「都会のラクダ 渋谷龍太(SUPER BEAVER)著」 を読んで
夏フェスで浮かれモードの紫色のショルダーバックから、マイロのドリンクチケットが出てきた。
「あれっ、これって。」
と、先程 『夏フェスや 強者どもが 夢の跡』なんてちょっとうまいこと思いついてしまった、ボロボロにネイルが剥がれた爪を従えた指で取り出す。
たくさんの人の波の中で、この手だけでも見つけてほしくて真っ赤に塗った爪だ。
そうだ、あの時のメモ、読み返してみよう。マイロに行った時の。
そんなふうにして再会したこの読書感想文を伝えたくなってしまったのだ。
たまらなく重くて恥ずかしいけれど、たまらなく大好きな、音楽と私の話。
好きなことは好きって堂々と言わなくちゃなんだよね。
その時のフェイスブックにはこんなふうに書いてあったので抜粋しておく。
『最近良く出てくる、私の好きなバンド、SUPER BEAVERのぶーやんが自分たちのバンドの歩みを小説にして本を出したのですが、ほくほくに暖めた後読んで、感想文も書いちゃったのでアップしておきます。
心無い大人の世界で挫折して、一度メジャー落ちしたバンドが、愛と勇気でインディーズで頑張る話です。(一言で書くとありきたりな文になっちゃうのがなんだかなぁ。)
私はいつか朝ドラになれば良いと密かに思っています。』
とのことです。
ではここから本編
ご一読、よろしくお願いします。
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都会のラクダ
とっても気にいって買った、洋服を中々下ろせないでいる。その感覚に似ている。
楽しみにしていた本をずっととっておいてしまう。
そういうところが、私にはある。
冬休みに読もう。
そう決めて、ずっと眺めていた大切な大切な一冊をやっと開いてみた。
そこには大切が溢れていることは知っているし、零してしまいたくないから、初読は一気に読める時と思ったのも、一つの理由。
でもやっぱり、眺めてとっておきたかったのだと思う。
いざ読み始めた年明け、1月4日。誕生日の1日前。
そんな私は2021年の年末から年明けまで、酔っ払ってすごく楽しそうな父と賑やかな家族、そしてレ・ミゼラブルの世界にいたのだ。
349ページ。
よく書いたなぁと思った。
でも、「私が読むなら、3時間ちょいってとこかな、多分するする読めるだろうし。(ここでのするするは好きだから、スムーズに読み進められるだろうって良い意味)」
と思っていたら5時間くらい。
読み終わったのは、部屋に差し込む日差しが、冬特有の少し早い夕刻の兆しを知らせる頃だった。
差し込む光のあたたかなオレンジと少しの影に、「あれ、結構時間経ってる。」と思ったのは、昨日夢中で消しゴムはんこ彫ってたら、3時間経ってたのと同じくらいの体感。
意外と時間かかったな。と思ったけれど、振り返ってみれば、それもそのはず。
所々立ち止まって、振り返って自分の感情重ねてみたり、その時の彼らに心を寄せて、想像したりしていたのだから、時間はかかって当然。文字を目で追う以外の時間が他の本に比べて格段に多かった筈だ。
筈だというのは、読んでいる最中、そこに時間を費やしていた自覚がないためで、読んでいる時の自分を第三者的に考察したため、そんな表現に至る。
内容について触れたいのはやまやまだけれど、今はまだ言葉にして外に出してしまわずに心の中にしまっておきたい気もする。
自分なりの感受性で受け止めたものをそのままとっておきたいのだ。
開けずに眺めてとっておいたこの一冊のように。
あとがきに、この本を書くとき、色々な感情に舞い戻って揺れ動いて、その中でも、泣くことが1番多かった旨の記述があるが、読んでいる者の心がこんなに動くのはそのせいかとも思った。
これ書くのというか書くために思い出すの、辛かったんじゃないかなと思う部分もあった。
そして、私が涙した、数々の場面が作者の涙した場面と同じだといいなと思った。私には作者に浮かぶ数々の顔が同じようには浮かばないのだけれど、数々の顔を思い浮かべて涙する作者を想像することはできるのだから。
人が人を思う、そして人が人を思っていることに気がつく瞬間は誰にとっても共通して尊い瞬間だと思う。
そしてこの瞬間を瞬間ではなく日常としているところが、作者のそしてこのバンドの凄いところで、尊敬するところであると思う。
さらに、逃げても、折れずに、そして真っ当に戦ってきた姿は作者の言葉を借りれば「格好つかない」けど、何より美しい。
それに加えて、あたたかな人の心意気をあたたかなまま受け取れる4人の愛は最強だと思う。
それが乗っかった音楽を抱きしめている私は手放しに無敵とまでは言えないが、逃げても、折れずに、真っ当に戦っていきたいと思っているし、大切を大切に出来るように、あたたかな気持ちに気付けるようにいたいと思っている。
2021年11月22日
コロナ禍に現れた不意な谷間に、恐る恐る、SUPER BEAVER ライブハウス行脚のチケットを取った。
思えば、ウイルスそのものではなくて社会的立場に囚われた毎日だったように思う。
それでも、私が10数年心を懸けて戦ってきたフィールドはそこなのだから仕方がない。
谷間にとはいえ、誰にも言わず、こっそりと、何も悪ことしてないのにこんなに迷って、それでも手に取った、人数制限され、整理番号ほぼほぼ最後と予想されるチケット。それは、現代っぽくスマホの中にあるが、重たい重たいチケットだ。
不意に振替休日となった(判明した)平日休みも背中を押してくれた。
用心には用心を重ねて、富山まで高速を走らせること5時間強。本当に久しぶりのライブハウス。上着をコインロッカーならぬ、車に置いて、薄着で寒い中歩くことさえ久しぶりで感慨深かった。
夢みたいだった。
本編最後、去り際に、いつもより大きく見えたフロントマンが髪の毛をくしゃくしゃしながら言った。
「今日受け取った気持ちを忘れるな。もらった気持ち俺は忘れないよ。」
忘れられないよ。忘れないで。お願い。
都会のラクダを読んでいて、気が付いたのは、ライブ前後の記述や、ライブに向けた記述は往々にして、饒筆なのに対して、ライブ最中の記述は至極シンプルで少ない。
入魂してるんだろうなと思う。
そして、言葉になんてならない。んだよねぇ。
というのは、ライブに行った私の気持ち。
そして、ライブのことはライブで共有する、現場じゃなきゃってところだろうか。
手を伸ばして本当によかったと思う。大袈裟じゃなく生き返ったみたいだった。もう前を向いていられないくらい涙顔でぐずぐずで、ともすれば嗚咽のようなものが漏れ出さないように抑えるほどだったけれど、ゴボゴボと静かに沈んでいってしまいそうな暗い水底から引っ張り出してもらったようだった。
自宅まで高速で5時間強。ノンストップ。いつもだったら、途中で眠くなっちゃって、サービスエリアで休憩する筈なのに。
心はタポタポ満タンで、アドレナリンでっぱなし。
闇に吸い込まれそうで苦手な夜の高速道路が少しも怖くなかった。
バンドの軌跡を知って、想いに少しだけ触れて、都会のラクダを読み終わるとき、思い浮かんだのは、やなぎのくっしゃっくしゃの笑顔と、リーダーの武士っぽいドヤ顔と、ひろぽんの人の良さそうな垂れ眉仏顔とぶーやんのハニカミ顔。
BGMは何にしようか迷ってしまう。
大変な事もたくさんあっただろうに、それでもキラキラと心を輝かせてきた4人がいて、都会のラクダの背中は夢でもう弾けてた。
砂漠の中をどこまでも、この先もよろしくね。あたたかな人達とともに作ったオアシスで、湧出させたお水を「わたし」に大盤振る舞いしてください。
「わたし」はそこに涙のお水を返します。
もらったキラキラの欠片が心で輝いて痛いくらいだ。
余談ですが、
都会のラクダの意味、
「♪この東京砂漠〜」的なやつだと思ってたんだけど、違ったんだ。
そんな私は「青が散る」読んでいます。
年末年始、読書地獄、至極。
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