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【My Story#13】オーストラリアで自信喪失

大学・大学院進学準備のためのアカデミック英語コースで、若いアジア人留学生たちに囲まれながら、英語の勉強にどっぷり専念しました。日本人の友だちもできました。

人生ではじめて、シェアハウスに住んでみました。私は自分のプライバシーがないと落ち着かないタイプで、見知らぬ人と同じ屋根の下に住むなんて、それまでの私には、とても考えられないことでした。でも、折角の機会なので、これまでの自分だったら絶対にやらないことをやってみようと思いました。

幸いシェアメイトに恵まれて、私は新しい人生の幕開けを満喫しました。海外に住んでみて初めて、自分がいかに日本人的であるかを思い知る体験が、たくさんありました。例えるなら、赤紫の点は、同じような赤の中にいると目立ちませんが、青の中に入ると、赤であることがはっきりわかるのと同じです。 自分らしさとは、自分と異質のものの中に入ることで、相対的に浮き上がってくるのです。

英語コース終了後、大学院の経営学部でヒューマンリソース(人材資源管理)を学ぶことにしました。海外の大学院卒なら、実務は未経験で40歳手前でも、日本で外資系企業の人事や人材開発関係の仕事ができるのではないかと思ったのです。

大学院の勉強は、レクチャーを聞くだけではなく、ネイティブとのグループワーク、ディスカッション、プレゼン、大量の文献を読んでレポートを書く など、日本の大学とは比べ物にならない勉強量でした。前期は、どこまでやれば、どんな成績がもらえるのかも皆目わからず、ストレスから体調不良が復活したりもしました。

つらくなると、私はイメージを活用しました。うまくプレゼンできた自分の姿や、”PASS”が印刷された成績表をイメージしたりしました。また、アファメーションもやりました。グローバル企業で14年もやってきたんだから、自信を持とう!私ならできる!など、自分を励ます言葉を画用紙に大きく書いて、勉強机の前に貼ったりもしました。

そんなとき、友人宅のパーティーで将来の夫と出会い、おつきあいが始まりました。彼はイギリス人で、仕事はフリーランスのフォトグラファーでした。彼を通して、交友関係が一気に変わりました。それまでの若いアジア人留学生から、自分と同じ年代の欧米人の輪に入ったのです。実は、当時の私にとっては、これがかなりのストレスでした。

会社員時代のTOEICは800点台。大学院での成績も良好だったのに、ごく普通の日常会話についていけないのです。自分ではオーストラリアに留学したことで、コンフォートゾーンから大脱出したように思っていましたが、それは、あくまでもキャンパス中の、守られた世界の中のことでしかなかったのです。

フォーマルな英語とリアルな英語の違い、コミュニケーションのとり方の違い、文化の違い、価値観の違い。なにからなにまで、違いだらけの毎日の中です。夫とも何度もぶつかりました。英語で口喧嘩をするわけですから、私に勝ち目があるはずもなく、まったくフェアではありません。でも、その喧嘩を通して、「日本では普通こうだから」と自動的に思って、結論づけている自分に、気づくようにもなりました。

これも、自分とは異質なものに出会うことで、自分をよりよく知るプロセスでした。

大学院が終わったのは38歳のときでした。数カ月後に結婚することになり、日本に行って彼を両親に紹介しました。夫と私の両親はあっという間に仲良くなりました。翌年、パースで息子が産まれました。

子育てについて、オーストラリアと日本ではびっくりするほど違うことが、たくさんあります。オーストラリアではごく普通のことが、日本人の私には受け入れがたいものだったり、逆に、オーストラリア式が素晴らしいと思ったりしました。

日本から育児本を取り寄せ、ネットで調べ、ママ友たちと交流しました。オーストラリアは移民の国なので、育児について、国によっていろいろな考え方があることもわかりました。多様な考え方や価値観のなかから、自分たち家族にとって、息子にとって、ベストのものを選び取ろうとしていました。

そんな育児中心の毎日を通して、私は徐々に自分なりの意見を持ち、それを英語で伝えられるようになっていきました。日本基準でもオーストラリア基準でもない、わたし基準。今で言うところの自分軸を、育児を通して形作っていきました。

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