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友人にお題をもらって役に立たない話を書くシリーズvol.1「めっちゃ泣いたこと」w/ ぬまじー

役に立たない話を書きたい理由

自分なりの役に立つ文章を意識してきた

「文章を書くのが好き。」
こう目覚めたのは、おそらく自分の名前でブログを書き始めてからだと思う。完全なる個人の立場で実名ブログを書く勇気はなく、会社の広報ブログへの顔出しならハードル低いかも…なんてよこしまな気持ちで始めたのが最初でした。(そのときの会社さんありがとう。)

お世辞も含まれていたと思うけれど、「文章上手だね」「おもしろかったよ」「私(僕)のこと書いてくれてありがとう」、そんなあたたかい反響や声が多くて、『文章を書くことって相手を幸福な気持ちにすることができるんだな』と私も幸福な気持ちになりました。そして文章で自分を表現することがとても好きになりました。

誰かに喜んでもらいたい。文章を読むことを楽しんでもらいたい。
私の文章は“自分のサービス精神のあらわれ”みたいな部分が大きくて、せっかく時間を割いて読んでもらうのだから、相手のメリットになるような「なにかいいこと言いたい!」の気持ちをめちゃくちゃ込めて書くことが多いです。

人にとってはなんてことない出来事にも、結構意味を考えたりする人間でもあるので、「これってつまりこうも言えるよね」「これって要するにこういうことだよね」みたいな自分なりの価値観やら意味づけを見出すことも多いです。そして、その私なりの味付けを「おもしろかった」と言っていただけている、それがある意味、私の文章の“売り”なんだとも感じています。

友の「役に立たない文章が書きたいんだよね」発言に衝撃を受ける


が、ですよ。
「誰の役にも立たない 意味がないことを書きたい」今の私はこんな衝動に突き動かされているのです。これは年明け、友人たちとゆるラン&ウォーキングをしていたときに一緒に歩いていた友人ぬまじーの言葉にインスパイアされました。

ついつい自分の意見や色をつけた“役に立つことを目的とした”文章を書きがちな私。いいこと言いたい、相手になにか気づきを…それもいいの、好きなの。でもね。それをいったんゼロにして、ただただ、まっさらな、押しつけがましくない、意味ない文章を書いてみたいな。そんな思いがぶわっと湧いてきたのです。

「意味がない、役に立たない。」
それってつまり、相手の受け取り方次第で、ただのエンタメにもなるし、ただの暇つぶしにもなるし、なんの意味ももたないものにもなり得る。はたまた私の想定外のその人なりの意味を見出してもらえることだってある。むしろ私の考えられる範疇を超えたハイパーなアイデアに結びつくことだってあるだろう。ああ、それってなんて可能性にあふれているんだろう。

書きたい!でも、自分でお題から考えるとついつい、うまいこと言えそうなテーマを選んじゃいそう。そう思って実は自分のFacebookで友人に「役に立たない話が書きたいです!なんかテーマください!」と募ってみたのです。今日からおそらく週1更新くらいで、「友人からお題をもらって役に立たない話を書くシリーズ」を始めたいと思います。

基本は、お題をくれた友人の紹介、お題からインスパイアされた役に立たない話、という構成で書き連ねてみたいと思っています。「意味がない、役に立たない話」に無駄に意味を付け加えないように(笑)、基本的には一筆書きで、ほぼ書き直しなしで書き上げようと思ってます。意味のなさを、役に立たなさを、楽しんでいただけたら嬉しいです。

今回のお題提供者:ぬまじー

友人にお題をもらって役に立たない話を書くシリーズ、記念すべき第一回は、私にこのアイデアを授けてくれた、友人のぬまじーです。このシリーズでは、お題をもらった友人について、私との関係性をちょっとばかし披露して、書き始めたいと思っています。

いつも私が働いているとあるコワーキングスペースで出会った、大人になってできた利害関係ゼロの完全なるお友達。ここで出会った友人とはゆるくてここちよい友人関係をみんなと築けているので、実は年末年始で総勢12名で一緒に海外旅行まで行っちゃう間柄(笑)。

このぬまじー、私の今までの友人にはいないタイプで結構新鮮な驚きをくれる存在です。「文章書くのが好き」とか共通点もあるけれど、私が超おおざっぱ、「なんとかなる」でなんでもやっちゃうタイプにたいして、慎重でナイーブで、人間関係、物事への向き合い方、万事すべてにおいて、めちゃくちゃいろんなことを考えまくっているタイプ。「へええ!!!そんなことまで考えているの!?」とリアルに驚いてしまったことも数知れず。

類友になりがちな人間関係、特に前職時代の知り合いなんて、ワイルドに人の目を気にせずわが道を行くタイプばかりだったので、私、みんながそんな人だと勘違いしかけておりました。世の中には多様な考え方をする人がいること、私にとっての“普通”が誰にとっても“普通”ではないこと。今さらながらあらためて気づかされることも多いのです。

私、結局最後は優しい人になりたいのです

ちょっと広く考えると、私の言動が、誰かを委縮させたりすることもあるのかもなぁと、少し自分を省みたりする機会にもなりました。ぬまじーだけでなく、今までの類友でないつながりがこのコワーキングに通ったことで広がり、あらためて“多様性”を体感する機会になったことは、きっと私の今後の人としての優しさや幅につながるのではと期待してます。私、最終的にはとにかく優しい人になりたいのです。

ちなみに、今でこそ細かいことを気にせず、人の目も気にせず、「やりたいことは全部やって楽しく生きたい」と超わが道を突き進む私ですが、実は子どもの頃~学生くらいまでは、超内弁慶な人でした。人見知り、気にしい、自分に自信がなくてなかなか生きづらい人生を送っていました。

だからそんな頃の自分を思い出せば、実は私の根っこのところには近いものがあるような気もします。なんか、人の性格って後天的な影響の方が大きい、って話も聞きますが、私もまさにそれ。基本性格から飛躍的に今の性格になった理由は、その後におかれた特異な状況ゆえなんだろうな、などと考えたりします。

いろんな性格の、自分とまったく異なる考えをもった人と身近に付き合うというのは、要は自分の世界が広がるということ。前職を辞めて独立起業の道を選んだ理由のひとつがまさに「世界を広げたい」ということでした。そう思うと、なりたい自分に近づき、送りたい人生を送っているということかなと、あらためて思うのです。

ということで、要はそんなぬまじーから新たな考え方のエッセンスをもらって、この企画がスタートしたのです。長くなりましたが、何を言いたいかというと、「ありがと!!!」ってことです。さてさて、前振りながすぎですが、ここから本題です(笑)。終わり方をかっこよくするのもやめました。いいっぱなしです。いい話とか期待しないで読んでください。

本編「めっちゃ泣いたこと」

さて、そんなに泣いたことあったかしら?

なんか、あらためて振り返ると、明らかに「めっちゃ泣いたこと」って人生で実はそんなにない気がする。あ、ちなみに前職時代は一人でむせび泣いたことも数知れずあったような気がするけど、あまりに激務過ぎて忘却の彼方。細かい理由があまり思い出せない(笑)。そして思い出せるほどパンチのある出来事は、こういう場で人には話せないなという結論に達しました。

そしてそして、一番分かりやすく思い出したのが、あれです。定番かもですが「失恋」きっかけのやつです。私、別れたらスパッと次へ、みたいなタイプではないので引きずります。振っても振られても「別れ」自体が悲しくて、しばらくは一人で思い出してはわんわん泣いています。

ちなみに私、コイバナが超苦手。人の話を聞く分にはいいんだけど、たいてい「あなたは?」になるので、誰かが話し始める不穏な空気は敏感に察知してひっそり逃げます。自分の話をするのは絶対にいやです(笑)。

若かりし頃の淡きゆるい恋からの失恋の話

そんな私が失恋の話をするのは実は激レア(笑)。超絶昔のあわい恋の話を号泣ネタとして提供してみます。あれは私がまだ難関資格取得のための受験生だった20代半ば。お相手は超大手企業で派遣をしていたとき、同じフロアにいた大卒1年目の新人くんでした。もう勉強しかできないくらい多忙な生活してて、恋愛は正直いいやって思っていたのですが、好きだと言われ、受験期の心の不安定さゆえ?人恋しさゆえ?なんとなく流されて付き合ってしまった感じでした。

好きになれるか分からないなーと思いながら付き合っていたのだけど(おい)、私が勉強ばかりで一向に時間をつくらなかったからなのか、それとも私が彼の思い描いていた感じじゃなかったのか、あっという間に微妙な空気になり、3か月後のバレンタインに横浜のきれいな夜景のなか振られる結果に。悲しい。かわいそう。

振られたとたん、好きだったような気がしてきて、すごく悲しくなってしまう不思議。思い出しては「なぜ…」「どうして…」「なにがいけなかったんだろう…」と泣いてました。当時ミスチルの大ファンだった私。家で「終わりなき旅」のLIVE映像をみたらもうだめ。なんだか自分を重ねてしまい、しゃくりを上げながら号泣しました。ミスチルをみながら号泣したのは強烈な記憶として残っています。

好きと執着の違いを知り大人の階段をのぼる

あんなに泣いたこと、後にも先にもないかもしれない。不合格が続いている受験期って「自分は人から求められていないのではないか」「社会に必要とされていないのではないか」みたいな自分の存在意義を信じられない気持ちになることが多いです。「おまえはもう必要ない」と言われたような気がして、必要以上に傷ついたのかもしれない。と、今ならばわかる。

いやでもね、今から振り返ると、やっぱりたぶん好きじゃなかったんですよね(おい、2回目)。ここから学んだのは、“好き”なのか“執着”なのかを取り違えちゃいけないってことでした。振られたとたん悲しくなったのは、好きではなくて執着。それに気づいたら復活できました。いっぱい泣いたのもたぶんよかった!無駄じゃない!ミスチルありがとう!

「終わりなき旅」は結構人生に向けた大きな歌だけど、失恋したときの心情にも実はぴったりなのですよ。ある意味ミスチルと私の甘酸っぱい思い出でもある。

いや、でもね。なにがイヤって、振られた直後に執着心から送ってしまったながーいメール。これだけは本当に黒歴史です。



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