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【My Story#3】舞台は大きいほうがおもしろい

バブルがはじける直前の1990年に大学を卒業し、アメリカのコンピューターメーカーIBMの日本法人である日本IBMに、システムエンジニアとして入社しました。

入社数ヶ月前に送られてきた書類の中に、勤務地の希望を書く欄がありました。私は関西生まれの関西育ちなので、自然と大阪勤務を考えていました。ところが、その書類を郵便局に出しに行く車のなかで、突然こんな考えがヒラメキました。

「舞台は大きいほうが面白い。」

自分でも、どこからこの考えがやってきたのかはわかりませんでしたが、妙な納得感がありました。書類を東京勤務希望に書き換えて提出し、数カ月後に東京勤務の辞令が届きました。

自分の意志でコンフォートゾーンから小さく一歩出た、はじめての体験でした。

IBMはアメリカのニューヨーク州に本社を置く、世界最大規模のIT企業です。入社当時、従業員数は世界全体で40万人近く、日本法人だけでも2万人を超えていたと記憶しています。1990年4月卒の同期入社は1900人。上司や先輩からは、「石を投げると90年入社に当たる」と、よくからかわれたものです。

コンピューターやITにはまったく興味がなかったのですが、面接を受けてみて、日本の企業にはない、自由で風通しのよい雰囲気を感じました。なにごとにつけ、縛られるのが苦手な自分の性格に合っていると思い、入社を決めました。日本IBMには、当時の日本としては先進的で、フェアな制度がたくさんありました。

例えば、男女差です。男女雇用機会均等法が施行されて3年経っていましたが、IBMには、そもそも女子社員に一般職、総合職の区別などありませんでした。女子社員だけの制服もなければ、お茶くみやコピー取りなんてもってのほか。また、個人の尊重を基本信条のひとつにしているだけあって、転勤を断ってもおとがめなし。人事部との面接はなく、直属の上司が人事権を持ちます。異動したい部署があれば、異動先のマネージャーに自分で掛け合うこともできます。年1回、部下が上司へのフィードバックを匿名で行う仕組みもありました。

自由でオープンな企業風土で、日々の活動を事細かく監視・管理されたことはありませんでした。フレックスタイムでの出社が認められ、タイムカードすらないので、勤務時間は完全に自己申告でした。日報や週報も存在しませんでした。

そのかわり、主体性、自律性、行動力が求められました。新入社員のときから「あなたはの意見は?」「なぜそう思うの?」「ロジックは?」を、なにごとにつけきかれ、左脳を鍛えられました。


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