかみを押さえて血が出ていないことを確認する。
「泰衡め、手加減ということを知らぬ」
「手当てができればいいのですが、ここには何もございませぬ」
 仲影は心配そうに、御子のこめかみに手を添えた。
 そこで初めて、御子は自分がどこかの暗い一室に籠められていることに気づいた。
「泰衡様が、こちらへ御子をお運びなさったのです。戸の外には兵が控えており、閂がかけられております」
「當子や尼君は、いかがなさっただろう。覚山坊は」
「ここに」
 光の届かない隅の影から、覚山坊が声とともに姿を現した。
「兄様は、あの後どうなさったのだ」
「泰衡が首を落とし、酒を満たした櫃に封入しました」
「つまり……鎌倉か」
 覚山坊はうなずいた。
「郷様と姫は」
「分かりませぬ」
 御子は両手で顔を覆った。右手の甲はいまだに痛むが、胸の痛みがそれを上回る。幼き姫の亡骸が、瞼の裏に強く焼き付けられている。
 扉の外で、声がした。
「姫宮様、国衡でございます」
 兵に閂を開けさせて、国衡が入ってきた。左頬に、殴られた跡がある。
 国衡は、御子の前にかしこまって頭を垂れた。
「このたびの仕儀、非常に申し訳なく、お詫び申し上げます」
「国衡殿も、兄様の首をお求めになったのか」
 国衡は顔を上げて御子を見た。胡坐をかいた膝の上の握った拳が、力強く震えた。
「恥ずかしながら、泰衡の独断でございます。義父として兄として、全く気づくことができず……。実は、以前に幾度となく鎌倉殿からは九郎殿と引き換えに平泉の家督を私に継がせるなどという文が参っておりましたが、ふつとこのところ途絶えておりました。なぜ途絶えたかを、考えるべきでした」
「国衡殿を篭絡するは難しいとみて、泰衡殿に的を変えたということですね」
 国衡は、悔しそうに顔をゆがめた。おそらく泰衡とやり合ってできた頬の傷なのだ。温厚な彼が殴り合うほどに、無念でならなかったのだろう。
「九郎殿は、私にとっては兄弟と同じ。胸が、引き裂かれるようです」
 御子は、うなずいて国衡と見つめ合った。二人の間には、義経があった。
 国衡は御子を保護すると言って見張りの兵の制止を押し切って、毛越寺の南側の西木戸に構える国衡の館に御子の居室を置くことになった。
 居室にはすでに尼君と當子が保護されていた。
 當子は御子を真っ赤に腫れあがった眼で迎えた。泣いて泣いて泣き切った。そんな目をしていたが、泣き言は一切口にしなかった。
 尼君は、憔悴しているようだったが、御子の無事な姿を見ると駆け寄って、顔や手を撫でまわした。
「かの判官殿の末路が、なに故こうなるのか、この婆には腑に落ちませぬ。一の谷で、壇ノ浦で身命を賭して戦い、京を守った御方であるのに。神仏はいかようにお思いなのか」
 尼君の嘆きを、御子も同じ思いで聞いた。
 
 昨日の喧騒が嘘のように、平泉の今朝は静まり返っている。御子は、當子の寝顔を几帳越しに確認すると、音をたてぬようそおっと縁に出た。新緑越しに浴びる朝日は、昨日と同じく御子を照らし、昨日とは全く違う重い心を抱え込んだ御子を苛んだ。大切な人は、次々に死んでしまう。自分だけが、まだのうのうと生き続けている。そんな気がした。
 ふと気配を感じて振り向くと、少し離れた後方に覚山坊が片膝をついて控えていた。
 しばらく、二人とも何も言葉を発しなかった。が、ふと、
「ただただ兄様の自刃を止め申し上げられなかったのが、胸に迫ってやまぬ」
 御子が声を潤ませると、覚山坊は、
「しかし、義経殿がここで逃げては、恥と申すもの。御家人衆も華々しく散って主君をお守りし、義経殿も生きたまま首を取られることなく、自刃なさったのです。これぞ武士の死に様ではございませぬか。あのまま御子が義経殿をお逃がし申し上げていれば、御名に泥を塗ることに」
「生きてこそであろう! 兄様なら必ず再起を果たされたはずだ」
「お分かりになられぬも無理はない。御子様は弓矢とられる御身となられてはいても、やはり宮様なのです。武士の道とは、別の道を生きていらっしゃる」
 御子は恨みがましいような眼差しで、覚山坊を睨み付けた。
「そもそも、今の今まで、どこで何をしておったのだ。いや……」
 御子は一旦口を閉じた。そして、声を静かにして続けた。
「今になって、何故まだ私と関わろうとするのだ」
「……あの後、もう二度とお会いすべきでないと思い、京を去りました。しかし、いかようにも申し訳なく……」
 御子は、最後の言葉に引っかかった。控えている覚山坊の間近にまで歩いていき、見下《みおろ》した。
「申し訳ない、とは、何のことだ。私に対して覚山坊が自責することなど一つもありはしないではないか。我が兄の二条帝を呪詛し奉ったことか。それとても、呪詛に力はないと言い切っていたし、私がそのことで父院に疎まれても、そのように仕向けたはそなたではなく安倍泰親とかいうあの陰陽師であろう。そなたがいったい何の責めを負うというのだ」
 覚山坊は、朝の涼しい空気の中、こめかみに汗をにじませた。
「答えられぬのか。ならば、私が答えてやろうか」
 覚山坊は、恐れるような眼差しで御子を見上げた。
「父様《ととさま》――いや、成親卿は、私を駒と考えたのであろう。後白河院の血を引く子が生まれ、その子をひそかに養育する。院は、その子を恐れている。その恐怖心を使って、院を自在に操ろうと……」
「違います!」
 覚山坊は声を上げた。
「そうでは、ございません。確かに、院のお力を自在にしたいとは思っておりました。しかし、御子の存在で院を恐れさせようとしたわけではございませぬ。御子を……姫宮を帝位につけ申し上げようと、思っていたのでございます」
 覚山坊は、砂の上に額を押し付けて絞り出すように言った。
「女であると知りながら、それはいかにも無謀であろう。嘘を申すでない」
「……成親の子たちの中には、大変頭の切れる姫君いました。政をよく理解するその姫を中宮とすれば、御子が女であろうと天皇として敬愛し、中宮としての責務を果たすはずです。そして……」
 覚山坊は言いよどんだ、が、震える声で、
「そうしてご即位させ申し上げたのちに、後白河院に女であると知らせれば、前代未聞の一大事に、後白河院もなすすべなく、我らと手を組んで政をせずにはいられなくなります」
 御子は、あまりのことに言葉を失った。
 そのような無謀なことが通ると思ったのか。そのような恐ろしいことを、あの父が、あの優しい父が、考えていたのか――!
 御子は、覚山坊にぶつけるべき言葉が見つからず、おもむろに彼の肩に、草履をはいた足を乗せた。そして、何度もぐいぐいと押すように、蹴った。しかし、覚山坊はただただ耐えている。それがまた憎らしく、しだいに御子の頭に血が上ってきた。
「何故、権力というものは、そこまで人を愚かしくさせるのであろうな。兄様の首を取られることを恥と、お前は言ったが、兄様ほど美しく生きた人はおらぬであろう。なにが恥であるか、よくよく考えてみるがよい!」
 御子は、力いっぱい覚山坊を蹴飛ばした。
 覚山坊は、後ろに転んだが、すぐにまた畏まって、砂の上に額づいた。
「しかし、これだけはわかってください。成親は、口では今のようなことを言っていましたが、本心はどうだったかわかりませぬ。赤子であった御子様が愛おしくて弑し奉れなかったのも、その後、心優しい九条院様に養育をお任せしたのも、あなた様を自分の懐に入れてかわいがっていたのも、すべて、嘘には見えません。ただでさえ忙しい上に、正室殿のご不興を買いながらも、何度も九条院様のもとに通って御子様の成長ぶりを愛しんで見守っていたのが、私は本当の成親だと、そう感じているのです」
 御子は覚山坊に背中を向け、拳を握って、目をぎゅっとつむった。
「親密であったというのに、御身の血を引いた赤子を殺せという無情なご下命を賜った院への、おそらく恨み心が募った成親の――苦しい成親の迷いでございました。その迷いを見て、ご即位、政権の謀奪を成親の耳に囁いたのは、この、覚山坊なのです。赤子を抱いて我が宿に相談しに来た成親に、付け入ったのです。最も責めを負うべくはこの私なのです」
 御子は、振り向いた。が、そのまますぐに、居室に入った。
「成親に罪はないのです! 成親は、御子を大事に思っていたのです!」
 庭では、涙と砂で顔を汚した覚山坊が、必死に声を上げていた。
 妻戸を閉めても、覚山坊の声は聞こえていた。
 部屋に入った御子は、當子と目が合った。
 何と声をかけるべきかと見つめる當子の前を、御子は黙ったまま通り過ぎ、奥の襖の向こうに身を隠した。
 御子の瞼の裏には、配流前の、折れた指で数珠を渡した時の父成親の姿が、配流先へ向かう舟の上から、御子を見つめていた父の小さな姿が蘇っていた。

「さようでございますか、惜しい気もいたしますなぁ。あの方は英雄でした」
 院の御所で、九条兼実が残念そうにつぶやいた。後白河院から義経の自刃を聞かされたのだ。後白河院の手には二つの文が握られていた。
「して、覚山坊の文には、御子様のことは?」
「うむ、ひどく嘆いておるらしい。あれと義経は幼い日にともに遊んだというからな……。そのようなことより、鎌倉からの文が気がかりである。不遜にもほどがあろうと思うが」
 後白河院は、文を兼実の前に放り投げた。兼実はそれを手に取って一読すると、眉根を寄せた。
「二位卿は、いまだ平泉に執心していますな。義経殿の命を取らせたのは、本当は平泉が目的だったのではないでしょうか」
 後白河院は、うむ、と唸ってしばらく考えてから、
「今一度、我が命とそちの御教書を添えて、戦をせぬよう頼朝に下命しよう。もう、戦は倦んだわ」
「院のご下命でも従わぬのに、我が御教書ごときを添えたところで、二位卿が従うとは思いませぬが」
「とりあえずは、そうせよ。なに、院宣なくば大義立たず。最終的に院宣を出さねば、いくら頼朝とて、平泉に戦を仕掛けることはかなうまい」
 ――院は、本当に飽きたという理由だけで戦を止めようとなさっているのだろうか。平泉の御子様のことを、もしかしたら慮ってあそばされているのかもしれぬ。
 兼実は、静かに恭しく礼をした。

 文治五年六月――。
 頼朝のもとに、京から飛脚が帰参した。都からの文を一読した頼朝は、フンと鼻で笑った。御家人の一人が、興味深そうに次の言葉を待った。
「後白河院め、義経を討ったは喜ばしいことであったと。自ら官位を授けたうえ、この頼朝の首を取るよう義経に院宣まで下していたというのに、白々しいことだ。さらには、もうこれで国中は平穏を取り戻すであろうから、弓矢を収めよとある。関白兼実殿からも同じ内容の御教書が届いておるぞ」
「では、奥州攻め入りはお取りやめになさいますか」
「後白河院は、タヌキだが、やはり狸どまりよ。わしが何を目指しておるのかなど、わかろうはずもないわな」
 頼朝は、たのしそうに白目がちな目で文を見た。
 その数日後、奥州から泰衡の使者が義経の首を持参したという知らせが来た。
 頼朝は、憚ることなく唇の端を上げた。
「九郎の首は、腰越で実検するがよい。間近で顔を見知っている和田義盛、梶原景時が滞りなく済ませよ」
 名を呼ばれた両者は、はっと返事すると、急ぎ退室した。
「よほど、九郎殿を鎌倉に入れたくないのであろうな、頼朝様は。九郎殿には御労しいことだ」
 邸の門を出たところで、和田義盛がそうつぶやくように言うと、梶原景時は、ふんと鼻を鳴らした。
「和田殿は甘い。罪人は罪人。いくら足が無うなっても、鎌倉の地を踏ませることなどあいならぬのさ」
 はっはっはと、自らの言葉に妙を得て高笑いする景時の背中を、義盛は首を横に振って見送った。
「自らの讒言によりあの兄弟の仲違いを招いた男の言では、あるよの」
 和田義盛、梶原景時は、鎧直垂に甲冑姿の郎従二十騎をそれぞれ従えて腰越に赴いた。いまだ義経の人気は衰えず、首を奪おうとする輩が出ないとも限らないことを警戒してのことだった。
 例に反して、たいそう身分の低い者が義経の首を担いで運んできたのを見た武士たちは、義経の末路の不憫さを目の当たりにして、涙を流さぬ者はいなかった。
「まさしく義経に相違ない」
 引き揚げた義経の顔をぞんざいに酒の中に放り込んだ景時を見て、嫌悪感を抱いたのは義盛だけではなかった。自らが以前補佐していた武将への不埒な態度が、人々の反感を買ったというより、義経への信頼と憧れが、武士の間には根強く残っていた。

七、忠衡兵革

 後白河院はこの上なく不機嫌なまなざしで、文を握りつぶした拳を見つめた。
 幾度となく泰衡討伐の院宣を求める頼朝からの文に対し、院は戦を中止せよとの返答を送ってきた。しかし頼朝は全く受け入れない。
 九条兼実は、はらはらと胸の内収まらぬまま、静かに院の表情を見守った。いつもの院なら、ここで怒りあらわに鎌倉を押さえる武将を呼びつけるところだ。しかし……。
「しかし」
 兼実の気持ちが院に通じたか、後白河院がうなった。
「今の頼朝を押さえるべき武将がおらぬ。求められるままに義経追討の院宣を出したのが、いまさらながら悔やまれる。義経が平泉で存命であったなら、平泉に院宣を出すのだが」
「御子様は」
 つい、兼実がそう口にして、すぐに後悔した。後白河院は大きな目でぎょろりと睨み付ける。
「もうよい、下がれ」
 兼実は、静かに頭を下げ、院の御前を辞した。
 誰もいなくなった。
 後白河院はしばし、考えを巡らすように、脇息を引き寄せて両肘を置き、身を預けた。手のひらをすり合わせると、乾いた音がしゅるしゅると鳴った。
 朕も、齢を重ねたか――。
 乾燥した掌をじっと見つめると、ふいに文机に向かった。

 かつて秀衡が座した金屏風の前の上畳に、泰衡は腰を落ち着けている。すぐその横に、国衡が座し、その二人に向かい合うように、三男忠衡をはじめ、高衡、通衡、頼衡が座っていた。
「鎌倉は、攻めてこぬと言って参りましたか」
 忠衡が、今や平泉の主となった泰衡を、大きな猫のような目で睨み付けるように吐いた。
 泰衡は、むっと唇を引き結んで、吊り上がった眼で弟を見た。
「物見の報告では、鎌倉に軍兵が次第に集められておるとのこと。何のための軍備かは、明白ではありませぬか。だからあれほど、義経殿を大将軍に、鎌倉を迎え討とうと申しましたものを!」
「黙れ! 国主は私だ。今お前の命あるをありがたく思え。義経と軍備を整えようとしたお前を生かしておるのは、この私であるのだ」
「黙りませぬ! 兄上は、父上のご遺言を何と心得られる。あれほど切に、頼朝の策に乗じてはならぬ、義経殿を大将軍にせよと言われたのに。もしこのまま、鎌倉が実際攻め上って来れば、いったい誰が太刀打ちできましょうか。我々には実戦経験が……」
「黙れ! 黙れと言っておろうが!」
「二人とも落ち着け! ここで言い争うても、益はなかろう」
 国衡が見かねて仲裁に入る。
「今は亡き義経殿を頼りに話はできぬ。このまま院宣が下されなければ、さしもの鎌倉とて、ここ平泉への進軍などできるはずもない。ひるがえってこちらはすでに泰衡が押領使を拝命しているのだ。平泉における軍事支配権もこちらにある。まだ始まらぬ戦にやきもきしてもしかたがあるまい」
 主とはいえ、義父である国衡に諭され、泰衡は口を閉じた。
 なにも、権力を掌に収めたいわけではない。ただ、曾祖父から続いたこの平泉の繁栄を受け継いだ以上、何としてでも存続させねばならぬという重責に、身が押しつぶされそうだった。
 鎌倉もさることながら、加えて頭の痛い問題があった。院の姫宮の存在だ。義経を討伐した自分を相当に恨んでいるはずだ。もし、父の後白河院に讒言でもされれば、平泉討伐の院宣は、すぐさま鎌倉に下されるだろう。いや――
「たしか、後白河院には認めてもらえぬご落胤ということだった。となれば、憂うることもないかもしれぬ」
 ふと、泰衡は言葉をこぼした。それを拾った忠衡の眼差しに力が宿ったことに気づく者は誰もいなかった。
 詮議は何一つ決まらぬままに終わり、秀衡の子息たちはそれぞれの館に帰るべく泰衡の前を辞した。
「兄上」
 西木戸に向かおうと馬にまたがった国衡の後ろから、馬上の忠衡が駒を進めてきた。
「姫宮様はいかがお過ごしでしょう。一度お見舞い申し上げたいのです。このままお供してもよろしいですか」
「そうだな、姫宮様と歳も近いお前がお見舞いに参上すれば、喜びなさるかもしれぬ」
 二人はそのまま御子の居室へと向かった。
 すると御子の姿はなく、仲影が対応した。
「ただ今御子様は、金鶏山に行かれています」
「そなたは供をせぬのか」
 国衡が気をもんだように言うと、
「亡き大殿様を偲びたいとおっしゃって、このごろ一人でよくお出ましになります。覚山坊が従っておるはずですから、ご心配には及びませぬ」
「兄上、我らも久方ぶりに金鶏山にまいりませぬか」
 忠衡に促され、国衡も向かうことにした。
 金鶏山近くになって、国衡が感慨深げにつぶやく。
「父上がこの経塚を築かせなさった当初は、ただ土が盛ってあっただけだったが、今や山と呼べるようにはなったな」
 うっそうと茂る下草と、ある程度育った高木を、父を懐かしむよう見上げた。
 二人は馬を下り、山に足を踏み入れる。しばらくすると、覚山坊の背中が見えた。振り返ると、静かに頭を下げた。
 国衡にとって、この覚山坊なる僧兵は未知の者ではあったが、仲影はじめ當子たちとは旧知のようであったし、なにより、義経襲撃の際、御子に付き従っていたのを見ているので、とりあえずはこの平泉に置いている者であった。
 先に進もうとする二人を、覚山坊が手のひらを見せてとどめた。
「何人《なんぴと》も近づけるなとのご命令でございます」
 足を止めた国衡の脇を、忠衡はすいっと数歩前へ行った。
 そして、目を見開いた。
 御子は、手に重りを括り付けて、腕を上げ伸ばししていた。額に汗をかき、歯を食いしばって、肩を震わせて、腕を鍛えているようであった。が、ふうっと一息つくと、手の重りの紐をほどき、次には太刀を手に取った。
 鞘から抜いて、ことさらに気を配るようにして太刀を握った右手を左手で包む。そして、太刀をふるった。気合を発し、まるで舞を舞うようにひらりひらりと太刀をふるう。
 忠衡の後ろから見ていた国衡は、ふと違和感を抱いた。意図して右手のみで太刀を持たず、両手で太刀を支えて振るう鍛錬をしているように見える。
「姫宮様!」
 覚山坊が困った顔をしているのにも気づかず、忠衡が屈託なく声をかけ、御子はびくりと肩を聳やかした。
「さすがですね、義経様をお救いに討ち入った時、姫宮様の太刀筋に見惚れたという武士が幾人もおりましたのも頷けます」
 御子は振り向くと苦笑いを見せた。
「御見苦しいところを。ここ数年で随分腕が落ちました故、今のうちに取り戻そうと鍛錬していたのです」
「今のうちに、とおっしゃいましたか」
 国衡は、ドキリと動く胸を、思わず手で押さえた。
「戦がある、と……?」
 国衡は、押し黙ってしまった。
 西木戸の館に戻った三人は、御子の居室で膝を突き合わせた。
「頼朝は、たしかに義経兄様の首級を欲してはいたでしょう。しかし、獲物はそれだけではないはず。今や、父院様でさえ抑えられぬ鎌倉勢。このままでは、おそらく父院様は、我らに鎌倉を討てとおっしゃる。今まで数多の武将たちを利用してきたように。それを見越して頼朝は、先手を打つでしょう。平泉に鎌倉追滅の院宣が下され賊軍となる前に、平泉を一気につぶしにかかる。そうして、朝廷と同じ、いやそれ以上の力を得ようとするに違いありません」
 忠衡は、不思議そうに御子を見つめ、
「逆ではありませんか。院宣は、鎌倉に下るのではないでしょうか。鎌倉からは、院のご意向も、義経様を匿っていた罪は晴れぬということだと書いてありました。それに、頼朝は、生け捕りにせよとの命に背き、我が弟を誅殺し、首を送ってきたことも許せぬと」
 御子は、鼻で笑った。
「頼朝の言いそうなことですね。父院は、決して平泉討伐の院宣は下されないでしょう。なぜなら、平泉の存続こそが朝廷を守るからです。鎌倉にこれ以上力を持たせてはならないと考えているはず。だから、院宣が下るとすればそれは、鎌倉追滅ということに」
 国衡は、みるみる青ざめた。
「なるほど、どの方向へ命運が動いても、我ら平泉は、鎌倉と一戦交えることになると」
「姫宮様」
 忠衡が、御子の方へ膝を進めた。
「義経様亡き今、平泉を率いる方は姫宮様のほかありませぬ。義経様が果たされるべきであった大将軍をお引き受け戴けませんでしょうか」
 思わぬ申し出に御子は驚愕を禁じえなかったが、国衡の驚きは比ではなかった。
「何をたわけたことを申すか。姫宮様を迎え入れた父の思いを忘れたか。戦から離れて平穏に生きていただきたいと、そう……」
「戦から離れられぬでしょう。平泉が戦になるのですから」
 忠衡はまっすぐ、御子の目を見つめた。御子は、その猫のような澄んだ瞳を見返したが、ふいに右手の甲に視線を落とした。が、すぐ顔を上げて、
「大将軍は、私では勤まりますまい。平泉の誰もが追従する人物でなければ」
 そう言って、国衡を見た。国衡はぎょっとして御子を見つめる。
「陸奥の主は、泰衡です。父の遺言に背くつもりはありません」
「もちろんその通りです。しかし、実際に戦が起これば、国衡殿が実質先陣を切って戦うことになりましょう。その際には、一武将としてお供することは可能です。しかし今は、来るべき戦に備えて策を講じておくべき時。奥州と東国の地図をお持ちください」
 本当にそんなことになるのだろうか、と国衡が言葉を失う横で、忠衡のまなざしはいよいよ力強く輝いた。
「やはり、国衡の兄上が家督を継がれればよかったのです。父上のことは尊敬していますが、このご判断だけは、私は納得いきません」
「めったなことを口にするな」
 国衡は、急いで忠衡を諫めた。ここには泰衡の生母が、国衡の正妻として同じく住まいしている。侍女も大勢控えているのだ。どこにどう伝わるかわからないと、国衡は肝を冷やした。
 そして、残念ながら、その危惧は当たっていたのだった。
 御子の居室の襖に耳を当てていた者が、音もなくその場を離れていった。

「父上、一大事でございます。お人払いを」
 そう言いながら無遠慮に、藤原基成の居室に入ってきたのは、泰衡の生母、国衡の正室であった。齢五十ほどではあるが、いまだつやつやとした長い髪を束ね、黛を額に施した京風の化粧を施している。
 基成は、困った顔で娘を見、そして開いていた文を急いで巻き取って懐へ隠した。
「三男の忠衡殿が、謀反を起こすやもしれませぬぞ」
「何をまた……」
「悠長に構えている場合ではございませぬ。先ほど、国衡殿がお帰りの際に、忠衡殿と院の姫宮とをお従えになっていて、珍しいこともあるものよと思い至り、侍女を忍ばせておりましたところ、案の定、忠衡殿は、国衡殿が家督を継ぐべきであったとか、姫宮に大将軍になってほしいだとか、無謀なことを言いやったそうな」
 そうまで聞いても、基成は困った顔をしただけだった。
 我が血を受け継いだ泰衡がかわいくないわけもなく、家督を継いでくれたのは心底うれしいが、正直言えば、国主の器にあらず、とみている。忠衡がそう口走るのも無理はないようにおもえた。それに、国衡は落ち着いた性格である。裏を返せば思い切ったことなどできぬ男。とても謀反など起こしようもないし、もし忠衡が二心《ふたごころ》ありとしてもそれをすぐに抑えるだけの良識ある男だ。
 基成が娘にそう言うと、
「では、院の姫宮に関してはいかがなさる」
 と目を吊り上げている。
「いくら院の姫宮だとて、これだけ男衆がいる中で、表へ出る隙も無い。先だっての義経公のことに関しては、ご縁の深かりし間柄であったので動かれたに過ぎない。お前は泰衡のことになると見境がないのがいけない。慎みなさい。兄弟間で少々意見が食い違っているだけの事。些末なことを大きく見せては、後々の平泉に影響を及ぼす。女子は黙っておれ」
「んまあ!」
 特に最後の言葉がカチンと来たらしく、父上に相談したのがそもそもの間違いであった、などと言葉を吐きながら、帰っていった。
 その気配が消えるのを待って、基成は懐から先ほどの文を取り出す。
「後白河院は相変わらず勝手なお方だ。散々放っておいた姫宮であろうに。全く、こちらの身にもなっていただきたいものよ」
 そう言って、頭を抱えた。

 御子の前に、国衡が地図を広げた。御子はまず、今のうちに、奥州の南に鎌倉の進行を防ぐ要衝を築くべきだと話した。
「簡単に北上させぬだけの要塞を築く必要があります。しかし、急を要するので、できれば自然の地形を生かしたい。どこかこの辺りで適当な場所はありますか」
「なれば……、ここはいかがでしょう。阿津賀志《あつかし》山は、自然の要塞ともいえるのではないかと存じます」
「その山の周りに、堀を築きましょう。人員は裂けますか」
「現地の者の力を借りれば、巨大な堀ができましょう。早速触れを」
「ちょっと待ってください、これは――」
 御子は阿津賀志山から少し離れたところにある、二筋の並行してうねる線に指先を滑らせた。
「この阿武隈川というのは、どれほどの川ですか」
「かなりの水量がある川ですが」
 御子の脳裏に、伯耆合戦で小鴨が用いた策が甦った。
「では、堀の一端は、この川の土手近くにまで掘り進めておいてください」
 国衡は、じっと御子の指先を見つめ、
「堀池を作るのですか」
「さて、その時に応じて空堀のままで行くか堀池にするか、または、水害を起こさせるか」
 国衡は眉を開いて、腑に落ちたように頷いた。
「この阿津賀志山だけでは非常に心もとない。できればその周辺にも、拠点を設けておいた方がいいでしょう。しかし、あくまでも要衝は阿津賀志山です。まずはこちらを整えて下さい」
 国衡は、しっかりとうなずいて御子を見た。
「姫宮、あなたのお力添えは、まことにありがたく思っています。しかし、戦が始まる前に、できれば奥州を離れていただきたい」
「ご負担になっているのでしょうか。お邪魔せぬよういたしますし、戦となれば微力ながらもお力添えはできると」
「いいえ、そうではなく。やはり、父が望んでいたように、あなたには平穏に生きていただきたいのです。私には平泉の外に知己もなく、あなたをお任せできる行く先も持ち合わせておらぬのがつらいのですが、とにかく奥州さえ出てしまえば、御身は……」
「行く先など、ありませぬ」
 御子はふいと寂しい目をした。
 その眼を見て、国衡は口を閉じた。
 ――そうだった。この姫宮は愛しい男を亡くし、父からも疎まれ、行く先がなくここへ迎え入れられたのだ。ここで出て行けなどと言ってはいけなかったのかもしれぬ。
「国衡殿のお心、ありがたく思いますが、お邪魔でなければここにおいてください。合戦となれば、先陣のお供をいたす準備はすでに整えております」
 国衡は黙って頭を下げた。

 忠衡の館に、五男の通衡が参じたのは、六月中旬の夜更けだった。すでに物の具に身を固め、武装した家臣団も忠衡の館の内に収まった。
「わしに賛同してくれてうれしいぞ、通衡」
 まだ十代半ばの弟の肩を抱く。武具と武具がぶつかる音がすると、忠衡は武者震いをした。
「泰衡の兄上の横暴には、私とて腹に据えかねておりました。義経様にかわいがっていただいた恩もございます」
「うむ」
 忠衡は、通衡の肩を抱いたまま、縁に向かい、庭に畏まる兵たちを見下ろした。
「此度の狙いは殺戮でも家督争いでもない。我らが望むのは、ただただ平泉の安寧だ。よって狙うは、泰衡の身柄だけでよい! 身柄を拘束して、国衡兄上に家督を譲らせるのだ。ただし、それを阻むものあれば斬って捨てるのみ! いざ、出陣!」
 門が開き、選ばれた百有余の軍兵は、足音を忍ばせて雪崩出た。ところが、外には、武装した数百騎が取り囲み、門を固めていた。
 行軍が一向に進まぬので、何事かと忠衡が門の外へ出た。
「ようやっと出てきたか」
 武装した騎馬の間から割って出たのは、聞き覚えのある声の男だった。その男が手を上げると、その後ろの軍勢は一斉に松明をつけた。
「我が弟ながら、謀反人は謀反人よ」
 忠衡は、馬上の男を見た。松明に照らされた顔は兄泰衡だった。
 忠衡に味方した軍兵は、及び腰に身を震わせて大将からの指示を待った。が、大将である忠衡は、何の命も下さず、太刀を抜いて切っ先を泰衡に向けた。
「兄上は、何もわかっていないのだ。このままでは平泉は滅びる。兄上にだけは、奥州の主は務まらぬ!」
 泰衡の怒りに満ちた眼差しが、忠衡を貫いた。
「弟であればこそ、一度は許したが、ことここに至っては、容赦の余地はない」
 泰衡が手を上げると、武将が二人、忠衡めがけて駒を進めた。
 忠衡は太刀をふるって応戦しようと試みたが、まるで歯が立たず、必死に応戦しているうちに、いつの間にか飛んできた矢が、忠衡の脇にいた通衡を貫いた。
「通衡! 通衡!」
 通衡が息も絶え絶えに倒れて動かぬのを背中に守りながら、忠衡が馬上の武将の太刀を躱す。と、また一矢ひょうっと飛んできて、忠衡の首を貫いた。
 忠衡が最後に見たものは、自分に次の矢を向ける兄泰衡の姿だった。

 国衡は、家臣から急を知らされ、急いで忠衡の館に馬で駆けつけた。しかし、着いてみれば事が収束した後であった。遅れて御子も馬で駆けつけたが、夜陰の中見たものは、引きずられてゆく忠衡と通衡の骸と、拘束される百人あまりの兵だった。
「義経殿では飽き足らず、血のつながった弟までをも手にかけたのか」
 屋敷に土足で上がり込んだ国衡は、泰衡を見つけると、珍しく怒声をあげてその襟首をつかんだ。すでに急を聞きつけた泰衡の祖父藤原基成もその場にいた。
 国衡が襟首を絞めても、泰衡は抵抗もせず、首をつかまれ揺さぶられるまま、何も言わなかった。我慢ならず国衡は泰衡の兜を取り外して放り投げる。と、そこには涙にぬれた泰衡の顔があった。国衡は、慮外のことに何も言葉が出ない。
 そこへ駆け付けた御子も、ぐっと言葉をのんだ。しかし、両手に拳をつくって、気持ちを振り絞って言った。
「泰衡殿のお立場も、わからぬではない。しかし、これはいかにも過ちである。取り返しがつかぬことを!」
 すると、泰衡は、涙もぬぐわぬまま国衡の手首をねじってはずし、自分の首を撫でて御子を睨み付けた。
「姫宮、どの口がうそぶいておる。そなたとて我が意に染まぬ。義経に縁のある者は、いっそのこと一掃してもよいのだぞ。忠衡は、そなたを大将軍にしたいと言ったそうではないか。ここに!」
 泰衡は自分の胸板を拳で叩いた。
「ここに! 奥州の主がおるというのに! なにゆえ人は、ほかの者を崇めるのだ! 私は純然たる国主ぞ! 押領使として朝廷にも認められておるというに!」
「これ、そう申すでない!」
 基成が、血相を変えて泰衡の肩をつかんだ。そして、かすかに耳元で囁いた。
「姫宮に手を出すでない。朝廷から睨まれることになるぞ」
 泰衡は、信じられぬという目で祖父の顔を間近く見る。
「院からの文に、姫宮の様子をうかがう内容があった。弑し奉れとも安んじよとも明らかにはご下命はないが、御心にかけておられることを言外にあらわしたものであろう。ここで姫を害し奉っては、まことに平泉は滅んでしまう」
 泰衡は、歯を食いしばった。とおもえば、次には笑って見せた。
「わしは手を下さぬ、爺様。戦が、姫宮に制裁を下すであろうよ」
 基成と泰衡がこそこそやっているのを聞くことはできなかったが、不敵な泰衡の笑い声が、御子の心を寒々しく打った。

八、阿津賀志山の合戦

 金鶏山の南に、ひっそりと石が二山積んである。
 その石に向かって、御子は両膝をついて手をそっと合わせ、瞼を閉じた。しばし黙して、ゆっくり目を開けると、小さい方の石の山に優しく手を置いた。
「忠衡様と国衡様がこのように墓所を御作りにならなんだら、郷御前と姫君の骸は、今頃捨て置かれたのでしょうな」
 少し距離を取って、覚山坊が静かにいう。
「ここも、戦場になるやも知れぬ。この墓石が鎌倉方に蹴散らされぬようせねば」
 御子が立ち上がってそういうと、覚山坊は眉をひそめた。
「ここに鎌倉方が入っては、もう、平泉はおしまいでしょうが……御子もやはり御出陣なさるおつもりですか。この戦は、今までの戦とは違い、御子の戦ではないはずです。京にお戻りなさるべきです」
「いまさら京に戻ってどうする。父院は、私を心底疎んぜられている」
 御子は、左手で自分の胸元をぎゅっと握った。
「今でも時折思い出すのだ。あの、得体のしれぬ陰陽師の真っ赤な薄い唇を、蔑み愉しむかのような眼光を……! そして、父は、かの者の思うままに私を押さえつけさせ、お姿を奥へお隠しあそばされた。戻ってもまた、あの陰陽師に動かされる父を見るのは、哀しい」
「安倍泰親なら、もうこの世にはおりませぬ」
 御子は、思わぬことに、覚山坊を見た。
「御子に無礼を働いた直後、もともとあった病が悪化し、身罷ったようです。そもそも、御子に無礼を働いた時は、すでに病のために陰陽頭を辞しておりましたのに、院のお召しによって参内していたようですな。御子が女人であることも見破れず、偽道と言われて衝撃が大きかったのやもしれませぬ」
 では、父院はあの陰陽師の言《げん》に惑わされることは、もうないのだろうか……。
「ですので、京にお帰りになられては」
「いや」
 御子は、顔を上げ、今は泰衡の住まいする秀衡の館に目を向けた。
「受けた恩はお返ししたい。それに、頼朝と一戦交えるのは、私の戦でもあるのだ」
 覚山坊は、はっと眉を開き、御子の向こう側にある積まれた石に目をやった。
「この戦が終われば、京にお帰りになりますか」
 御子は答えなかった。
 頼朝のもとにはどんどん軍兵が集まっていると聞く。筑紫から馳せ参じる者もいるし、鎌倉からこの奥州へ向かう道々の国も、軍備を整えているようだった。そういう情報が、日々、平泉に届けられている。
 熾烈な戦闘になるのは、必至。できれば、曾祖母の尼君と當子は奥州から逃したいと思う。そのためには仲影もともに旅路についてもらわねばならぬ。しかし、あの仲影がそれを承諾するとは思えない。
 自分が落胤であろうことはおそらく疑うべくもないが、今に至っては、父院に御子と認めて戴きたいと、ことさらに思っているわけではない。そのような人間に、仲影や當子を従わせる道理があろうか。いくら血が繋がっているとはいえ、尼君を、行き先もわからぬ自分の旅路につき合わせるのも、気が引ける。
 ――もし、もし万が一にでも、この戦で生き残ったら、きっと仲影と當子を解放するのだ。わが愛すべき乳母子たちを、私という呪縛から自由にして、尼君とともに京に帰すのだ。そして、私は――私はどこへ行くだろう。どこへゆけば――。

 鎌倉の頼朝のもとには、参戦の下命を受けた者たちが大勢集まってきていた。が、いつまでたっても、後白河院からの奥州追討の院宣は与えられない。頼朝としては、院宣を錦の御旗に、自らは征夷大将軍として平泉に入り、平定ののちには自身の名を日ノ本にとどろかせたいという思惑があった。
 そこへ、院からの文が来たというので、頼朝は喜び勇んで院宣を目にしようと文を開いた。しかし、そこには、戦はしないがよい。今集めている軍兵も解散させるようにとの言葉しかなかった。
「解散だと!? 寝ぼけたことを! これだけの御家人を鎌倉に召し集めているというのに、解散などと愚かしい。何故征夷大将軍を任命せぬのだ。この日のために、京や院の御所の修復費用を相当賄っていたというのに」
 頼朝にしてはめずらしく、こめかみに血管を浮かせて唾を飛ばす。一時期は険悪な一触即発の頼朝と後白河院だったが、ここ数年は双方歩み寄りによってある程度関係は落ち着いていたはずだった。この落ち着いた関係にするために、後白河院の求めに応じて、京の戦後処理や天災の被害復旧など多額の費用は、鎌倉から随分出したのだ。まるで利用されるだけされているような心持ちになり、頼朝は歯噛みをした。
 と、大庭平太景能という古老の武士が、
「軍陣中では将軍の命を聞き、天使の詔は聞かずと申します。すでに、こちらは奏聞しているのです。院からのご返答は不要でござりましょう。この鎌倉に結集している軍勢が日数を費やせば、御家人衆の負担となります。御出陣なさるのに、何の憚りがありましょうか」
と進言した。
 頼朝は白目がちな目を大きく開いて、抑え切れぬ笑みをこぼし、ついに奥州追討を決めた。

 鎌倉勢は、大きく三手に別れ、頼朝が大手軍として中路から、大将軍千葉介常胤が東海道、大将軍比企藤四郎能員が北陸道から攻め上がることになった。
「わしは、先陣を畠山次郎重忠に奥州へ向かう。東海道の大将軍千葉介常胤率いる一軍は、常陸・下総国両国の勇士を引き連れ、宇大、行方《なめかた》を経由し、岩城・岩崎をとおって阿武隈川の湊を渡ったところで我らが大手軍と合流せよ。また、北陸道の大将軍 比企《ひき》藤四郎能員、宇佐美平次実政は、上野国の住人らを動員して、越後国から出羽国 念種関《ねずがせき》に出て合戦せよ」
 頼朝は、御家人たちの前に大きな三つの地図を並べて一つにし、扇で要所要所を指しながら指示を出す。
「しかしながら、ひとつ、心もとないことがある。それは、謀《はかりごと》に優れた者がおらぬことだ。軍師となるものがおらぬことには、甚だ懸念を抱いておる。誰か評判の者はおらぬか」
 頼朝の問いに、和田義盛、梶原景時らは、困ったように顔を見合わせる。
「残念ながら、坂東武者は、勇ましさが華、知略に長けたものなど……」
 そう言いかけた和田義盛の脳裏に、義経の姿が甦った。勇ましさに加えて、凡夫には及びもつかぬ策略と決断力。義経ほどの武士には、おそらくもう出会えぬだろうと思った。
 その義盛の顔を、じっと見守る頼朝が、義経に思い至ったのか不機嫌そうな目をした。
「仕方がない。その分軍勢を多く寄せる。奥州勢が見たこともないほどの軍兵が、どっと押し寄せるのだ。泰衡の驚く顔が見られるぞ」
 頼朝は、唇の端を片方だけ上げて、不気味に笑った。

 頼朝がいよいよ出陣を決めたという知らせが平泉に届けられた。
 泰衡、国衡、御子は、主要な家臣たちとともに、詮議を重ねていた。奥州の玄関口を守る阿津賀志山には、すでに国衡の家臣が出向き、現地の者たちと派遣された兵たちによって、城壁と堀が築かれていた。
「先陣は、兄上にお任せしようと存ずるが」
 泰衡の目に、国衡はしっかり見つめ返して頷いた。
「姫宮には、兄上の軍師をお願いしたい。先陣であるからには激戦が予想されるが、よろしいか」
 まるで仕返しをする悪童のように泰衡は目を光らせて御子を見た。が、御子は涼しい顔で頷いた。
「もとより承知です。お気遣い無用」
 泰衡は、面白くなさそうに、それでも目には光を湛えたまま、奥州の図に視線を移した。
「爺様はここ平泉の守りにとどまっていただく」
 基成は、うなずく。
 準備を整え、御子は阿津賀志山へと出発した。
 當子と尼君は平泉にとどまり、平泉の留守を守ることになった。仲影も平泉にとどまるよう、御子は強く言ったが首を縦に振らず、覚山坊に尼君たちの守りを任せ、御子の従者として共に出陣した。
 泰衡、国衡とともに、軍勢を率い南下する。鎌倉方ほどではないにしても、長距離の行軍だった。
 姫宮の甲冑姿を、武将や兵士たちは珍しそうに見る。兜の下から流れ出る長い髪が、いくら束ねようとも鎧の綴りや紐に絡み、先は馬の尻にまで絡んで、御子の自由を奪った。
 行軍一日目の夜。
 泰衡が陣を敷く国分原《こくぶがはら》の鞭楯《むちだて》の寺で宿りをすることになった。御子は、仲影が褥を整えている間縁で待っていたが、ふいと思い付いて、髪を短くしようと小柄を取り出した。が、膝ほどまで下がった長髪のどこに刃を当てようか、迷っていた。
「御子、何をなさいます」
 出てきた仲影が、上ずった声を出して思わず御子の手をつかんだ。
「案ずるな、髪が長すぎて戦に邪魔なのだ」
 そういって、肩の辺りに刃を当てようとするのを、仲影は再び止めた。
「尼削ぎはよろしくないのでは。殺生する尼など聞いたことがございません」
「僧兵には許されて尼には許されぬというか」
 仲影は困ったように笑って、
「當子がおればよかったのですが……。お許しいただけるなら私が」
 そういって御子から小柄を受け取ると腰の辺りで切りそろえた。
 そこへ、国衡がやってきて、感心したように、
「いくら家臣と言えど、小柄を持たせて髪を切らせるなど、私にはとてもできません。周りに人がいるならともかく」
 御子と仲影は、見合って笑った。
「私たちは、乳兄妹。互いに害することなど、あるわけがございません」
「しかし、姫宮様、世の中そうともいえぬのです。仲影殿を大事になさいませ」
 御子はしっかり頷いた。仲影は胸に誇りを秘めたように、表情を引き締めた。
 この世に生まれ落ちて二十四年、仲影とは長い付き合いである。時に喧嘩もし、幼きときなどは泣かされたことも多々あったが、いつも自分を支えてくれた欠きがたい存在だった。
 翌早朝、ここ苅田郡《かったぐん》に城郭を構える泰衡の軍と別れ、国衡と御子は、二万の軍を率いてさらに南下した。
 途中、広瀬川、名取川に罠を忍ばせる者たちを置いて、昼過ぎには阿津賀志山へ到着した。
 城に入ると、さっそく空堀の様子を見に要塞の外へ出た。阿津賀志山の周辺にかなりの長距離に及んで堀が出来上がっている。その堀に沿ってさらに三重の防塁で大要塞を築いている。鎌倉方は巨軍である。できれば攻め方に回って南下したいところではあるが、ここから南は土地すべてが敵になる。そうなれば、おそらく防戦一辺倒で、迎え撃って持ちこたえられるか、が重要になってくる。
 先陣の阿津賀志山城塞の以北には、途中の泰衡の陣を含めて、処々の城に将軍を置いて備えとし、出羽の方にも防衛線を張った。
 御子は、国衡とともに防塁の上に立って堀を見下ろしながら、
「敵の足を防ぐ空堀として使えるうちはそのままでよいでしょう。しかし、機を見て、敵の軍勢が空堀に満ちたとき、あるいは防塁が危ういという時には、阿武隈川との境を壊して一気に水を引き入れます。大将軍は、国衡殿です。あなたのご判断で堰を切る時をご命令なさいませ。私は、もう少し、周りの地形を確認してまいります」
 御子と仲影は、馬の背に揺られて、堀の外側へ出た。
 阿津賀志山はその背後の北方面には、標高は高くはないものの、山が連なって自然の要塞となっており、鎌倉軍を迎え撃つはずの南と東側は平野となっていた。御子の危惧は、堀へとつづく阿武隈川の堰が、平野部に展開していることにあった。御子は、そちら側に鎌倉方の兵を入れさせぬようにせねばならないと考えた。
「姫宮様」
 声をかけられ振り向くと、国衡の家臣の一人佐藤基治が馬を走らせて近寄ってきた。基治の息子二人は、先代秀衡からの命で義経に従ってずっと戦を続けていた。ちらりと顔だけは見たことがある程度だが、義経から彼らについて話は聞いていた。兄は屋島の戦いで、弟は、都落ちする義経とはぐれた後、京に潜伏しているところを捕縛され命を落としたらしい。
「先ほど、物見が到着いたしまして、頼朝の大軍がもうすぐそこまで迫っているとのことです。国衡様が姫宮様をお探しです、急ぎ戻られますように」
 いよいよ、その時が来たのだ。
 御子は、初めて武者震いを覚えた。

「二十八万ですと」
 武将金剛別当秀綱が思わず声を上げた。
 国衡をはじめとする重臣たちが額を突き合わせている。
「二十八万というのは、あくまでも鎌倉軍の総数です。名簿上はそうなっているらしいということで、それらがすべてこの阿津賀志山に攻め入ってくるわけではございません」
 物見から帰ってきた兵士が、秀綱の動揺をなだめようと念を押した。しかし、秀綱のおびえた大きな声は陣営の外に伝わり、陣幕の外にいる軍兵をざわつかせた。
 ――まずい。
 御子は直感した。恐怖心が先立てば、人は判断を誤る。ここは、何とか不安を払拭するような言葉を吐かねば……。
 御子がそう考えていると、国衡が、
「それだけの軍勢を食わせる兵糧が、あろうはずはなかろう。さほどに恐れるほど大軍が押し寄せるとも思えぬが、この狭い奥州の山に阻まれた道をやってくるのだ、いっぺんには参ろうはずもない」
 家臣団は互いに顔を見合わせ、一応の落ち着きを見せた。
「姫宮様」
 国衡に促され、御子は地図の前に立った。
 明日には頼朝は姿を現し、長い旅路を経た疲れとこれからの戦に備えて陣を張るはずだった。待ち構えて、その幕営の隙をついて先陣をつぶしたいのはやまやまだったが、伯耆の実践的な戦とは違い、雅な平泉の礼法に反する。提案しても誰も従わぬであろうと思いつつも、御子は口を開いた。
「おそらく鎌倉勢は、明日の夜には国見に入ってくるでしょう。できれば阿武隈川の向こう側で押しとどめるか、幕営中を奇襲したいところですが……」
「それはいかがなものか。末代まで恥と語り継がれるなら、討ち死にした方がよい」
 家臣団は一様に首を横に振った。
 ――やはり、では、礼に則って矢合わせからするよりほかない。
 御子は肯いて見せ、
「あちらが陣をとるなら、国見の駅《うまや》と見ます。そこで、第一陣を金剛別当秀綱殿にお任せしたい。これは、国衡殿と話し合って決めました。国見の駅から、この阿津賀志山に向かって平野部を直進してくるでしょう。秀綱殿は、敵軍に対し、ある程度切り込んでいったあと、少しずつ劣勢と見せて、大木戸まで誘い込んでください。そこで、敵が懐に入って来たら、我らが左右から挟撃しようと考えます」
「なるほど、平野部ではあれど、我らの軍勢で山間の細道のごとき状況を作り出そうということですな」
「さらに、佐藤基治殿には、頼朝が阿武隈川を渡ったら、はるか東方から迂回し、鎌倉の背後、石那坂に陣を敷いて頂きたい。合戦の中ほどで、敵方が疲弊を見せた頃に、東南から仕掛けてください。
「承知しました」
「しかし、これは第一案です。これが通用せぬ時は、機に応じて第二案を」
「空堀に敵方を誘い込めれば、堰を切って阿武隈川の水を入れ、敵兵を押し流す」
 御子に続けた国衡の言葉に、家臣団は納得したようにうなずき合った。
「姫宮様」
 家臣団が解散しても、とどまった若者がいた。
「私は、別当秀綱が嫡男、下須房《しもすわ》太郎秀方と申します。どうか、私にも父と同じく先陣にお加えくださいませ」
「御幾つになられますか」
 秀方があまりにも幼いので、御子は思わず聞くと、齢十三ということだった。
 この年で先陣に出せば、おそらく簡単に討ち死にしてしまうように思った御子は、
「どうでしょう。お父上の軍はすでに編成を決めております。今変えてしまうとほころびも出ましょう。できれば、私とともに挟撃の軍に加わっていただきたい」
 秀方は、ぱっと顔色を明るくしてうなずいた。

 その翌日七日は、初秋八月の快晴、むっと湿気を帯びた暑い一日だった。
時夕刻に及んで、御子の読み通りに、鎌倉勢は阿津賀志山を遠く望みながら、阿武隈川の北岸にある国見の駅に陣を張った。駅の館の周りに幕を張り、幕営は、夜には完成した様子で、ひっそりと静かであった。御子たちは、阿津賀志山の中腹にある城塞から外に出て、鎌倉陣を見下ろす。
 松明《たいまつ》の灯りがかすかに見える。鎌倉勢は休息をとっているようである。
 すでに子の刻を回った。明日に備えて眠ったほうが良いと御子が城の内に入ろうとしたとき、ふいに、昼間よりも湿気をはらんだ風が、御子の髪を激しく揺らした。仲影が、ふと空を見上げる。
 それまでさやかだった月に、急に雲がかかり始めた。
 一方、国見に陣を張った鎌倉軍も、ふいに風が強くなったことに空を見上げる者が出始めた。と、見る間に雲が夜空に広がり、次第に低い音が雲間に生まれ、地を叩くような音が走る。
 眠っていた頼朝が目を覚まし、駅の館から外に出た。上臥《うえぶし》の者が、頼朝の後ろに控えて、不安げに空を見上げ、
「頼朝様、なんでしょう、急に空が怪しく……」
 そう言いかけたとき、割れるような音とともに痛いほどの閃光が、頼朝の寝ていた館の屋根に落ちた。
 鎌倉勢は動揺し、兵たちは逃げようと右往左往する。が、いずれへ逃げても救いがなく、ただただ不安がって騒ぐだけである。
 頼朝の宿所に落ちた雷の音と光は、阿津賀志山の兵たちをも脅かした。そして、その次の落雷は、阿津賀志山の頂上に落ちた。中腹にいた御子たちは、思わず身を縮めた。しばし、光にやられて目が見えず山が崩れるかと思うほどの地響きが走った。
「ここにいては危険です」
 仲影が自分の腕で御子の頭を守るように抱え、城の軒先に引き入れ、身を低くした。
「国衡様も、縁におあがりください。山の中では、稲妻が地を走ると聞きます」
「戦場で雷に触れて死ぬなど、恥ずかしくて死に切れぬ。それだけは避けたいものだ」
 国衡が軽口をたたいて笑って見せたが、御子は、鎌倉の陣営が気になって仕方がなかった。首を伸ばして、阿武隈川のほうを見やると、雷は容赦なく、平野部にも幾筋か落ちて、人心を惑わせているらしい。松明が陣営の中で右往左往している様子が見て取れた。
 雷はやまず、数時間に及んで大地を荒らす。
 阿津賀志山の城壁内にも、一つ二つ落ちた。と、急に地震のような音が遠くから走ってきた。
「地震……いや、雷でもない。何の音だ」
 御子は耳を澄ましていたが、はたと気づくと、ふいに立ち上がって阿津賀志山の麓を見下ろした。横で、仲影が御子を座らせようと引っ張るのもいとわず、目を凝らす。
 御子は目を疑った。
 はっきりとは見えぬが、雷の閃光に時折照らされる堀に、水が入っているのだ。
「なぜだ、何が起こっているのだ」
 御子の悲鳴に似たその声に、国衡もたまらず立ち上がって見下した。
 そこに広がっているはずの空堀を、まるで龍のようなうねりで濁流が走っている。
 御子と国衡は、言葉も出ず、その濁流を見守るよりほかなかった。

 明け方、もうそろそろ卯の刻も近いという東の空が白む頃に、御子たちは麓に降りて堀を確認した。堀の内側にはなみなみと水が入り、濁流に巻き込まれた百人ほどの雑兵が漂うように浮いていた。
 兵卒の一人が、申し訳なさそうに縄につながれた数人の男を引き連れてきた。
「太郎君、昨晩の雷に恐れをなして、堰を切ってしまった者どもです」
「雷におびえて、なぜ堰に手を付けるのだ。さては、間者ではないのか」
 珍しく国衡が声を荒げると、縄につながれた者たちは急いで膝をつき額づいて、
「雷の音が地響きに聞こえたのです」
「空も光ったではないか! なぜあれを雷と思わなかったのだ」
「光る前に、音が走ったので、鎌倉勢が寄せてきた地響きかと……」
 御子は、唖然として言葉もない。いくらこの者たちを責めても、一度入った水は簡単には抜けない。
「この者たちの首をはねよ」
 国衡はそう言ったが、御子はそれを止めた。今は、一人でも多くの兵が必要だった。
 水攻めが使えなくなったうえに、味方の兵を減らしてしまった国衡勢は、不安なまま開戦の準備に入った。日が昇り始めれば、おそらく鎌倉は寄せてくる。
 卯の刻を過ぎたころ、鏑矢の音が鳴った。鎌倉方が放ったようである。
 この時が来た――。阿津賀志山以北では、ここより強固な守りはない。ここで食い止めねば、奥州は殲滅されるだろう。 
 御子はしばし目を閉じ呼吸を整えると、武装を手伝う者を待たず、一人、城内で鎧をつけて、太刀を手に取った。成国に贈られた太刀を鞘から出して握りしめ、柄を掴む右手を手首まで襷でしっかり結びつける。
 と、すでに物の具を付けた仲影が、御子の手伝いをしようと入ってきて、御子の右手を見るなり顔色を変えた。
「御子様――」
 そして、青い顔をして御子に縋りつくように駆け寄り、太刀を持った御子の右手を両手で包み込んだ。
「まさか……まさか、私の矢のせいで」
 仲影の目にみるみる涙があふれ出す。
ああ、右手が自由でなくなったことを仲影には見せたくはなかった――。
御子は静かに言った。
「泣くな、仲影。私は感謝しているのだ。あの時自刃していたら、義経の兄様に再び会うこともなく、父院の落胤である確証も得られなかったのだ」
「落胤の確証……」
 涙のたまったまつげをしばたかせ、仲影は不思議そうに御子を見た。
「実は、ずっと疑念を抱いていたのだ。一月も早く生まれたと聞いて、もしや、成親卿の子ではないかと」
「こう申しては何ですが、御子は、後白河院によく似ていらっしゃいます。お顔立ちとかではなく、短気であるところや何かの折に人を睨み付けるときの眼光など、そっくりです。何を御疑いになることがあるでしょう」
 御子は、思わず噴き出した。
「全く、嫌なところが似ているのだな」
 そして、右手をぐっと仲影の方へ差し出すと、
「外れぬようにしっかりと結わえてほしい。これが私の命綱だ」
 仲影は、申し訳なさそうに、しかしきつく、御子と太刀を結んだ。

 城塞の正面城柵である大木戸の表には金剛別当秀綱が数千騎を率いて陣取り、鎌倉方と矢合わせを始めた。
「我こそは、平泉藤原氏重代の家臣、金剛別当秀綱なり。我と戦う剛の者はおらぬか」
 それを受けて、鎌倉方から一騎馳せ出てきて、
「畠山次郎重忠、秀綱殿が御首頂戴いたす」
「あっぱれ勇の者かな。戦って名を上げよ!」
 双方の軍勢が見守るなか、二騎が寄せて太刀を合わせる。しばしは二人の戦ぶりを見ていた軍勢だったが、なかなか決着がつかぬとみると、敵も味方もわっと一斉に動き出し、戦が始まった。
「なんといいますか、こういう雅な戦は、久方ぶりですね」
 大木戸の裏に潜んでいる御子の横で、仲影がつぶやいた。伯耆の戦は生きるか死ぬか、勝つか負けるかが重要であり、美しさや名誉など全く気にかけぬものだった。
 御子の胸に、長い髪を振り乱して太刀をふるう成国の姿が甦る。
 静かに目を閉じた。
 もしここで命果てても、成国のもとへ行くだけの事。何の不安もない。むしろ、早く逢いたいとさえ思った。
「長いですね」
 仲影が言った。大木戸の外の戦が、なかなか進まない。なんどか、秀綱が大木戸付近まで引いた様子は見せたが、鎌倉勢がこちらまで寄せてこない。近くまで引き入れなければ、御子たちが左右から挟み撃ちにすることはできない。時は刻々と過ぎてゆき、辰の刻をすぎ、もう巳の刻になるかという頃、御子のもとに文が届けられた。
 佐藤兄弟の父佐藤基治からで、いつまでまっても出陣の機会が見えないがどうなっているのかという内容だった。
「このような文を送ってくるとは、危険極まりない」
 佐藤基治の陣が背後から迫ることが知れれば、あの小勢など、すぐに蹴散らされてしまう。背後からの奇襲であるからこそ功をなすというのに、と御子が困っていると、ふいに大木戸があいて、秀綱が軍勢を引き連れてそのまま城柵の中に逃げ込んできた。
 敵を十分引き入れてから挟撃しようと、御子は構えて待つ。
 秀綱を負う形で、数騎が駆け込んできた。
 ――まだ足りぬ。
 御子が合図を出さずにいると、こらえきれなかったのか、味方の軍勢があっという間に大木戸から入った数騎を討ち取った。が、それを見た鎌倉勢は、急に足を止めて、急いで踵を返して戻っていってしまった。
 御子はただただ呆気にとられ、逃げ去ってゆく鎌倉勢を見送るよりほかなかった。

「何故我が合図を待たぬ! 戦を何と心得ておるのか!」
 戦が一旦静まって、国衡のもとに集結した家臣団の中へ、御子は足音も激しく寄っていくと、城内に入った数騎を打ち取り、せっかくおびき寄せた鎌倉勢を取り逃がした武将の胸元を拳で押して、後ろへ転ばせた。
 仲影は、はっと肩を聳やかし、国衡の家臣団は、顔を引きつらせて御子の剣幕を見守っている。
「姫宮様、御静まりを」
 国衡は、御子の手首をつかんで転ばされた男から引き離した。
 御子は、収まりがつかぬ様子で国衡の手から自分の手首を乱暴に取り返すと、ぷいと背を向けて、背中に家臣団たちの非難に満ちた視線を感じながら詮議の場から外へ出た。
 御子は物見台へと向かった。
 鎌倉勢の陣幕内は、ざわついている様子だ。軍兵が南から足を引きずるようにして、陣営に入っていく。
「佐藤殿は、しかけたのか」
 御子は佐藤が陣取った石那坂の戦がどうなったのか知るために、家臣団の元に戻ろうとした。が、行くまでもなく、国衡が物見の方へ御子を探してやってきた。
「国衡殿、佐藤殿は」
 国衡は、首を横に振った。
「基治殿は討ち死になさったと知らせが来ました。ただ、さすがは佐藤兄弟のお父上、敵を蹴散らし、かなりの損害を鎌倉に負わせたようです」
 御子は、ぐっと奥歯をかみしめた。
「ご自分を御責めなさいますな。これは戦なのです。命の取り合いを、私たちは始めたのですから。それに……姫宮様には、申し訳なく思っております」
 御子は、国衡をじっと見つめた。
「我ら奥州勢は、戦慣れしておりませぬ。鍛錬はずっと続けていても、これほどの大軍で一つのことにあたって動くという、大局的な動きは訓練でさえもしたことがないのです。姫宮様がせっかく策を巡らしてくださっても、お思いのように動くこと叶わず、本当に申し訳なく」
「いいえ、違う。違います。おそらくこれは私のせいです」
 ――この、どうにも何一つうまくいかない感じは、おそらく策を弄しすぎているのだ。敵方の出方を待って、どう対応するかをその場その場で決めた方がよいのかもしれぬ。
 御子は、眉根にしわを深く刻んで、足下の奥州勢の兵たちを見つめた。

九、仲影被斬(きられ)

「秀綱とやらも大したことがない。我らが大軍で寄せたので、尻尾を巻いて城塞の中に逃げ帰ったわ」
 鎌倉方の兵たちは、土地から奪った作物を駅の宿に料理させ、大鍋囲んで騒いでいる。
 その声を、館の内で、頼朝と和田義盛、梶尾景時、畠山重忠らは黙って聞いている。が、頼朝の白目がちな視線を感じた畠山重忠は、小さく頷いて見せた。
「ご推察の通り、秀綱はわれらを誘い込んでの殲滅を試みておりました。国衡という男は、策を弄してこの戦にあたっているようです」
「なに、数で大きく上回っておる我らの敵ではなかろう」
 梶尾景時がそういったものの、声には覇気がない。目の前の阿津賀志山に気取られているうちに、背後から佐藤氏の襲撃があり、鎌倉勢が大きく動揺したのは事実だ。
「国衡は、長きにわたるこちらの誘いの文にも乗らなかったような男だ。あやつと文のやり取りをしたことがあるが、どちらかと言えば愚直な男のように見た。策を弄するような人物とは思えぬ」
 頼朝が言うと、和田義盛がじっと考え込んでから、
「軍師がおるのかもしれませぬな」
 ――義経様の知略に通じる気もせぬでもない。大きな堀を築かせ、三重の防塁で城を守る。こちらに引き付けておきながらおびき寄せて殲滅を図る。それと同時に背後から攻める。まさか、義経様が生きていらっしゃる? いいや、あの御首級《みしるし》は確かに義経様だった……。
 頼朝は、考え込んでいる義盛の顔をじとっと湿気を帯びた眼差しで見守った。
「腰越で実検した首は、九郎に違いなかったか」
 頼朝の言葉に、義盛は驚いて顔を上げた。
 梶尾景時は焦って、
「無論でございます。髪一筋《かみひとすじ》とて、間違いございませぬ」
 頼朝はしばし黙って自分の膝の上の扇を見つめていたが、一つ瞬きをすると顔を上げた。
「では、わしも策を弄する。明日の内に動くぞ」
 和田をはじめとする三人に、頼朝は説明を始めた。

 翌々日早朝、国衡の郎等の一人が、転びこむようにして国衡のもとに来た。
「経岡に佐藤殿らの御首級がさらされております」
 家臣団と御子は、急いで阿津賀志山の北東の麓を物見から見下ろした。
 大槍の先に、いくつかの梟首が見えた。
「佐藤殿……これでは罪人扱いではないか」
「頼朝め、佐藤殿を辱めるとは」
「挑発しておるのだ。我々を見くびっておるのか」
 家臣団が佐藤基治の首を見て、悔しそうな息を漏らす。
「姫宮、あそこを」
 国衡が指をさす先を見て、御子は眉をひそめた。
 水が入った堀の向こう側に、土が盛られている。夜中の内に盛ったらしいが、防塁の向こう側なので、こちらの見張りの兵は気づかなかったのだろうか。しかし、あの土を、鎌倉方はいったい何にするつもりなのか。
「堀を一部分だけ埋めるつもりではございますまいか」
 仲影がそういうので、御子は不思議に思った。そうであれば、夜の目立たぬうちに堀池に土を入れてしまっておけばよい。なぜ、朝日の横からの影が差す、つまり土を盛っているとよくわかる時間に、あのようにしているのかが、不審だった。
「御子、やはりそうです。土を水に入れ始めました」
 御子はいよいよ不思議だった。
「いずれにせよ、放っておくわけにはいかぬ」
 御子は国衡に弓隊を借りて、防塁の外側に出た。
 こちらが姿を見せているのに、鎌倉の兵たちは、怯えつつも必至に土を水に入れ、徐々に堀池を埋めていっている。
 堀池を埋めようとすれば、いくら一部とはいえ、無防備になるし時間もかかる。なのに、朝日が差してからのこの行動に御子はどうしても疑念をぬぐいきれない。とにもかくにも、御子は、弓隊に矢を射かけさせた。幾人かが矢に倒れると、鎌倉の兵は自分たちの盛った土の向こうに身をひそめる。そして、こちらを伺う。
「あやつらは、いったい何なのでしょう。捨て駒、なのでしょうか」
 さすがに仲影もそういい始めた。と、御子はあることに気づいた。
 先ほど土を入れ始めただけなのに、すでに、水面の下に盛った土が見えるほどに、堀の底には土がたまっている。
「夜中の内に、随分土を運んでいたのだ。おそらく時間が足りず、朝になってしまったのではなかろうか」
 御子はそう考えた。
 鎌倉の兵は、まだこちらが弓を構えているのに、また一人二人と姿を現し、土をどさどさと水しぶきを上げながら堀池に入れて埋めていく。すでに底にたまっていることから、存外早く埋まってしまった。しかし、その土の上には、土を運んでいた兵士どものほとんどが矢の餌食となって転がっている。
「軍兵が多いと、使い方が荒いのでしょうか」
 仲影がそういったとき、東の木戸口辺りで、わっと声が上がり、地響きが起こった。
 御子は、弓隊に、敵が来たらすべて射殺して、一人《いちにん》たりとも防塁を超えさせてはならぬと言いおき、声の上がったほうへ、仲影とともに走った。
 東の木戸口についてみると、外から城柵を壊して侵入を試みている様子で、それを国衡たちが兵を使って押し戻していた。
「国衡殿!」
 御子が走り寄ってきたので、国衡はちらりと振り向いて、
「全軍で攻めて決戦しようとしているのやもしれませぬ」
 すでに木戸口は破られそうだ。
「敵の力など大したことはない! この砦は必ず死守するのだ」
 国衡が力強い声で檄を飛ばすと、兵たちはにわかに活気づいて力を盛り返した。見る限り、鎌倉側も必死に戦していることはわかる。なかなか開かない木戸口に全力で当たってきている。
 ――しかし、やはり兵の数が足りぬ。こんなものではないはずだ。 
 御子は違和感を抱き、物見櫓にまた登って周囲をつぶさに見た。
 鎌倉陣営の方へ眼を向ける。
 朝日射す国見の平野に軍勢を控えさせてはいるものの、どう見ても兵の数が少なく見えた。国見駅の宿には、昨日のままに確かに幕は張っているが、兵の動きらしいものが感じられない。これだけ朝日が当たっているのだから、館とはいえ、例えば庭などには、槍や薙刀、甲冑が光を反射してきらめいていてもいいはずだ。
 軍影は、目の前の国見駅の方にしか確認できない。それでも拭い去れない違和感に苛まれ、御子はもう一度見まわすと、はっと息をのんだ。
 ぞくりと背筋に冷たいものが走り、まさかと思いつつ、阿津賀志山の頂上を仰ぎ見た。
 ――とくに、変化は見られないが……。
「御子、いかがなさいました」
 仲影が不安そうに御子の横顔を見守る。御子は判断がつかぬように首を少し傾けた。
 御子の目に、山頂で何かが反射して光ったのが映った。
「山だ!」
 御子はすぐに物見から降り、木戸口を抑える国衡のもとに走った。
「山です。山から奇襲です」
 国衡は青ざめ、家臣団は慌てふためく。
「山手の方は私が迎え撃ちます。弓隊をさらにもう一隊お借りします」
 国衡が頷くと、御子は強弓に覚えのある者を集め、中腹の城まで登り、山肌に身をひそめた。
 まだ、降りてくる気配はない。御子が身をひそめて見上げる。
「御子、これはまるで……」
 仲影が横で囁くと、御子も頷いて、
「音に聞く鵯越の再現だ。義経兄様を真似たか。頼朝め、恥を知らぬと見える」
 馬で駆け降りてくるぞ。そう御子が言おうとした時だった。長い弓がパンッという音を立てて、御子の兜の吹き返しを抜き破った。
「御子!」
「大事ない! 弓を構えよ!」
 血相を変える仲影を抑え、号令をかける。弓隊は、身を山肌に沿わせて、弓を横に構え、山頂にむけて一斉に連射した。と、山頂からも弓が雨のように大量に降ってきた。
 御子と仲影は、城の板戸を引き外して前へ出て弓隊を守り、弓隊は板戸の隙間から矢を放つ。しばらくすると、幾人もの敵兵が射抜かれて落ちてきた。
 「いったい、どれほどの規模の軍勢が山に潜んでいるのだ」 
 御子が汗をにじませていると、急に鬨の声が山頂で上がり、兵たちが徒歩《かち》で駆け下りてきた。
 ――堀を埋めるのも、木戸口攻めも囮だったか。
 御子は、すぐ気づけなかった自分を攻めた。これだけの弓隊では、持ちこたえられず、侵入を許してしまう。
 弓隊が一斉に放つ矢が、駆け下りてくる兵たちを射抜く。が、山からの兵の数はやはり多く、弓が尽きる者が出始め、太刀を抜いて攻め降りてくる兵を迎える。
 御子は、太刀を両手でつかみ、急坂に足を取られて落石のごとくに落ちてくる兵を幾人も斬った。しかし、弓隊は太刀では力が足らず、戦線を離脱して、麓へ逃げ降りる者が続出した。
 御子と仲影は、必至に敵に抗ったが、山からの兵は、もはや御子たちを顧みもせずにすり抜けて城に入り、麓まで駆け下りてゆく。
 麓に目をやると、木戸口も押され気味になっているところへ、山からの兵が寄せたとあって、軍形が乱れ、総崩れとなった。
「国衡殿は、ご無事か」
 麓まで降りた御子は、仲影とともに国衡を探す。と、背後から国衡が御子の腕をつかんだ。
「姫宮様!」
「ご無事でしたか。いそぎ泰衡殿の陣まで引いて、態勢を立て直しましょう」
 御子はそう言ったが、国衡は首を横に振った。
「私は、頼朝を避けて、出羽を経由して平泉に戻ります。あそこを守らねば。泰衡とて、弱くはない。苅田郡で鎌倉を抑えてくれるはず。私は万が一に備えて平泉を守ります」
「分かりました。では、私は、泰衡殿と合流し、再び頼朝に相見《あいまみ》えましょう」
 御子がそういうと、国衡は両手で力強く、御子の両肩をぐっとつかんで、しっかり頷き、「必ずまたお会いします。それまでご無事で」
 そう言って、愛馬にまたがって、郎等も率いず駆けていった。
 御子たちも外へ出ようとしたが、鎌倉方の兵が、さらに要塞の内に満ち満ち、御子たちの出口をふさいだ。御子は、手の痛みに耐えながら太刀をふるう。
「姫宮様、こちらです」
 子供の声が聞こえて振り向くと、馬の口を捕らえた下須房太郎秀方が御子の方へ駆け寄ってきた。
「この馬をお使いください。かならず、泰衡様とともに、平泉を救ってください」
「ならぬ、秀方殿こそお逃げなさい」
 若干十三歳の者を差し置いて逃げられるわけがないと、御子は激しく首を横に振った。
「父上はまだ戦っています。私も、ここで名を残そうと存じます。さ」
 秀方は、仲影に促し、仲影は御子を馬に乗せて自分もまたがると、秀方とうなずき合った。
 秀方は馬の尻に手を当てる。
「秀方殿!」
 叫ぶ御子の声を背に、秀方は口笛で愛馬を呼び寄せると、軽々と飛び乗り、敵勢の方へ斬りこんでいった。
 御子は歯を食いしばって、苦しいうめき声を漏らす。
 御子と仲影の乗った馬は、泰衡のいる国分原に向かった。

 夕暮れになって、御子と仲影は、泰衡軍が駐屯している国分寺に入った。
 寺の一番奥にある僧坊で、阿津賀志山での敗戦を知らせると、泰衡は目を一層吊り上げて御子を見たが、すぐに黙り込んだ。
「泰衡殿、すぐにも頼朝はここまで来るはず。途中、川に網を張り罠を仕掛けてはいますが、兵が少し削がれる程度で、大勢に変化は起きないでしょう。いそぎ、兵を配置して備えるべきです」
 御子がそういうと、小刻みに何度も頷き、今いる広大な国分寺の見取り図を開いて見せた。
「ほかに取ってくるものがある。まずはこれをご覧くだされ。すぐ戻る」
 泰衡が襖を押し開いて出ていくのを、家臣団は見送ると、誰がどこに配置する、誰が先陣を切るかと、話し合いが始まった。
 ――遅いな。
 もう頼朝はおそらくそこまで迫っている。本来ならすぐにでも兵で門を固めるか、迎撃のため南下すべき時なのに、家臣団は悠長に構えているし、泰衡はなかなか戻ってこない。
「泰衡殿は何を取りに行かれたのです」
 御子がそう聞いても、家臣団は、さあと首をかしげるだけだ。
 そこへ、大きな足音を響かせて兵が一人駆け入ってきた。
「名取川、広瀬川の罠に敵方の兵がかかり、軍勢は削がれておるようです」
 御子は、立ち上がった。
「もうそこまで迫っているではないか! 泰衡殿はどこだ」
 御子はなりふり構っていられず、講堂、金堂と境内を駆け巡った。が、泰衡の姿が見当たらない。
 ――一体どういうことだ。
 しかたなく先ほどの家臣団たちの元へ戻ると、家臣団は、すでに甲冑は着けていてすぐにでも戦ができるよう準備はしていた。
「今すぐ、私の指示に従い、兵を配置して頂く」
 御子が指示を出そうとしたとき、鬨の声が上がった。
 驚いて僧坊から外に出てみると、すでに南大門は破られて中門《ちゅうもん》に兵が迫り、境内に鎌倉勢がなだれ込んできていた。
 家臣団は急いで迎え討とうと走り出る。
 御子は、太刀を右手に結わえると、中門に向かって走った。

 戦闘は混乱を極めた。
 広い境内ではあったが、巨軍の鎌倉勢の兵で満ち溢れた。敵味方が入り乱れ、骸につまずく。血に滑る。矢が飛んでくる。
「泰衡め! 泰衡はどこへ逃げた!」
 御子にはもはや敵も味方もなかった。泰衡の姿が見えなかった。逃げたに違いないと思うと、腹立たしくて仕方がなかった。あのような男に、兄様が命を奪われたと思うと、血が沸騰しそうだった。敵を斬り、泰衡の姿を追い求めているうちに、仲影ともはぐれてしまったようだった。
 猛者らしき武人が一人、御子の兜を見て将軍格だとわかると、襲ってきた。御子は必死に太刀をふるっていたが、ついに太刀の紐は外れ、両手で太刀を支えての応戦となった。血で滑ってさらに柄をつかみきれない。激痛に震える右手がもどかしかった。
 敵の太刀が鍬形にあたって、兜が外れ飛んだ。
「ちっ、女人か!」
 猛者はそう言って去ろうとしたがふと足を止め、御子をつま先から頭の先まで見た。そして、拵えの凝った太刀に目をつける。
「名のある者であるな。名のれ」
「穢れた鎌倉方に聞かせる名など持ち合わせてはおらぬ」
 御子は不敵に笑うと、太刀を両手で握って斬り込んだ。
 太刀を受けた武士は、勢いに後ずさりしたが、女に押されて誇りに傷がついたのか、頭に血が上ったように御子に太刀をふるった。
 御子は、何とか持ちこたえつつ太刀を受けていたが、相手の攻撃が重く、太刀を支える力が持たなくなった。と、猛者の切っ先が、御子の肩をかすめた。
 自らの血で一層太刀が持ちづらくなったところへ、大きく振るわれた攻撃を受けて、成国の太刀は手からはじき飛ばされ、御子は尻もちをついた。
 猛者が冷たい目で御子を見下ろし、太刀を大きく上に構えた。
 もはやこれまでと、御子は観念した。存外に静かな気持ちになった。
 ――成国、今行く。
 太刀が振り下ろされる。
 と、間に人影が割り込んで、鋭い金属音が耳を襲った。
「仲影!」
 仲影が、御子の前に割って入り、太刀で猛者の太刀を受けている。
 御子は、仲影の背中と地面とに挟まれ、身動きが取れない。猛者は全身の力で、仲影の太刀を押してくる。重い鍔迫り合いが、次第に仲影を押さえつけ始めた。
「御子……御子、お逃げください」
 絞りだした仲影の声に、御子は何とかこの状況を覆そうともがくが、体が挟まって動きがとりにくい。不用意に横にずれれば仲影が相手の太刀に真っ二つにされそうで恐ろしく、かといってこのままの態勢で持ちこたえられるはずがなかった。
 仲影の肩も手もガタガタと震え、もう限界に達しているようである。ふと、仲影の肩を伝って熱い血が流れ落ちてきて、御子の眉間にポタリポタリと落ち始めた。
 焦燥に駆られた御子は、何とか上半身を横にずらす。と、目に入ったのは、敵の腰に差した小刀だった。とっさにそれを抜く。運良く鞘が外れた。御子はすぐさま猛者の鎧の脇に深く差し込んだ。
 くぐもった唸り声をあげて、猛者が倒れる。と、仲影の力も同時に尽きたらしく、猛者が仲影の上にのしかかった。
 男二人分の重みから御子は滑り出て、急いで猛者を横へ転がす。
が、仲影を見て御子は血の気が引いた。
仲影の鎧の胸板は貫かれ、左胸からどくどくと血があふれ出していたのだ。
「仲影!」
 御子は青ざめて、とっさにその傷を手で押さえたが、仲影はすでに、浅い息を苦しそうに小刻みに繰り返し、口をパクパクと動かしている。
「しっかりしろ仲影! 必ず助ける!」
 御子は自分の直垂を切り裂いて、仲影の胸の傷に当てた。しかしどうすることもできない。御子は窮した。
 仲影は、懸命に浅い息を繰り返しながら、自ら鎧の脇に右手を入れて探ると、紙の一巻《ひとまき》を御子に差し出す。
「何だ、何を……」
 御子は、巻紙を握る仲影の右手を、左手で握って励ます。
 仲影は、苦しそうに息を繰り返しながら、自分の胸の傷に置かれている御子の右手を握ると、その手を、矢傷の残る御子の手の平を、自分の頬に当てて、ほんの刹那小さく微笑んだ。
 と、息が止まった。
 天を切り裂くような御子の叫び声は、戦乱の騒音に負けず響き渡った。
「嫌だ、仲影、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死んではならぬ、仲影!」
 御子は、仲影の頬を必死にさすり、呼び戻そうと声を上げる。天に祈り、神仏に助けを求め、言葉にならぬ声を上げた。
 何度も仲影の名を呼んだ。
 何度も何度も、何度呼んでも、仲影はピクリとも動かなかった。

 出羽国を経由して平泉へたった一騎で向かった国衡は、出羽道を行き大関山を越えようと馬を走らせた。そこへ後ろから声がかかる。
「奥州平泉の国衡殿とお見受けいたす。敵に背中を見せず、引き返して手合わせなされよ」
 国衡は、驚いて振り向くと、唇を引き結んだ。
「いかにも、我は国衡だ。そこもとは何者だ」
「鎌倉は二品《よりとも》殿の家人、和田太郎義盛と申す」
 国衡は、笑みを湛えた。
「敵に不足なし。いざ」
 二人に距離があったので、和田義盛が得意の弓を構えた。国衡も弓をつがえようとした。国衡の矢が十四束もある長く強い弓と見て取った義盛は、先手必勝とばかりに弓を射た。弓は、国衡の射向袖《いむけのそで》を貫き、腕を傷つけた。
 国衡は、ぐっと歯を食いしばり、義盛を睨み据えた。
 義盛は今のうちにとどめを刺そうと、二の矢をつがえた。と、その二人の間に、大軍を率いて追ってきた畠山重忠が割って入った。
 義盛が、舌打ちして弓を下ろす間に、重忠とともに行動していた大串次郎重親が国衡にぐっと迫った。
 国衡は、義盛の矢と重親の太刀から身をかわそうと、馬の手綱を不用意に引いた。そのため、馬は道をはずれ沼に足を踏み入れてしまった。国衡がいくら腹をけり綱を引いても、馬は泥から足も上げられず、もがき苦しんだ。そこに飛び込んできた重親に、国衡は馬から引きずり下ろされ、反撃もできぬ間に首を切り落とされた。
 義盛は不服気に重忠と重親を睨み付けたが、睨まれた二人は大将首を取ったことに喜び勇んで、国衡の首をもって頼朝のもとへ帰っていった。
「なんとも、あっけない。よい敵と思うたのに」
 義盛も仕方なく、引き返した。

 国分原の戦闘は続いていたが、御子は仲影の体を胸に抱え、金堂の石段を背にして呆然と座っていた。目の前では、斬る斬られるが展開していたが、もはや御子の目には何も映っていなかった。
「おのれ鎌倉、火を放ったか!」
「寺が焼けるぞ!」
 奥州の兵たちが憤って叫ぶ。火の熱が風を生み、風が火の粉を飛ばし、吹きちぎられた火の粉がまた火を生んだ。
 仲影を抱えている御子にも、ぱらぱらと火の粉が降ってきて鎧の上に落ちるが、血に濡れた鎧の上でしずかに消える。それでも、御子は動くことなく、目の前の死闘を目に映していた。火に苛まれる中の死闘を、御子の目は眺めていたが、心には何も映っていなかった。

十、平泉陥落

 火の粉が舞う。黒い煙が世界を襲い始める。国分寺の金堂に続く参道の左右に広がる石畳の境内は、その周りに回廊があり、南に中門を配している。その中門の内側で太刀をきらめかせていた武士たちも、次第に外へ逃げ始める。
 骸が転がる世界が煙にかすんでいる。骸が、赤々と反射して揺らめく。
 煙る中、細く長い弓ぞりの何かが立っている。時折、炎を反射してきらりきらりと瞬く。が、すぐに煙に隠れる。
 ぼんやりと、ぼんやりと――その影が見える。
 御子は、ふいに、その弓ぞりの何かに吸い寄せられるように、仲影を置いてふらふらと歩いていく。近寄るとそれは、成国の太刀だった。
 御子の手から弾き飛ばされた後、誰かが苦し紛れに使ったのか、折り重なる骸の一つに突き立っている。
 手を伸ばして抜く。
 確かに、成国の太刀だった。
 不意に背後で、雷が大木を割ったような激しい音がして、火の粉と木片が御子の方へ襲ってきた。ぼんやりとした頭で振り向く。炎に紛れた金堂の屋根が次々に焼け落ちている。と、石段の端に一人、ぽつんと横たわっている仲影の上に轟音を立てて落ちた。
 御子は声を上げて駆け寄り、とっさに仲影の足を取って引っ張り出そうとするが、焼け落ちた屋根は重く、さらに炎が御子を襲う。引きちぎって手に残ったのは、仲影の鎧直垂の一部だった。
 あっという間に、仲影は炎に見えなくなった。
 仲影の名を叫ぶと、御子は腰砕けに石畳の上にへたり込んだ。
 仲影を焼くその炎をじっと見守るよりほかなかった。

 朝日が差し、すべて焼け落ちた金堂から煙が細く上がっている。朝霧も手伝って視界の悪い中、煤で汚れた御子は、仲影がいた場所に膝をついていた。まだ熱をもった垂木や梁をのける。その下に、仲影がいた。
「これでは、もう帰ってこれぬではないか」
 涙がとめどなくあふれ、歯を食いしばっても息が漏れた。
「これでは、もう……」
 仲影がその体を保っていた時は、呼べば戻ってくるような、そんな気持ちがひそかに心のどこかにあったことに、いまさらながら気づいた。しかし、もう、こうなっては……。もう……。
 涙に息がひきつるのを抑えつつ、御子は、まだ熱い仲影の骨に手を置いた。焼けるほどに熱いが、左手いっぱいに仲影を感じて掴む。目の前で開いた掌の上で、仲影の遺骨が、あまりにも美しく白く光って見えた。
 御子は、息とともに嗚咽が上がってくるのを、必至に鼻を広げてこらえる。その遺骨を、仲影の鎧直垂でそっと包んで、自分の鎧の胸板から外した紐で丁寧に巻き固めると、懐にしまった。
 胸が、温かかった。
 懐の中で不意に何かが手にあたった。
 引き出すと、仲影から渡された巻紙だった。半分ほどが斬り破られている。開こうとしたとき、
「生きている者がいるぞ!」 
 兵が数人、御子の方に太刀を抜いてかけてくるのが見えた。
 巻紙をとっさに懐に納め、急いでその場を走り去った。
 境内の外へ飛び出し、道に出ると、朝霧とくゆり残った煙で世界はぼんやりしていた。
 走った。夢中で駆けた。
 煙をたくさん吸ったために、すぐに息が上がったが、それでも足を止めなかった。
 途中、鎧も具足もかなぐり捨てて、直垂姿に太刀を持ち、右手では仲影が落ちぬように懐を押さえて、北へ北へと走った。ただ本能のままに走った。
 もうずいぶん遠くへ来たと振り向いた時、躓いて、ひどい転び方をした。
 胸元から、仲影が転び出たので、大急ぎですがるようにして手を伸ばして拾った。
 両手に乗る仲影を胸に押し当て、天を仰いだ。
 今日は、すっかり晴れそうな美しい空だった。
 声を抑えて心も押し込めていたが、とうとう食いしばった歯の間から声が漏れた。まなじりから一筋、涙が流れた。一度外に出ると、とめどがなかった。苦しく息をしながら、御子は顔を歪ませて子供のように泣いた。
 ――當子に、何といえばいいのだ。
 どうしようもなく、泣いた。

 苅田郡の根無藤《ねなしふじ》に構えた城郭に、泰衡の郎従である金十郎を大将軍とした軍兵が、頼朝の軍を迎え撃つべく防御の構えを取っていた。とその噂を耳にした国分寺から命からがら逃げていた軍兵どもが、雲霞の如くに集まった。
 鎌倉軍の一部が追撃を試みたが、守りが存外に固く、幾度となく攻防を繰り返した。しかし、次々に南から押し寄せてくる鎌倉の大軍に押され、四方坂の峠で大将軍金十郎が討ち取られると、雪崩を起こすように軍形が崩れ、あっという間に残りの兵は敗走した。
 その勝利を頼朝が聞いたのは、翌日の船迫宿《ふなばさまのしゅく》であった。そこで待ち受けていた畠山重忠は、櫃を頼朝の前に差し出した。
「殿ご所望の首級にございます」
 重忠のすぐ横には、唇を固く引き結んだ和田義盛が畏まって頼朝を見ている。
 頼朝は、期待の色をにじませ白目がちな目で、重忠を見た。重忠は、恭しく頭を下げると、櫃を開けて国衡の首級を取り出した。頼朝は、唸るような声を響かせて非常に満足げに笑みを湛え、何度も深く頷く。
 と、そこへ和田義盛が、ついに口を開く。
「国衡はこの義盛の矢にて射止めましたのです。重忠殿は、そこへ割って入り、首をねじ切ったまでのこと」
 すると、重忠は、膝を手で叩いて大笑いし、
「なんとも定かならざることをおっしゃる。実際にこうやって首級を持って参りましたは、この重忠でございましょう。それとも、一度でも義盛殿のお手に、国衡の首は収まりましたかな」
 義盛は、いよいよむっとして、
「確かに、首はそこもとが御取りになったが、射抜いたは義盛でございます。国衡の甲の射向袖の二、三枚目をお検めいただければ、射た跡があるはず」
 頼朝は、すぐに証の品を持ってこさせ、矢の穴の開いた血塗られた袖を確認した。つまり傷を負わせた獲物を途中で奪ったということである。
「重忠は射なかったのか」
「はあ、矢は使いませんでした。と申しますか、国衡が射抜かれていたことに気づいておりませんでしたなぁ」
 頼朝は、そこで黙ってしまった。
「まあまあ、義盛殿、わしはただ、国衡がいるので軍勢を率いて追走し、大串重親が首を取ってわしに差し出したので、大殿に献上したまで。いずれにせよ、我らが勝利ぞ」
重忠は、上機嫌で笑った。結局、重忠の手柄に収まった。
 義盛は、半ば呆れて、諦めたように押し黙った。
 ――大将首だというに、大殿は明らかになさらぬ。これが義経殿であれば……。かの方なら黒白《こくびゃく》をはっきりつけなさったであろうに。

 奥州は、南からじわりじわりと、熱病に侵されるように鎌倉勢に押されていた。
 御子は、平泉に帰って体勢を立て直すなり、尼君と當子を逃がすなりしなくてはならないと、北へと走ったが、日の照る内は山間に身をひそめ、夜間に道に出て北に向かわなければならなかったので、時がかかった。平泉に到着し門前にたどり着いたのは、三日後の八月十四日の明け方であった。
 門に着けど、その門を叩く勇気が出ず、御子は立ち止まってしまった。ふいに、ふらふらとめまいがして、その場に膝をついた。
「姫宮様では」
 門の内側から、不審そうに覗いた兵が慌てて出てきて御子を立ち上がらせようと手を伸ばした。が、御子は、身を引いてそれを制した。
「触れるでない」
 御子は、足に力を入れて立ち上がり、ふらふらと門をくぐった。足が前へなかなか進まないのは、体が辛いからではなかった。
「姫宮様、ご帰還!」
 兵がそう先触れして走ったので、郎等たちが出てきた。が、刀傷を肩に追い、甲冑を付けず直垂姿で煤けた姫宮の姿に、皆声もかけられずに見守っている。
 そこへ、奥から、當子がうかがうように出てきて、それと認めると喜びと安堵に頬を紅潮させて、御子に駆け寄ってきた。庭の方からは覚山坊も、薪を割ってでもいたのか、襷がけのまま走り出てきた。
「御子様! よくぞご無事で。お怪我は」
 そう言ってひとしきり御子の体を撫でまわしながら、當子は御子の後ろを気にして何度も見る。
「兄上は、馬をつなぎに行っていますの?」
 御子は、當子をじっと見る。
 言わなければ――。
 そう思って口を開こうとするが、唇が震えるばかりで一向に開かない。
 當子は不思議そうに御子を見上げていたが、ふいに、御子の表情が硬い悲しみに震えているのを悟ると、顔色を変えた。
 そして、胸に宿った恐ろしい考えを振り落とそうとするかのように、首を横に振って、
「兄上、様は、いずこにいられます」
 と、声を震わせた。
 御子は、震える手で懐から仲影を取り出すと、當子の前に差し出した。當子は眉間に厳しくしわを寄せて、目をぐっと見開いて、その直垂の包みを開いた。
 白く輝く骨を見て、大きく見開いた目に悲壮な色を宿らせ、御子を凝視するように見上げる。
 御子は、堪らず當子の肩を抱きしめた。胸の辺りで、仲影の骨を持つ當子の手がガタガタと固く震えているのを感じた。
「兄上……兄上……」
 つぶやくように声を上げてガクガク震える當子を、御子はありったけの力で抱きしめる。が、御子の手も膝も、當子と同じように恐ろしいほどに震えた。
 ふいに當子が急に重くなったので、御子は思わず抱きかかえるように腕に力を入れた。
 當子は気を失ってしまっていた。

「鎌倉が攻めてくるという噂が日に日に強うなって参ったので、西木戸では不用心だといってこちらの柳之御所に居を移したばかりでした」
 郎等らが気を利かして運んだ畳の上に、當子は横たわっている。その青白く硬い表情に、尼君はしわで波打った手を添わせて、心配げに見守っている。覚山坊は、縁の上で遠慮がちに畏まって、神妙な面持ちで御子を見ている。
「ここへきて、この北の地で、仲影殿がはかなくなるとは。神仏はなんと無慈悲なのでしょう」
 疲れ切ったような小さく落ちくぼんだ尼君の目からこぼれた涙は、頬のしわに何度もとどまりながら、ゆっくりと顎のあたりでしずくになった。
「當子が哀れで、この婆は、胸が苦しい。戦とは、なんとむごいものであろうか。このような悲しみを味わうとは、思いもよらなんだ。長生きなどするものではありませぬ」
 尼君に頬を撫でられて眠る當子を見つめていたが、女房達に促され、御子は隣室であちこち焼けたり返り血を浴びたりしている直垂を脱いだ。
 と、懐から何かが、ほとりと落ちた。仲影から渡された巻紙だった。
「あれ、汚らわしい」
 女房が指でつまんで捨てようとするのを、御子は慌てて取り上げた。
 そして、着替えもそこそこに、御子は慎重に紙を開く。仲影の懐の中で猛者の太刀に傷つけられ、仲影の血で染まって固まった巻紙を開くのは、慎重を要する。
後ろの方で医師《くすし》が、肩の傷を見たいとしきりに訴えているが、御子は返事もせず文を丁寧に開いた。
 苦労して開くと、あちこち破けているうえ斜めに断ち切られていて上半分ほどの紙がなかった。特に最初の方は多く切られてしまっている。が、御子は最後の差出人の署名にはっと目を奪われた。
 ――能登六郡地頭 長谷部信連
「信連殿!? しかし、能登六郡の地頭とは、いったい……」
 信連の署名の上に、あて名書きの一部が残っている。「影殿」と読めることから、仲影に宛てられた文であろうと推察できた。
 御子は、さっと字面を目で追い、ある文字を見つけて胸を掴まれた。
 ――成
 ――耆
 ――洛
「成国?」
 国という字は残っておらず、成盛の「成」か成国の「成」か判断がつかない。「耆」は伯耆、「洛」とあるのは都のことだ。
 御子は、全神経を注いで、文を解読しようと文字を追った。

   返事参候……臣皆解放後……殿被斬首伝……兵乱収束焉……及更深有
   御訪…………首是小鴨ガ知略候……尾領安寧約奉後御尋有御……洛由
    後日我文託飛脚於前文成……不知御所在伝参是誤候間……我御子坐
   於陸奥平泉聞及事驚参候……只祈……御子様安寧……耆経安芸至能登
   御訪有難事不及詞候……文治三年九月……能登六郡地頭 長谷部信連
   ……影殿

 御子は、何度も何度も、残った文字を拾う。特に「首是小鴨ガ知略候」と「洛由後日我文託飛脚」が胸に引っかかった。
 ――「首」というのは、成国の首級なのか。それなら「首級」とあるはず。では、「斬首」か? だとすればそれが「小鴨ガ知略」とはどういう意味なのか。知略によって成国の首ははねられたのか。
 つぎに、「洛由」だ。おそらく「上洛」の由《よし》を、後日、文に認めたのを飛脚に託したのだろう。誰が上洛したのだ? 
「尾領安寧約奉後御尋有御」も、「尾」は村尾だろう。とすれば、「村尾領の安寧を約束奉って」ということだ、信連殿が誰かに約束したということ、「後御尋有御」がわからぬ。そののち、「御」に続く何かを身分のある者が尋ねたと。
 それも、日付が二年も前だ。このような文があることを、仲影はなぜ一言も言わなかったのだ。
何もかもが釈然とせず、御子は困り果てた。
 
 ようやく傷の手当ても終わり、御子が當子の所へ向かうと、平泉の女房達が白湯と重湯を運んできていた。御子は、女房達から白湯の入った椀を受け取ると、褥の上できちんと居住まいを正して座る當子の膝の上の手にそっと置いた。主が女房に白湯を渡すのを見て、平泉の女房達は呆れた顔で互いに見合った。
「みな、ご苦労、下がってよい」
 伺候していた女房達は衣擦れの音を立てて姿を消した。
 當子は、仲影の絶命の仔細を聞きたがり、御子は覚えていることはすべて話した。
 覚山坊もそこへやってきて、伏し目がちに聞いていた。
 當子は、何度も嗚咽を漏らし、袖で顔を覆って聞き終えると、懐から大事そうに仲影の遺骨を出し、両手で挟んで合掌した。
「図らずも荼毘に付されるなど、ありがたいことです。それも国分寺の金堂の火で」
「大和の地に、帰してやろうと思う」
 當子は少し意外そうに、御子の顔を見た。
「この戦の行く末は分かりませんわ。大和……母上は息災にされているのかしら」
「この平泉には、大きな唐船がある。今から準備をして、尼君と當子は平泉から脱し、紀伊国和歌の浦を経由して、大和に帰るのだ。覚山坊にともに行ってもらおう」
「御子様は共に戻られないのですか」
 御子は、言葉に詰まった。その様子に、當子は少々怒ったように、
「唐船など、おそろしゅうて嫌でございます。御子様がお乗りになるとおっしゃるなら、もちろんお供いたしますけど」
 御子は何とも言えず困った。思い付いて、
「そういえば、仲影が死の直前に私に文を渡したのだ。伯耆の長谷部信連殿から仲影に宛てた文だが、引き切られてすべての字が読めぬ。仲影は何か言ってなかったか」
 當子は意外そうに、
「分かりませんわ。私にも信連様といまだ消息を交わしているとは申しておりませんでした。お見せいただけますか」
 仲影の血が染みているこの文を見せてよいものかと悩み、御子は、懐の中に入れた手を止めた。そして、どうも成国のことが書かれているような気がすると話すにとどめた。話を聞いても、當子も知らないようだった。
「けれど、二年も前の文を、兄上様は何故懐に忍ばせていたのでしょう。どうしても失ってはならない文なのか……大事なものであれば平泉に置いておけばよいのに」
「あるいは、私に見せようとしていたのかもしれぬ」
「もしかしたら、何度も何度も、見せ参らせようとしていて、ずっとお渡しできなかったか。兄上様ならそういう迷いもあるかもしれません」
 ――見せようとして見せられなかった……?
 でも、と當子は付け加えた。
「最後の最後に、やはり御子様にお渡ししなくては、と、思ったのですわね」
御子は、不意に胸を掴まれたような気がした。仲影はどんな気持ちで文を渡したのか。彼の最期の、ほんの一瞬の微笑みが目の裏に焼き付いて、御子の眼からぽたぽたと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 それを見て、當子もつられて顔をゆがませ、顔に袖を押し当て肩を震わせた。
 覚山坊が、また襷がけをして庭に降りて行ったので、御子はその後を追って声をかけた。
「覚山坊も文のことは聞いておらぬと」
 一度かけた襷を外し、御子の足元に跪いて頷く。
「京で姿を消し、ここで再び私に見《まみ》えるまで、覚山坊は何をしていたのだ」
「はぁ、実はずっとおそばにおりました。都の判官殿の御邸も時折覗いて御子のご無事を確認し、この平泉への御下向にも、ずっとついてまいりました」
 なんとまあ、律儀よ、と御子は内心思いながら、
「成国の噂は聞き及んではおらぬか」
「私の知る限りでは、村尾が滅び、家臣団が小鴨に捕らわれた後、なぜか全員が解放された。そこまででございます。この平泉で、御子様が成国殿の訃報に触れなさった時に、私も知った程度で……。とにかく平家滅亡の後の西国と言えば、混乱の極み、源氏平家に関わりもない者が、どちらかの派を騙って気に入らぬ者を滅っせんと戦を仕掛けたり、乱暴が横行したり。ついには、後白河院の召次《めしつぎ》まで暴行を受ける始末」
「院の使いの者が暴行を受けるなど、あってはならぬこと。恐ろしいことをする者もいたものだ」
 つまりそれほどまでに、西国はひどい状況だったと……。
 せっかく残されたが、あの文の解読は相当困難のように思えた。

 数日後、鎌倉軍は、物見岡、多加波々城、葛岡と、一つ一つ砦をつぶしながら平泉に近づいてきているという報が届いた。また、さらには、津久毛《つくも》橋への備えを始めているということだった。
 御子は、津久毛橋と平泉の間の一関《いちのせき》あたりで鎌倉を留め、平泉を守る策を練ろうとしていた。
「それにしても、国衡殿がまだ平泉にお戻りでないのが気がかりだ。何かあったのではないか」
 御子の言葉に、基成をはじめ、集まった郎等ら案じているように顔を見合わせた。
 そこへ、荒々しい足音がして、郎等の一人が縁で片膝をついた。
「姫宮様、泰衡様がこちらに向かわれているとのことでございます」
 平泉の郎等らは色めき立ったが、御子の顔色は変わった。
「ほう、どさくさに紛れて逃げられた泰衡殿が、ようやっと平泉にご帰還か」
 御子が立ち上がってそう言うのを、一同は驚いて見上げる。
「なんですと、逃げた?」
「誠ですか、姫宮様」
「阿津賀志山が破られたので、国分寺で鎌倉を迎え撃つべく泰衡殿のもとへ走ったが、軍議が開かれる直前に姿を消したのだ」
 郎等たちは困惑して互いに顔を見合わせた。とりあえず、御子は一関に陣を敷くよう指示を出し、
「さて、泰衡殿の顔でも拝みに行くとしよう。逃げ足の速いお方故、お会いできぬかもしれぬでな」
 皮肉たっぷりにそう言って、直垂姿に太刀を掴むと、平泉の門へと向かった。郎等たちは、困ったように御子の後ろについていった。
 時は午の刻を過ぎたばかりの昼――。折からの雨が急にひどくなり、暴風雨と変わったばかりだ。その雨風にさらされながら、門の外で、御子は腕を組んで仁王立ちして待っていた。郎等たちは、門の横の軒下で、御子の後姿を見守っている。
 御子は、収まりきらぬ憤慨を腹から煮え立たせて、泰衡をどうしてやろうと息巻いていた。
 雨風の音が耳にうるさいほどだったが、かすかに蹄の音が聞こえてきた。
 ――来たか。
 泰衡を中心に、わずかばかりの郎従たちが泥と雨をはね上げて、こちらに向かってくる。ところが、泰衡だけは、門の手前で馬を止め、郎従どもは門の中へ馬に乗ったまま駆け込んだ。
 軒下で雨をしのいでいた郎等たちが、郎従に声をかけようとしたが、郎従は固い表情のまま馬から降りると、挨拶もせず邸の内にそれぞれ走り入って行った。
「いったい、どうしたというのだ。何かあるのかもしれぬ。行ってみよう」
 郎等たちは心配げに、邸に駆け込んでいった郎従の後を追って、奥に消えた。
 門の前で、残っているのは、御子と馬上の泰衡だけである。
 痛いほどの激しい雨が御子の頬を叩きつける。御子の髪は顔や肩にまとわりつき、泰衡の馬は息を白くした。泰衡もひどく雨に打たれているが、馬から降りもせず、ひきつったような顔をして、門前の御子を見下ろす。
「ご無事であったか、姫宮」
「そなたこそ。うまく逃げおおせたようであるな」
 泰衡は表情一つ変えない。
「何故そこにおる。中に入って、みなに詫びるがよい」
 泰衡は、唇を引き結ぶと、手綱を握りなおした。その手の動きに、御子は違和感を抱いた。今から走りだそうとするように感じた。
「わしは!」
 泰衡が不意に声を上げた。が、まるで泣いているような声だった。
「わしは、わしなりに平泉を守るつもりだ!」
「守るというのなら内へ入って軍備を整えよ。鎌倉は津久毛橋まで迫っておるぞ」
「鎌倉……」
 そうつぶやくと、雨が流れる頬をゆがませた。笑ったように見えた。
「憎いのぅ。頼朝が憎くて仕方がない。わしに近づいたは、この平泉の財が目的だったのだ。きっとそうなのだ。だからわしは、一つたりともこの平泉の財宝を、奴の手には渡さぬと決意したのだ」
「何を言っているのだ。なれば何故逃げる。戦えばよいであろう」
「戦って守れぬから、こうしているのだ」
 泰衡が言う意味をつかみかねる御子の耳に、背後から人の叫ぶ声が聞こえた。
「火だ! 火がついたぞ! もう収まらぬ! 逃げよ逃げよ!」
 驚いて振り向く御子は、邸の方々からいくつも炎が上がるのを見た。信じられぬ思いで、泰衡の方を振り向くと、泰衡はぐっとかみしめたらしく顎に力が入った。と、手綱を引いて馬の尻を御子に向けると、馬の腹をけった。
「泰衡!」
 ありったけの大音声で怒鳴るようにその名を呼ぶが、泰衡は暴風雨の中、とうに小さくかすんでいる。御子は急いで屋敷内に駆け戻ると、逃げようと右往左往する人々にぶつかりながら、尼君と當子を探した。
 ――この雨だ。そうそう燃え広がるまい。
 そう思って邸の中に入ったが、室内は乾いている。さらに、油をまいて火をつけたらしく、炎の勢いは尋常ではない。なめるように炎が広がり、雨でぬれた屋根の辺りでくすぶると黒く濃い煙を吐き出す。
 御子は咳き込みながら、當子と尼君、覚山坊を呼ぶ。
 炎に髪は焼かれ、息が次第にできなくなる。墨をこぼしたような煙が襲う。
「御子様!」
 聞き覚えのある声に、御子は走った。
 御子の居室に當子がうずくまっていた。
「何をしている、早く外へ!」
 當子は、御子の太刀と錦で作られた小袋を大事そうに抱えていた。
「御子様の御大事《おんだいじ》のものを、失ってはならぬと思い」
 御子は太刀を受け取ると、當子を抱えるようにして、外へ向かう。が、どちらへ逃げようとも、炎が激しく逃げ場がない。息もできない。
 當子が、咳き込んで御子にしがみついている。
 ――ここで炎を恐れていては、逆に飲み込まれる。一か八か――!
 御子の脳裏に、一瞬、三徳山の馬の背の景色がよぎった。
 御子は、當子の体を脇に抱えるようにしっかり抱くと、炎に飛び込んだ。炎が切れるところまで一心不乱に駆け抜けると、ふいに冷たい風が頬を撫でた。
「御子様!」
 覚山坊が炎の中に入ってきていた。
 當子を任せて、ともに外へ出る。水たまりの中に転ぶ。激しい雨に、焦げた髪が煙を上げ、足の裏の焼けた皮を冷やした。
 當子は激しく咳き込んでいる。御子は、煙が目に染みてひどい痛みを感じながらも、後ろを振り向いた。よくは見えないが、大雨にもかかわらず、大きな火の塊になって、平泉の、柳之御所と呼ばれた秀衡館が音を立てて崩れた。遠く見える寺や高床の蔵も炎を上げていた。
「覚山坊、尼君は」
「ここにおりまする」
 御子の手を暖かい手が握った。しかしひどく震えている。
「覚山坊、火の手を逃れた屋敷はあるか。目を傷めたらしくはっきり見えぬ。安全な家屋があれば、そこへ尼君を案内《あない》せよ」
 覚山坊は背を伸ばして遠くを見やり、
「西南に一つ、離れていますが焼けていない蔵がございます」
 御子たちは覚山坊を頼りに、逃げ惑う人々にぶつかりながら、暴風雨の中、南西の蔵に入った。



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