敢えて聞かないとどうなるかの話
昨日、『コーダ あいのうた』という映画を観た。とても良くて涙が出た。
主人公は歌の才能を発見され、名門音楽院への入学を教師から提案される。だが、彼女以外の家族は耳が聞こえないから音楽の良さが聞いている人のように分からない。
その為と言って良いのだろうか。彼女が歌が好きな気持ち、そしてその道を進む事を家族は素直に応援出来ない。
特に、母親だ。娘は耳が聞こえる。自分は聞こえない。だから、娘の事を分かってやれないとの潜在的な気持ちがあった。
しかし、その家族が学校の発表会を観に行った時から、彼女の中で何かが変わる。歌っている娘の姿。そして観客。それは、父親も同様に…
ここら辺の流れから、クライマックスにかけてが音楽にのせて上手く描かれていて感動した。
この映画を観て、
敢えて聞かないとどうなるかの話をしたいと思った
多くの人は耳が聞こえる。そして会話は互いの選んでいる言葉や表現を交換して成り立っている。ただ、それだけだろうか。
言語を使っていても、時として人はその会話を誤解してしまう事がある。
また、その言葉に込められているものは発した本人でなければ100%分かる訳はない。相手と自分はイコールでない事から明らか。
耳が聞こえればいつも音が飛び交う。だから、相手がかなりの精度で分かると勘違いしやすい。
ただ、耳が聞こえなければ最初から聞いていないのだ。
ここでは、音を物理的にキャッチしないという意味での聞いていないだ。
いや、そうでなくこの映画の登場人物(特に母親)は娘の事は分からないと諦めていたように見える。
言葉と言葉のキャッチボールがここでは成立していない。
敢えて聞こうとしていない。これは、物理ではなく心の話だ。
ここから、何が分かるだろう。
私が思う事は、敢えて音を聞かなくても伝わる事があるという事だ。
これは、物語内での話ではない。実際に、研究でも言語情報で伝わる事は1割未満という人もいるくらいだ。
人はコミュニケーションをする際の非言語コミュニケーションの方が優位になるという研究結果も多々ある。
私は言語の事について書いている以上は、コミュニケーションについての本質を度々書いていきたい。
ここでは、英語を中心にして書いているので英語の話をしよう。
英語を使ってコミュニケーションを取るということを考えると、器用に言葉を選び使いこなし沢山音を発する事が英語使いと考えがちだろう。
沢山、表現を憶え文法をこなしスラスラ話せばコミュニケーションは成り立つのか?
もちろん、それは大事だがそれはほんの一部分に過ぎない。それよりも、他の部分もかなり重要だ。
無闇矢鱈に多く喋る事。相手の発する単語や表現を拾い、その意味からのみ解釈する事。
それはどれほど重要なのか?
一度立ち止まる事も重要だ。
非言語コミュニケーションがかなりの部分を占めていると考えれば、敢えて聞かなくても良いのかもしれない。それにそんなに言葉を発する事ばかりが正解でもない。
いろんな方法があって良いはずなんだ。
そこに想いが乗っているか?自分がどうしてそう言うのかの方が余程重要で、ただ発している言葉などにはそんなに意味はない。
そう考える事も時には大切。
物理的に、敢えて聞かないとどうなるかを考えてみる。
そしてそれだってコミュニケーションの1つのヒントだと強くそう思う。
“ただ言葉を発するだけじゃ、ロボットだ。”
というような事を言葉は違えど私はしょっちゅう書いている。言葉を除いたら、何もないそういうこと。
逆に、想いが乗ればそれは言葉以上のものとなる。
敢えて聞かないようにする事を考えてみたら、それは感性を忘れないようにする事とも思えた。
これは、コミュニケーションの本質だ。
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