ウクライナについて
もうすぐ、ウクライナとロシアの戦争が始まって2年が経つようだ。毎日考えるトピックではないが、今回はとあることをきっかけに考える機会をいただいた。このようなテーマについて知ること、考えることはあまり楽しいことではないけれども、重要なことだと、今回の経験を機に再確認させられた。自分の考えを深めるため、誰かが戦争について考えるきっかけとなり将来に同じ間違いを繰り返さないようにするために、ウクライナ出身の友達とウクライナのドキュメンタリーを見て思ったこと、考えたことについて言及する。
1.概要
ウクライナ出身の友達に声をかけたところ、彼女はウクライナのドキュメンタリー映画を観に行くから観てみないかと誘われた。せっかくだし、彼女に会って話をしたかったので、軽い気持ちで一緒に行くことにした。
ウクライナとロシアの戦争について初めの方こそ、ニュースで取り上げられているのをよく観ていた気がするが、だんだんと日数が経つにつれ、少なくとも私の中では存在感が小さくなっていった。もちろん、戦争が続いていることは知っているし、ウクライナの旗が掲げてあるのを目にしたり、誰かがウクライナやロシア出身だと聞くと、どこか不穏な気持ちになった(もちろん、彼彼女らが悪いわけではない)。ウクライナ出身の彼女にも、どこまで情勢のことや思いを聞いているのか分からず、あまり触れることができずにいた。
会場には30人くらいいて、ウクライナ出身の方が多く、デンマーク出身の方もいた。元々デンマークに移住していたウクライナ出身者、戦争を機にやってきた人もいた。主催者は地域に住むウクライナ出身者のグループだった。「WAR VS CULTURE」というものを見た。服役している映画監督を仕事にしていた人、役者、音楽家などが中心となり、ウクライナの戦争の状況を伝えるドキュメントとなっていた。
鑑賞が終わった後、主催者が「行動を起こすために寄付をしてほしい。寄付は軍隊に提供される。先日はとある人から多額の寄付を受け、負傷した兵隊を戦地から病院に運ぶための車を買うことができた。戦争に勝つためにはお金が必要だ。」との旨のことをおっしゃっていた。また、今後行われる町のフェスティバルでブースを設け、売上を寄付しようという計画が進んでいるようだ。
2.感想・考えたこと
タイトルからも想像される通り、文化的なこと、戦争を詩にしたもの、ウクライナの伝統的な踊り、ウクライナの独立を願う歌なども入っており、ウクライナへの愛国心が伝わってきた。他方で、銃や大砲で街が破壊された様子、人が死傷した様子も収められていた。戦争をドキュメントし様子を伝えることは、武器で戦うよりも強くなれることだと語っている人もいた。
今、私が生きているこの同じ時間に、この世界で、人が人を殺し合う戦争が起きているとは信じがたいことだった。「偉い人」が考えて、民間人はわけもわからず戦って命を落としていく。今までの歴史から、戦争をしたって、人が死ぬばかりで物事はうまく行かないと学んでこなかったのだろうか。なぜ、「偉い人」は偉いはずなのに、同じ間違いを繰り返すのか。
私は、寄付が軍隊に提供されるという点にも疑問を覚えた。武器がある限り戦争が続き、多くの人が命を起こしていくのではないかと思った。確かに、ウクライナが戦争に勝つことは、ウクライナが自由と平等を手に入れるために必要なことなのかもしれない。しかし、それと引き換えに、大切な人が奪われていく、自分も死ぬかもしれない。そこまでして、守らないといけないのだろうか。私は同じ状況にいた試しがないから、すべて想像することしかできないし、自分のアイデンティティーを守ることがどれほど大切なことなのかもわからない。それでも、私は私の育った背景から、人の命を優先して、こっそりと文化などの守りたいもの。守るべきものは守っていけばいいのではないかと思う。罪のない人たちが、命を落としていくのは、私にとっては耐えがたい。
しかし、私のように考える人は多数ではないだろうし、もし権力に対抗する人がいなかったら、世の中は変わらないのかもしれない。だから、戦争は続いている。話し合いで解決することは不可能なのだろうか。私は、読み書き計算などの基本的な教育に加え、平和教育、歴史を学び、人の命の尊さや戦争の悲惨さを学ぶことで、戦争はなくなるのではないかと考えていたが、それは甘いのだろうか。
あるいは、私は臆病で卑怯なのかもしれない。遠藤周作の「沈黙」が思い出された。江戸時代のキリスト教弾圧について習った時、キリスト教徒であっても、踏み絵なんか踏んで仕舞えばいいのに、神様は許してくれるよと、私は思っていたが、小説を読んで、それは裏切り者のキチジローと同じなのかもしれないと、自分の弱さを悟った。
何が正しいのか、正しいことをおくことが優先されるべきことなのか、何を優先すればいいのか、私はまたわからなくなってしまった。私は、たまたま今の時代の日本に生まれ、自分の命や明日の暮らしを心配せずともぬくぬくと日々を送ることができている。大学に入るまで、私は平和について考えることの多い環境で育ってきた。その中で、自分の置かれている「恵まれた」環境に罪悪感を覚えており、どうにかして、状況をよくするために貢献しなければならないという使命感を勝手に覚えていた。大学生になって環境が変わったこと、罪悪感からの逃避から、私は現実から目をそらしていた。自分がどうしたいのか、何ができるのかはわからないし、無力感ばかりだけれども、少なくとも考え続けること、知ることは必要なことだと思う。今回は、大切なことに向き合う貴重な機会となった。
3.彼女との対話と通して
ドキュメンタリーを見た後、彼女と話をした。どこまで深く話していいのかわからないし、自分の言語力に限界があるから、どこまで理解し伝えられたかはわからないけれども。彼女はドキュメンタリーで語られていたこと全てに賛成ではないと、言っていた。やはり、意見は異なるのだ。
彼女の親しくしていた友達も、志願兵となり戦地で両足と片腕を失ったらしい。彼女は友達のことを知り、より戦争をリアルなものとして感じるようになったという。周りの人が次々と国のために、と戦争に行っていたら、自分も戦争に行かないといけないような気持ちになるのではないかと思わされた。戦争に行かなかったら、お前はウクライナが好きではないのか?と、日本の戦時中でいう非国民みたいな扱いを受けるのではないかと感じた。
私は対抗することに遺憾を覚えると伝えると、対抗しなくてもどうせ殺されるだけだ、と彼女は言っていた。ただ死ぬよりは、少しでも抵抗を示して死にたいと。本当に、何をしなくても殺されるのだろうか。私の、事実を踏まえない悲観的な考えでは、軍事力には圧倒的な差があり、どこまでウクライナが抵抗できるのかわからないのではないかと思う。支援を受けて戦って、死んで、どこまでインパクトを残せるのだろうか。いつ、ロシアは変わるのだろうか。私にはわからない。
4.さいごに
彼女にとっても、今回のドキュメンタリーは重たいところもあっただろうし、私に声をかけるのも迷ったかもしれない。このような機会をくれた彼女に感謝の意を示して、取り止めのない私の意見を締めくくることとする。
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