泣く、についての話

作品を通して見えるもの、日常から見えるもの、最近の気づきまで。


作品と私


泣く、泣いた

私がこの言葉を感想に使う時、称賛や好意を含んでいることがある。

例えば素敵な作品に出会った時、
カッコ良すぎて泣くことがある。
情感が凄まじくて、心が反応しすぎて泣くことがある。
「なんて(素晴らしい)ものを見せてるんだ自分よ」と思うこともある。

不快感情(悲しい、辛い、劣等感や自己嫌悪など)が起こる場合も、初めはそれに苦しんで泣いても、
その感情を分析して、自分の気持ちがわかったり、一旦だとしても自分の中で解決すると、泣いてしまう。そして更にすっきりする。

自分の感情を感じたり、気持ちや感覚に合う言葉を見つけ出す作業も楽しいもので、
一人で泣ける時間や場所の余裕があるのもありがたく思える。

泣くということは感情が動いているということで、
こんなに心を動かしてくれてありがとう
とっても素敵な作品、曲、人、等々
こんなに泣けるものに出会えて私は幸せだ
泣くの自体が気持ちいい
好き
そんな想いを含んでいる。


考えると私


私にとっては「泣く」という行為と近いところに「考える」がある。
私は考えることが好き。

A今の自分の心理的立ち位置

Cこうなりたい心理的立ち位置、状態
の間を無理なく繋ぐ
B考え方、捉え方
を見つけたことが始まりだったと思っている。
(Cが例えば「警察官になる」のような、他者からの許可や採用が不要なので出来た話ではある。)

自分が納得出来るBを思い付いた時、私はとても泣いた。
あの時のすっきり感というか、望むCを出来る(なれる)ことへの嬉しさか。
それで私の人生に「考える」が入ってきた。

その後も「考える」は私を助けた。
ある時は、この現実の何がイヤなのか、どうイヤなのかを分析して、
「この現実だと、"私は○○だ"と自分で認定出来なかったからイヤだったのか。望んでた現実を持ってなくても○○って認定して良い」
と思えたら、現実が変わっていなくても気持ちが晴れた、穏やかに戻れた。

そんなことを繰り返して「考える」という行為は定着した。

「考える」と言っているが、
「具体的にどんな行動を取るか」頭を働かせるというより、
A私は何が嫌なんだろう、どう嫌なんだろう、何が不安なんだろう、なぜ、
Cどうしたいんだろう、どうなりたいんだろう、
Bそこへ辿り着くにはどうすれば、納得できる道筋は
といった感じなので、自分の心や感覚を「分析する、見つける、探す、探る」等の表現の方が近いかもしれない。


さらに


涙が流れるのが、撫でられてる気さえしてくる。

最近そう感じた。


終わりに

考え始めてから5ヶ月程も経ってしまったこの文章。
気分や推敲のしやすさによって順番が前後したり、なかなか出せなかったり。
今日はそれこそ「泣いた」ので、自分的にやっと書けました。
感情が溢れる程になると、やり遂げられる、出さずにいられないのかもしれない。

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