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【読書】『ハンチバック』~2つの読書会に参加して

こんばんは。読書が趣味のmiiです。

10月頃に今年の芥川賞作『ハンチバック』を読みました。
そして、11月に作者の市川沙央さんも参加されたコトゴトブックスの読書会に参加しました。
12月には私がファシリをしているゆる読書会で、『ハンチバック』の課題本回を開きました。

初めにこの本を読んでから2か月、
折に触れて思い出して考えたり、読み返したりしました。

今日は2つの読書会を通して私が考えたことをつらつらと書いていきたいと思います。あらすじなどは書かず、ネタバレありです。
※他の方の意見と自分の意見を分けて書きたかったのですが、考えているうちにどっちの意見か分からなくなってしまいました。同じ読書会に参加してた方「私の意見なのにー!」と思われてもご容赦ください。すみません。


作者のキャラクター、センス

12月の読書会をするにあたって、読書会の告知文に「圧倒的な迫力とユーモア」と書きました。
Amazonの本紹介ページからとったのですが、これをユーモアといっていいのだろうか…でも、ほかに何て言えばいいのだろう。この本を読みながらニヤッと笑ったことは事実だしなぁ。
ユーモアというか、センスのいい皮肉ですね。
笑っていいのか分からない皮肉。でも、私は笑ってしまいました。

以下、私が笑ってしまった『ハンチバック』の中の私の好きな文

高齢処女重度障害者の書いた意味のないひらがなが画面の向こうの読者の「蜜壺」をひくつかせて小銭が回るエコシステム

息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。

仕事が丁寧という評価に異論はない。ただ、文脈的にどうなんだ。私の体を丁寧に洗われてしまうのか?

苛立ちや蔑みというものは、遥か遠く離れたものには向かないものだ。私が紙の本に感じる憎しみもそうだ。運動能力のない私の身体がいくら疎外されていても公園の鉄棒やジャングルジムに憎しみは感じない。

あと、ゆる読書会参加者の方がシェアしてくださったこの紹介文 ↓↓
『ハンチバック』市川沙央 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)
いや、最高過ぎでしょ。これまた笑ってしまいました。
このユーモアに対して、「痛快」という言葉がぴったりくる感じ。
センス光りすぎで、市川さんのキャラクターが好き。
この人の書いた本また読みたい。

怒りについて

私ははじめてこの作品を読んだとき、「この人(作者)めちゃくちゃ怒ってるな~」と思いました。
だからこそ文の一つ一つに私が刺される、または殴られるような感じがして、読みながら、肩をすくめて「すんません、すんません」となっていました。

その話をどちらの読書会でもしたところ、ある方は、
「怒りすぎて呆れている感じもした。でも、そんな怒りみたいなものの中にぽつりと書かれた「生きちゃった」っていう言葉が切な過ぎて泣きそうになった」
と仰っていました。

また、ある方は、
「社会に対してある怒りって、そのまま怒りとして出しても反発が返ってくるだけだから、そこにこの小説みたいにユーモアを加えて届けることで、たくさんの人に届きやすくなる。普通に語っては伝わらないものを伝える。この小説みたいな創作物の力はそこにある。」
と仰っていました。

これらの意見を読書会で聞いて、
ただただ怒りを怒りとして見るのではなくて、怒りと共にある感情を見たり、怒りの中にある主張をいかに表現するのかだったりと、
新たな視点をもらうことが出来ました。

摩擦について

この小説は重度障害をもち背骨が曲がった状態の女性が、介護者の男性にお金と引き換えに性的行為を持ちかける内容ですが、
そのキーワードに何度も出てくるのが「摩擦」という言葉でした。

女性と障害女性がパラレルであるように、障害女性と涅槃の釈華もまたパラレルである気がした。重なるようで重なり得ない。両親とお金に庇護されてきた私は不自由な身体を酷使してまで社会に出る必要がなかったから。私の心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない。(中略)
金で摩擦から遠ざかった女から、摩擦で金を稼ぐ女になりたい。

私は人と接するのがあまり得意でないので人との心の摩擦を避けがちですが、摩擦がないからこそ摩擦を求めるというところが切なく感じました。

わたしは元小学校の教員で、発達障害をもつ子どもを担任したり、特別支援学級の障害を持った子どもと交流学級で接したりしてきました。
毎日数ある子供たちの中のいさかいのなかで、健常児同士のいさかいも多いですが、発達障害児の関係するいさかいも多くあります。
子供の中には、休み時間のたびにトラブルが起きる障害児もいて、その場合、保護者との話し合いの上で休み時間は特別支援学級で過ごすように決めたりすることもありました。

そう言った時、この解決法でいいのか、いつももやもやしていたのですが、
今回ふとこのことを思い出して、これも、健常児同士に比べて「摩擦」を奪うことになってるのかもしれないな、心の摩擦をする権利を奪っているのかもしれない、と思いました。

そんな話をゆる読書会でしたところ、そういうのを「失敗する権利」というふうに言うと教えてもらいました。例えば福祉の現場では、安全のために転ぶ前に手を差し出したりするけれども、それは障害者の転んで痛い思いをするという「失敗の権利」を奪うことになる。
転んだら痛い、けどその痛みを経験できない。それを選択する権利がない。
もしその痛みを経験できなければ、その障害者の経験できる世界はまたひとつ小さくなる。
でも、福祉の介護者や学校の教師からすると、安全を守ることもまた業務の一環なんですよねー、という話で、その時はやはりすっきりせず終わることにはなったのですが。

この本は、書いたのは障害をお持ちの市川さんなのですが、様々に配慮もされてて、中立に、全ての人から距離を置いて書かれた作品だなーと思いました。

↑ こちらの動画で言っていていて、なるほどーとおもったのが、この作品は、読んでいる皆がちょっと置いて行かれるように書かれていると。
初めのハプバ記事のところで無理な人は無理だし。
途中、超具体的な重度障害者の記述があったりして、
でも女性障害者と涅槃の釈華はパラレルだとも書いてあるし。
聖書も入れ込んでるし、
かと思えば、BL、エヴァンゲリオンなんかの小ネタも入れて。
読書好きするような結末のふわっとした書き方もあれば、
読書文化のマチズモについても入れ込んできて。
いろんなものから一歩引いたところに置いてる感じがする。

先ほどの福祉の現場の障害者と介護者、教育の現場の発達障害児と教師みたいに、様々な立場の人が読む本で、どれも近くにいないような容赦のなさが、すごく考慮して書かれている作品なんだと思いました。

「病院の釈華」と「ソープの紗花」の二部制について

前半の「病院の釈華」を読んで、
途中、なぜか旧約聖書の部分が入り、
後半の「ソープの紗花」に場面転換し、
あれ?どういうこと?ってなっているうちに話が終わって、
もう終わり??これどういうこと?どっちがどっちを書いたの?
となりました。

11月も12月もどちらの読書会でも、この話題が参加者の方からあがり、
「皆さんはどう読まれました?」と意見を出し合ったのですが、
いろいろな読み方があって面白かったです。

・「病院の釈華」が「ソープの紗花」について書いている。
・「ソープの紗花」が「病院の釈華」について書いている。
あと、どちらがどちら書いたかとか関係なく、
・二人の「シャカ」を出すことで、その人の二面性が出ていて人物像に厚みが出ている。
・途中の旧約聖書→キリスト教の回帰、生まれ変わりをイメージさせる。
・昨今の伏線回収ばやりからは遠い結末。
・二人が関係あるかもしれないし、関係ないかもしれないしという余韻を残して読者に考えさせたい意図。
・ねじれ構造がハンチバック(ねじれ)と関係あるのでは。

わたしは、はじめ読んだときは「病院の釈華」が「ソープの紗花」について書いていると思いました。「病院の釈華」は他者との摩擦を求めていて、結局求めていていた部分までたどり着けずに「正しい距離感」を取られてしまったから、いっそのこと殺される結末にして欲しかったとか、やっぱり受精したかったとかいう欲を、文章の中だけでも昇華させたかったのかなーと。

でも、皆さんの意見を聞いて、どっちがどっちかはともかく、たとえハンチバックであっても、兄が殺人犯のソープ嬢でも、頭の中、文章の中では何者にでもなれて、どんな結末でも望めるということから、ヒトの中に広がる世界の自由と尊さを感じました。
身の上がままならない状況でも、頭の中は広がっている。
でも、思うがままにならない身の上、という切なさもあるのですが。

今の私は恵まれてる人生だとは思うけど、小さいながらもどうにもならない悩み、身の上などはあるわけで、そういった外の世界とは逆に自分の中に広がる世界の自由さに気付いてちょっと癒されました。

あとがき

この他にも、同性入浴介助やコミュニケーション強者、読書文化のマチズモなど、読書会で話題になったキーワードがいろいろありました。
この本は単行本96ページ(kindleだと59ページ!)という短い作品にもかかわらず、それだけ話題にしたい内容がぎゅっと詰め込まれた作品だということが分かります。
折に触れて読み返すであろう、私の大事な作品のひとつとなりました。

(備忘録)私の心に残った文たち

世の中に一言で通用する肩書き、例えばプルダウンから選ぶご職業の欄に設定された選択肢、つまり会社員とか主婦とかになれない私は、 40を過ぎても大学生の 3文字にお金を払ってしがみついていた。

私には相続人がないため、死後は全て国庫行きになる。障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が係累なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?

 せむしの怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。

姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ。

軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。

でも。  最初から何もなかったことにだけはしないでほしい。

そう。その憐れみこそが正しい距離感。

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