子どもは親の所有物じゃない

わたしには子どもがいて、子どもが生まれた瞬間、いやお腹にいた時から別の人間として関係を持ってきた。

子どもの事を、第三者の前で話す時に私は【あの人】または【この人】と呼ぶ。

産院にいたころに、授乳を終えて看護婦さんに赤ちゃんを預ける時に「では、この人をよろしくお願いします。」と言ってかなり驚かれた。「せめて、この子って言いましょうよ笑」と。いやいや、赤ちゃんだろうが人間。サイズが小さいだけで、1人の人間に変わりはないと思って接してきた。愛情はあるけど、執着はしない。だって別の人間だし。

子どもが言葉を覚え始めて、意思疎通がはかれるようになった3歳ごろ。質問がある時は、敬語を使うようになった。「そろそろ家に帰るのはどうです?もう5時ですけどお腹空きません?」とか、「そんなに暴れるほど目玉焼きが食べたくないなら、納豆なんてどうです?」など。執事のように、提案していた。知らない人には、どこかの子どもを預かっている人〈母だけど〉だと思われることもあった。子どもは、大人から執事のような言い方をされると、なんとなく丁寧に諭されていると察するようで、貴族みたいに「じゃぁ、そうしようかな」と乗ってくれることが多い。グズグスいやいや期の子どもに手をやいている親御さんには是非試してみてほしい。

この結果、子どもからしても、母だけど違う人生を生きている別の人間である。そういう感覚が備わったようで、中学生になった今、他人に対して寛大な性格になった。思春期で、友達とうまくいかないこと、友達同士のケンカに巻き込まれることが何度かあった。その度に子どもが言ってたのは「なんで自分と相手を同じだと思ってるんだろう。違うのに」という言葉だった。

違ったっていい。ていうか、違って当たり前。多分、子どものベースがそうなったんだと思う。私が子どもとそう接するようになったのは、自分が育てられた背景が関係している。

自分の両親、特に母親からは、周りと同調することや、親の意見が絶対に正しい的なことをしつこく言われてきた。母の意見は、私の考えといつも逆だし「この子は何考えているかわからないし、何をするかわからないから心配!」といつもイライラしていたし、監視されていた。運動音痴の母に対して運動が得意な私。母親ができないことを私ができるのがおもしろくないというか、いつも嫌味を言われていたし、褒められたことなんて記憶の中にはない。なんなら大人になった今もそう。親が子どもを自分と同じ人間であるかのように執着し、子どものすることを信じることができないと、子どもはどうなるか?

嘘をついて隠すようになる。その結果が私。悪いことなんてたいしてしてないけど、周りと違うことをしたり、親と意見が合わない、私の考えが理解できないというだけで叱られて、お前は間違っていると言われてきた。ピアスを開けると大騒ぎで泣かれた。ケンカの末、すぐに泣く母親に、謝れと父親から言われて、反省文を何度も書いた。その結果、文章を書くのが上手くなった。

高校卒業後、1人暮らしをしてからは、自分の人生がようやく始まった気がした。子どもができた時、「この子は私の中にいるけど、違う人間だ」ということを強く意識した。 この人を育てる、手助けをする、話を聞く、でもこの人の人生も考えも体もこの人のもの。私が親として思うのはこれぐらい。

愛情と執着は別だし、子どもは親の所有物ではない。

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