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誰かに認めてもらえなくても、自分でい続けたい


人と合わせることが美学なこともある。

そうやって生きてきたけれど、ここ最近はそうじゃなくてもよいのではないかと思い始めている。

なぜか。それは、いまわたしが所属しているコミュニティに由来がある気がしている。


コミュニティに依存してしまうもの。

それは、そこでの関係値だったり、自分の立場だったり。
人によってさまざまだとは思う。

わたしの場合、コミュニティ内に優秀なひとが多くいることから、それに劣らないように必死だ。決して劣っていてもいいのだろうけど、わたしの負けず嫌いがここで否応にも発揮されてしまっている。

だからといって、何かができるようになるのか?
それは不正解だ。

だからこそ、現時点でできる部分で、完璧であろうとする。
完璧でなければ、必要とされないし、認めてもらえない。そして、間違えを発見した際に、直していこう、なんて声掛けしてはいけないと思っていた。


いつからか、わたしの既存概念がすこし変わった時があった。

決して、仕事が早いわけでもない。
お世辞にも、ずば抜けて仕事ができるわけでもない。

それでも信用され、愛されるひとがいる。

それを因数分解しようと、何か月も考えたり、むやみやたらにコミュニケーションをとったりした。勘違いかもしれないけれど、そこから見えたものがある。

それが、人当たりの良さ・愛され力だ。

私には欠乏しているその力。
どうしたら手に入れられるのか。考えても考えても、答えの出ない時間が続いた。

人をうらやみ、人をあこがれ、自分を卑下する。

いままでのわたしはそう生きてきた。
だけれども、この時代、人と同じになる必要があるのか?そう感じた出来事がある。

いままで、コミュニティの中での立ち位置は、とんでもなく重要だと思っていた。

その立ち位置次第でかけてもらえる言葉も、できる仕事も、みんなとの仲の良さも、すべてが変わると思っていたからだ。
でも、それを気にしないひとが近くにいる。その人曰く、そんなの一時の思いだ、と。別にいまが楽しければいいんじゃない?と。

何かがすっと落ちた気がした。
こんな単純な、だれにでも言えてしまう言葉なのに。

わたしはわたしだし、人と同じである必要はない。人と同じだったら、このコミュニティの居心地は絶対に悪い。そのくらい、いろいろな人たちが集まり、そしておもしろい考えをしているコミュニティに属しているからだ。

誰か、特定の人に認められなくたっていい。
その分、別の誰かが見ていてくれると信じてる。別の誰かがいなくても、自分が自分を見ているもの。

人生、社会に属する者として、時には人と合わせる必要はでてくるはず。

そのときはそのときだ。
基本のスタンスを崩さず、自分が自分でいても許される社会になってきた。
今後はさらにそれが進んでいく社会になると思う。
ストレス社会だとしても、どこかでそれを発散できる社会に。

だからこそ、自分でい続けたいと思う。

全員に認められなくても、誰かに認められるということを信じて。






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