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役に立つことに抗い、肉は歌う

作品に罪はないし、誰も悪くなさすぎ問題

不祥事に限らずとも、作者にまつわる知らせで、心がざわついたことがある。大物であればメディアに取り沙汰されるのも無理はないとかではなく、もっと市民的な知らせ。やっぱり何か、今もどこかで小さく創作活動をはじめようとしている人が、そっと下書き保存にしまうような背中が見えて切ない。

絵でも文章でも、救われるのは他でもない自分なのだ。だから諦めてほしくない。仕事にするなら話は別なのだけど、今日はひとまず、ただ創りたいを肯定するに徹したい。

創ることはとても身近になった。それを届けるのも、ありがたいことに容易になった。見るのも届けるのも、そうした恩恵を受けつつも、どこかで発表することの怖さに負けそうになる。というか、ずいぶん前から負けているし、負け続けることで何も創らなくなったのが正直なところ。

この負けた感覚、いったい何処からやってくるのだろうか。例えば、仕事につなげなきゃとか、限られた時間と予算で、とか、実利的な負けパターンは分かりやすい。でも今回扱いたい"創る"はそこじゃない。もっと庶民的で、車や体のメンテナンスのような、油をさすとか、整体に通うようなイメージに近い。心の庭に水をやり、たまにクローバーを探すくらいのはずなのに。

勝ち負けという表現は危ういものだけれど、あえてその枠にはめてみながら、発表する怖さを乗り越えて、心安らかに創作物に挑戦できるのか考えてみたい。

ズレた容れ物としての肉を腐敗させないために

作品と創造主は、ぜんぜんイコールじゃないはずなのに、その人の性別や年令、容姿に意識を向けてはいないか?他人のことを気にしてないよ無いと言いながら、「オフの日もかわいくて小綺麗で、センスのある人なんだな〜」とか言ってストーリーズを眺めていたりするじゃないか。ならば自分はそんなふうに見られているか?ナイナイ。自意識過剰だと言えば話は終わりだけど、単純なワードにこの違和感を回収してしまうのは勿体ない気もする。

作品と創造主。魂とその容れ物であるところの肉体は、どうも切り離しがたく、この同一性が耐え難くなっているのではないか。作者がもっと容姿端麗であれば、世の中はもっと評価してくれたのに、という主張ではない。これはひどく個人的な感覚だが、"魂が求める容れ物に入りそびれてしまったのだ"という諦念がじっとりと纏わりついてくる。

負けたような感覚が、魂と肉のズレだとして、いったい何が問題なのだろうか。顔も声も出さずに発表する場はいくらでもあるし、自分のために作っているものがほとんどならば、どこにでも放てばよいはずなのに。

役に立ちたい誘惑に勝てない

そうだ、本来そうであったように誰の目も気にすることはない。肉とか魂とかは、いったん脇においておこう。ここからは割と自分ベースで、創作との向き合い方をまとめておきたい。

容姿の囚われよりもずっと強敵なのが「役に立ちたい」モンスター。筋肉ゴリゴリの怪物っていうより、ぬらっと湧いてくる怪異に近くて、むっちゃ強い。情報がenoughな世間で、私たちは酸素みたいに役立ち情報を吸ってるから、金にもならず仕事にもならずただ自分だけちょっと嬉しい純朴さに不慣れで、どうしても窒素のようなパーセンテージを割り当ててしまう。だって、役に立たないから、という堂々めぐりの怪異。

純朴に書き始めたものも、こうやったら好かれそうだとか、商品になるとか、宣伝しやすいとか、考えてしまう。ちょっと仕事で鍛えた筋力を試したくなったりして、恥ずかしくなってノートを閉じる。

役に立つことよりも、大切にしていいこと、いっぱいあるのにね。頭でわかっていても、心が追い越してくる。光よりも望みが早い、思考新幹線がえぐいて。結局のところ1文字ずつ前に進むしかないし、ズレたまま踊り、役に立たない歌をうたうしかない。

自分だけちょっとうれしい純朴さを取り戻すための訓練を、しばらくやってみようと思う。なんだか今やらないと、もうずっと忘れたまま生きていけちゃいそうで、どうにも怖い。

何もまとまらなかったけれど、すこし息が深く吸えたら、それでよし。さぁ!踊ろう、うたおう!



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