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「いる」
D.W.ウィニコットは言う。
乳児が内的世界と外的世界の移行が上手くいかなかった場合は、「本当の自己」は人格の奥深くにしまいこまれてしまう。その結果、外的世界に適応するための防衛的な「偽りの自己」が表面に出ることになる。
移行期の赤ちゃんは母親に完全に依存しているときに「本当の自己」でいられるという。
逆に、例えば母親が赤ちゃんのお世話に失敗するなどして、身を委ねられないようなことがあると、彼らは心を始めとする生存が危うくなる。ただそこに「いる」ということが難しくなり、母親の機嫌を取ったりして「偽りの自己」が生じるというのだ。
そこに「いる」には何も理由はいらないのに、何かを「する」必要があると思ってしまうことは私も多々ある。
今この状況ですべきことは何か。
今このメンバーの中で私に求められていることは何か。
この肩書きを持ってしてここに立っているならば、然るべき立ち振る舞いがあるのではないか。
なんぼでも思い出される。
そう在れる「本当の自分(自己)」が輝かしくて称賛されそうでなんだか良い気がするのだけど、本当は「偽りの自己」であるだなんて、あゝ無常。
積み重なってようやく気付くんだ。
自分の本来性はどちらだったのだろう。
あの時「本当の自己」でいられたらどう違っていたのだろうって。
でも「本当の自己」でいられるのって他の誰に許されるでもなく、自分でこの場に「いる」、身を預ける、この場に委ねても誰にも傷つけられない、という安心感があってこそ成り立つものだとも。
無意識にそれができる人や場所がそれぞれに存在するのだと思う。
それをあなたにとって一つでも守っていられれば、壊れずに漂っていられるのかなと思うんだ。
みんな誰かに頼り、委ね、言葉を変えたら依存して生きている。それを拒みたい人もいるだろう。それも否定しない、できない。
ただ、頼ることで頼られているし、助けることで助けられているし、そんな関係性が私が私で在れる理由だと気付いてから、きちんと認めることにした。という人もいるんです、ここに。
いろいろ綴ったけど、本当だか偽りだか知らんけど、私はあなたのこと好きだよって伝えたいですよ。あなたに。
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