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東京 江戸 吉原 落語

 落語の起源は戦国時代に京都誓願寺の安楽庵策伝という、浄土宗の僧侶が武家屋敷内での、御伽衆として大名たちの話し相手になり、竹取物語などの話に加えて、滑稽な話を得意としていた事で、それらの話には最後に「落ち」が存在し、相称して「落とし噺」と言われていた事から始まる。
その後「落とし噺」を落語と指していた。
元禄期に、上方京都の祖露の五郎兵衛が北野天満宮などで、「辻噺」で評判となった。辻噺とは当時の大道で落語を話すことから、そのように呼ばれ、このような人々を「噺家」と呼ぶようになり、これが所謂落語家の始まりとされている。
五郎兵衛は机のようなござの上の台(見台)に座り、膝を隠して小拍子で滑稽な噺をすることが特徴であった。
一方で、大阪では落語の祖である米沢彦八が難波の生玉神社で噺家として、江戸の町では大阪出身の鹿野武左衛門が当時流行していた風呂屋や芝居小屋に呼ばれ、あるいは宴席などに招かれて演じる「座敷仕方噺」を始めた。
江戸では上方とは異なり、見台は無く、扇子と手拭を持つスタイルが特徴であった。

その後、1780年代に江戸第二次落語ブームが到来した。
江戸で戯作者・狂言師として活躍していた烏亭焉馬が中心になって「噺の会」を盛んに催していたことから、職業落語家が登場した。
1788年頃大都市となった江戸では浄瑠璃や小唄・軍書読み・説教などが流行し、聴衆を集めて席料を取る様になった。このような場を「寄場」と呼び、現代の「寄席」の原型となったとされている。
寛永10年(1798)櫛職人だった山笑亭花楽(山笑亭可楽)が下谷柳稲荷神社で寄席を初めて開いたことが寄せの始まりとされている。

いっぽう、上方では初代桂文治が誕生する。大阪の座間神社の境内で常設の寄席を設けたとされ、上方落語の開祖とされている。

 江戸末期には職人の賃金が上がり彼らも寄席に通うことになり、当時の三大娯楽であった歌舞伎、遊郭、相撲は隆盛の途にあった。また、寄席は夜間興行OKだったことから、庶民に人気を博した理由でもあった。
落語の主題は、歌舞伎、遊郭、吉原、長屋、武家、旅、お店、ご隠居など幕府のことから庶民の生活に至るまで様々であり、庶民らが知らない土地の話や生活などを滑稽に聴くことができたのである。

その後、近代に近づくにつれて、風俗禁止令などが発せられ200軒以上あった寄席は15軒に激減し、明治初期には噺家達を統制する動きが現れた。後に江戸では三遊亭圓朝、桂文治、麗々亭柳橋の三人、上方では桂派と三友派から桂文團治、桂文枝、笑福亭松鶴などが現れ、現代に至るとされている。

 吉原は、1617年に庄司甚右衛門が幕府から許可を得て、市中各所に散在していた遊女屋を日本橋の葦屋町に集めたことから始まる。
この地には、葦が生い茂っており「葦原」から「吉原」へ転じたとされている。
640年に夜間の営業を禁止された吉原は益々窮地に陥った。
その後、吉原を千束に移設。それらを「新吉原」と呼び、1657年に夜間営業が許可された。
当時の吉原の敷地は20767坪。紀伊国屋文左衛門らの豪遊が話題となったり、周囲の札差たちが豪遊した。1741年には敷地内に桜が植えられ、日本一のテーマパーク観光名所となった。
遊郭で働く遊女はもともとは農民らが借金の肩代わりなどの理由で人身売買された若い娘たちであるが、下働きから一人前になると花魁と呼ばれ、現代の女優モデルファッションリーダーの様な存在であり、教養も高かった。
また、初期の新吉原には大名や旗本などの武士階級も通い、登楼時には武士の命である刀を揚屋に預けて丸腰になっていた。身分に関わらず、花魁の気分で客を振ることもあり、それらも話題となった。
その後揚屋が衰退し、大衆的な引手茶屋という新業態が登場した。
明治維新、関東大震災、第二次世界大戦などを経て昭和33年に売春防止法により、吉原は廃業した。
その後に披露された「錦の袈裟」は江戸に住む男性達が意気込んで吉原に遊びに行く話である。
細やかな吉原の情景の表現や当時の江戸を垣間見ることができることも、落語を聴く楽しみの一つではないかと思うのである。

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