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紅い指


※衝撃の強い表現が含まれております。暴力や傷の描写などに弱い方は読むのをお控えください。

※下記の記事の後の出来事です。




「占ってもらえませんか」

占いを続けて、常連様もつくようになった頃。
20代半ばくらいだろうか。痩せた、黒い髪の青年が店にやって来た。

暑い、盛夏の朔月の夜、その人は輪郭が白く、なぜかぼやけて光って見えたのを覚えている。

夜になっても温度は下がらず、むせかえるような熱気の中、彼の周りだけ温度が違うようだった。何か冷たい硬質な、静かな空気を纏い、黒い長袖のシャツからかすかに見える手首の白さがやけに浮いて見えた。

ぼさぼさの肩まで伸びた髪、白い顔。綺麗な顔立ちをしている。すらりとした鼻筋。汚れた細い指先。バッグも何も持たず、手ぶらで立っていた。何か少し様子がおかしかった。

彼は他の占い師には目もくれず、真っ直ぐに私の前に座った。

他のお客様の会計中だった私は、貫くように自分を見る視線にやや戸惑いながらも、いらっしゃいませと急いでブースを片付ける。

真っ黒な瞳。
その色に、昔読んだ小説の、夢十夜の女を思い出した。

光を吸収してしまう底の知れない闇の色。ひどく汚れた衣服と靴。骨の浮いた腕は白く、そして微かに震えていた。

どこか尋常ではないその青年の様子に、占い師たちはそっと顔を目線を交わし、私に断るように目くばせをした。私は頷き、彼を見た。

本日は予定がいっぱいなので、と伝える。彼の目に失望が浮かんだ。
思わず私はためらいながら、明日なら。と付け加えてしまった。

彼は少し安心したように頷き、静かに席を立って帰って行った。

今までにない、占いのお客様の来訪に、とても心がざわついたのを覚えている。



「占ってもらえませんか」

彼は次の日もやって来た。同じ時間、閉店間際の闇の中。

では、生年月日を教えてもらえますか。占星術とタロット占いを組み合わせるのが私の占いのスタイルである。彼は小さな声で年月日を呟いた後、おずおずと質問してきた。

「名前は必要ですか」

名前というのは、実は人生には非常に密着している。多くの占い師は名前を聞くことも多いが、私は占いにおいては、あえて個人の名前を聞かないようにしていた。

名前は必要ありませんと伝えると、彼は安心したように少し笑った。
何を占いましょう、というと彼はこう言った。

「僕はこれからどうなるのでしょう」

分かりました、とタロットをシャッフルし、カードを展開していく。
過去・現在・未来を導き出すために三つのカードを並べる。

カードをめくろうとした時、彼が言った。

「やっぱりいいです。また来ます」

そして彼はそのまま立ち上がり、帰って行った。



そんなことが何回か繰り返された。閉店間際にふらりと現れ、席に着く。

「占ってください」

しかし占いはせずに、数分で帰って行く。毎日同じ、黒いシャツに黒いズボン。ボロボロのスニーカー。そして顔だけは白く、端正な横顔。伏し目がちの黒い瞳。

数分いるだけで、しかも占いをしていないので、当然お金は貰えない。
それでも彼は何度も来るようになった。

-- ダメだよああいうのを相手にしちゃ。

店長にも、店の他の占い師に止められたけど、私は何だかきっぱりと拒絶できずにいた。

通常、私の眼には、どの人間にも過去や背景の”色”が視える。そして未来への感情も視えるのが常である。

明日の仕事。友達や家族。ムカつく上司。今日の夕ごはん。楽しみにしている来週のTVドラマ。そんな生活の映像が、普通は人からは滲み出ている。映像で断片的に、時には匂いや感触なども視える。

けれど、彼からは、何も見えなかった。
全く。何も。

全てが真っ黒に、のっぺりと塗りつぶされている。奥行きの分からない、捉えようのない黒。そんな事は初めてだった。

占いに来ているのに、私はカードすら引かせてもらえない。カード達も沈黙をしている。何も視えない。占いもできない。

何か歯の奥に挟まったかのような違和感。

関わってはいけない…。分かっている。幾度となく自分に言い聞かせる。
こういうお客様に関わってはいけない。

でも。私は視なくてはいけないような気がしていた。

煙にと共に闇夜に浮かぶおじさんの顔。
腕を切りながらも、苦しみでもがきながらも、私を呼んでくれた彼女。

暗い心の奥底の闇の中から、悲痛に叫ぶ、声にならない声。

助けを必要としているなら、そして私の声が届くなら。
私が何かを出来るかもしれないのなら。
その時はそう思っていた。

私はうぬぼれていて、根本から勘違いしていて、何かが自分に出来るはずだと思っていたのだ。
傲慢で鼻持ちならない、どうしようもない身の程知らず、役立たずだった。



その日は殊更暑い日だった。お昼をまわったころ、私は夕方からの出勤のために少し仮眠をとっていた。

外は酷く気温が高く、窓の外は海岸のように眩しく、建物は濃い影を落としているのが見えた。異常すぎる暑さのためなのか蝉の声も聞こえない。目をこすりながら、軽い昼食をとろうと起き上がる。

そろそろ出勤しないと。着替えて、ご飯を食べようとした時、ドアフォンが鳴った。頼んでいた荷物かなと、何も考えずドアを開ける。

「こんにちは」

ドアを開けると、青年が一人立っていた。ぼさぼさの髪、黒いシャツとズボン。驚くよりもまず先に、私の視線は彼の手に集中した。

いつもは下ろしている長い袖を、彼は今日は肘までまくっていた。

その手首にはくっきりと人の指であろう痕がついていた。相当強く力をこめて握られないとつかない、どす黒い紅い指の痕だった。

「入ってもいいですか」

外の雑踏も喧噪も何も聞こえない、夏の濃い日陰の部屋に、青年は静謐と共にやって来た。エアコンの効いた涼しい部屋の中に、彼はまるで水族館の魚のように、するりと静かに入ってきた。



私はきっと常識というものがずれているんだと思う。自分の部屋に良く知らない人間を入れること自体そもそも間違っている。そして彼は尋常な様子ではない。

私は身の危険を感じつつも、平静を装って部屋に招き入れてしまった。寝起きで頭がうまく動かなかったせいもあったかもしれない。占い師がストーカーにあうのはよくある話なのに。

「あとをつけて、この場所を知りました。ごめんなさい」

彼は部屋に入ると、テーブルの前におとなしく座った。

「ご飯食べてたんですか」

彼は私が食べようとしていた、砂糖と醤油で簡単に味付けした卵焼きを見て言った。

すみません、食事しようとしていて。今冷たいお茶入れますね。
とにかく平静を保とうと、二つコップを並べて麦茶を入れると彼がふと言った。

「美味しそうですね」

出汁とか入れずに適当に作ったやつですけど、食べます?と冗談まじりに言うと、意外にも彼は迷いなく手でつまんで口に入れた。「美味しい」笑顔がこぼれた。

”ひょっとしたら殺されるんじゃないか…”と構えていた私は、少しほっとして彼に言う。お昼食べてないんですか。あるものでよければ何か作りますよ。

とりあえず冷蔵庫を漁り、箸と一緒に漬物やらミニトマトやらテーブルに並べる。お腹が空いていたのか、彼は出したものを口にした。私も空腹を思い出し、もぐもぐと二人でご飯を食べだした。なんだか人間らしくて少し安心してきた。今まで見てきた無表情な顔に少し生気が宿っている。

名前も知らない、会話もほとんどしたことのない人と、私はなぜか起きたばかりの自分の部屋でご飯を一緒に食べている。何をやってるんだ、私は。

好きな食べ物は何ですか、と何気なく聞くと、
「オムライスを食べたことなくて。食べてみたいです」と言う。

オムライスを食べたことがない??

餡がけとか、半熟を割るとかの難しいやつですか?と聞くと、「いえ、ケチャップで文字を書くやつです」と大真面目に彼は答えた。私はちょうどケチャップを切らしていることを思い出した。卵はまだあったはず。まあ別に部屋にとられるようなものないし。

材料買ってくるんで、作りましょうか。コンビニが歩いて数分のとこにあるんですよ。待っててくれたらすぐ作りますから。

彼は驚いたように黒い大きな瞳を見開いた。その人間らしい表情に私はだいぶ安心し、すぐ行ってきますからと財布を出そうとごそごそしていると、彼が話しだした。

「親を殺してしまいそうなんです」

彼はそういうと、黒い袖を肩までまくり上げた。男性にしてはかなり細い腕が肩まで露わになり、私は息をのんだ。

黄色と紫の混じる打撲の痕が肩から肘までを覆っている。続けて彼はシャツのボタンを少し外して、胸をはだけて見せる。ところどころにケロイドの痕と無数の痣とがくっきりと見て取れる。

そして手首に残る、まだ新しい、生々しい紅い指の痕。

綺麗な顔には傷ひとつ付いていない。思い返すと、彼はずっと長袖を着ていた。ボロボロの靴。ずっと毎回同じ服。やってくるのは閉店間際の同じわずかな時間帯。

殺されそうなのは、あなたのほうでしょう。
そう問うと、かすかに彼は呟いた。「もう限界かもしれません」

その人は、その人たちは、外から見えるところには傷を付けないのですか。そう問いかけると彼は頷いた。

警察、弁護士、市役所、どこでもいいので一緒に行きましょう。今すぐに。時計を見るとまだ13時を回ったところだった。公的な機関もやっているはずだ。

私の提案を聞くと、彼は袖をそっと下ろし、胸のボタンを留めると、はじめてしっかりと黒い瞳に光を宿して私を見た。「ありがとうございます」

「僕、オムライス食べたいのでその後にお願いしていいですか」

私は頷くと、財布だけ持って外に出た。部屋の中の静謐さが嘘のような、強い、目の眩むような陽射しの中、サンダルをつっかけて走って外に出た。




帰ってくると、彼は居なかった。
箸をきれいに揃えて、コップをシンクにきちんと置いて、彼は消えていた。

ケチャップが入ったコンビニのビニール袋を床において呆然としながら座り込むと、ぽたぽたと涙が出てきた。

彼に対しての憐憫の情ではなく、彼の苦痛に対しての悲しみでもなく、崇高な義憤でもなく、ただただ阿呆な、何も出来ない無力な自分に対しての、やるせない、情けない、怒りの涙だった。

世の中は理不尽で
不公平で

とある場所ではとても理性的で、公平なところが設けられていて
糾弾を受け入れられる。助けを呼べる。苦しみを訴えられる。

とある場所では、何もかもが滅茶苦茶で、外側と内側が全く違って
誰かが皺寄せを背負わされている。

いつもどこかで悲劇がごく当たり前のように進行している。

残酷なことは、こんなにも簡単に起こっている。

私は本当に、本当に何も出来ない、無力な人間なのだと。


彼が店にくることは、その後は無かった。

名前を聞かなかった私が馬鹿でしたというと、”名前を聞かなかったからあんたに話せたんじゃないの”と店の占い師が言った。




昔読んだ小説の、夢十夜の女を思い出す。

女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

夢十夜 - Wikipedia

大きな真珠貝で穴を掘り、天から落ちてくる星の破片を置けば、彼は戻ってくるのだろうか。

百年待てばオムライスを食べてくれるのだろうか。

もし私が馬鹿でなかったら。

百合のように白い、綺麗な彼を、救うことができたのだろうか。

彼の手首に残る、あの紅い色を。

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