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あなたの想いを諦める前に。

noteで何を書こうかな?と考えていたら、

投稿がだいぶ久しぶりになってしまいました。

前回の記事にも書いた通り、

わたしは以前『場づくり』や『居場所づくり』に携わっていました。

三年前、

双極性障害を治すために《本質的な叡智のバトン》という場に参加して、

今まで参加したり、主催したどの場ともそこが違うということに驚きました。

すごく何も特別感のない空間で(インテリアは確かにおしゃれ)

特別何かの資格をもっている人が集まっているのでもなく
特別な職業の人もほとんどいません。
自己紹介で出てくる言葉も普通で「主婦です」「OLです」「公務員です」
「精神的に病んでいます」「ほとんどの時間引きこもっています」
「仕事をしても続かないし」「家に居場所がなくて」「親と仲が悪く…」
「友達が少なく孤独で…」
よくある相談事で悩んでいる人たち。

違うとするならば、初日の2時間くらい経ってから。

そんな当たり前なことを口にしていた人たちが
自分自身の想いに気がつき始めます。

それも、そらさんは、誰にでもわかる言葉で、事実として体験したことを語ります。
そして、相談者の体験を語られたときに、「それは、こういうことのために起こっている可能性はありませんか?」
と問いかけられます。
そうすると「確かに!」となります。

自分のこういう部分が問題を起こした…とか
以前こんな問題があったからこうなってしまった…とか
相手がこういう人だから、こういうことがいつも起こる…といったようなことが
全く違う原因で起こっていたり、全く違うものと繋がっていたり

誰も全く気がついていないところを、そらさんは指摘します。

そして、場の雰囲気は、そらさんという特別な人に
何かを習っていたり導かれているような感じではありません。

何とも言えないのですが、ただ話してたら、自分の知りたいところに
自分を持っていかれるような感じです。

そんな不思議なのにリアルな場
具体的なのに初めて聞いたような話

そこに興味を持ち、参加し続けていく内に…
(私の目的だった双極性障害は、初めてのバトンで治ってしまいましたから)

「場づくりやコミュニティ、サードプレイスを担っている方の中にも、

ここを必要としている方がいるかも知れない。」

そう感じるようになりました。

なので、

noteでは『関わり』に携わる方へ向けて、

メッセージや自分の気づいたことを更新していきたいと思います。

(日々のこと、双極性障害だった頃のことなどは、アメブロ を読んでいただけると嬉しいです。

https://ameblo.jp/miho-rikka11/entry-12622565087.html

わたしは数年前、

生き方や働き方を問うNPO兼本屋のボランティアをしていました。

色々な人が集まるその場では、人と人とがまるで化学反応を起こすように、

様々な楽しいことやおもしろいことが起きました。

今まで知り得なかった価値観を知ったり、個性的な人に会うことは、

とても興味深いものでした。

当時のわたしの悩みは、

「病んでいて普通に働けない自分が、どう自分らしく働き生きていくか?」だったわけですが、

NPOの仲間たちに、複数の小さな商いを営み、生計を立てていくという、

『小商い』という働き方を教えてもらいました。

(私の場合は、結局はバトンに出始め、病んでいる自分も体力のない自分も自分ではないと気づき、
今はフルタイムで事務の仕事をしているのですが。)

わたしはその働き方を魅力的だなと感じ、

自身も小規模ですが『遊び』をテーマにワークショップを主催するようになりました。

いつか、場づくりのプロになってファシリテーターとしてやっていけたらなと考えたりもしました。

そんな中、偶然わたしのワークショップに参加してくださった方から声がかかり、

中高生向けサードプレイスのボランティアも始めました。

わたしはこうした活動の中で、

「相手が夢中になれること、ワクワクできることを見つけ、

それを後押しすることこそが、助けになるんだ!」

そう思うようになりました。

「日常と違う体験をしたり、新しい発見があることが、

のちの人生の糧になると良いな。」

そう願うようになりました。

だからこそ、

「人が集まり、その人の良さを引き出すため、場のチカラを高めないと。」とか、

「よりワクワクできる、新しい方法はないだろうか。」とか、

本を読んだり、いろいろな場所を訪れたりして、

「なにか良いアイデア湧かないかな…」と日々考えていました。

わたしは、当時出会った優しい方々に対して、

本当にありがたいと、今でも思っています。

人を思う、とてもあたたかい人たち。

皆がいなければ、本当につらかった。

皆のおかげで、前向きになることができたし、楽になれた。

そしてそれは、わたしだけでなく、

病んでる病んでないに関わらず、

その場に集まった方々や、NPO運営の方たちも

同じように感じている事なのではないかと思います。

そして、それがゴールのように捉えていました。

自分もそういう立場で関わりをしたい。

それが、自分が目指すべきことだし
それが本当の救いなんだ。

そう捉えていました。

でも、
病が改善してみて自分を取り戻してみると

こうした『前向きになる』ことよりも
もっと先に進めることができるということを知ったのです。

『前向きになる』ことをゴールのように感じたり
自分には問題があることを認めてしまって
社会に少しでも対応できるようにしてしまうと
本当の自分とか、本当の人生とかいうことを体験できないことを知ったのです。

社会に適応できる自分、社会で問題を起こさない人生。

その体験を追い求めている感じに、知らず知らずになってしまう。

だから、みんな楽しく笑っていたけど
なんだか、相手の人生に関わっている感じが薄く
みんなモヤモヤとしていたのだと思います。

これも、今、モヤモヤが晴れたからこそ
自分やそこに関わってくれていた方々にもモヤモヤがあった。そう感じられるので
その当時はきっと自分がそんな状態だったとは気がつけないと思います。

わたしは当時見えていなかったことがなんなのか、

今、≪本質的な叡智のバトン≫で参加し深めることで、

段々とわかるようになってきました。

わたしは、

「人の集う素敵な場をつくりたい」と言いながらも…

「この体験がその後の人生の糧になったら」と願いながらも…

『人』というものを知らなかった。

『人生』というものを知らなかった。

人とは同じようなことができるもの。という
人のできるできないをその人として認識していました。

何ができて、何を掴んで、それが人生だと思っていました。

「目の前の人に関わりたい(助けたい)」と願いながらも、

『本当の意味で関わること(助けること)』がなんなのかを、全く知らなかった。

わたしはバトンで、

様々な『本当のその人(本質)』や『その人の人生(本質的な人生)』を知りました。

それは、具体的に事実だけど、今までの人や人生とは全く違うものでした。

「同じ人なんていない」それを知ったつもりでいたけれど、

経歴や趣味嗜好が似ていれば…

同じ場面で同じ感情を抱けば…

見た目が似ていれば…

『同じ人』という認識でいました。

更には、人と関わるためには、

共通項が必要だと思っていました。

社会に適応したり、コミュニケーションをとるためには重要ですが
それは、否定されないためのものであり

そもそも、否定しない人たちには
そんな練習は全く必要がないことも知りました。

だけれど、

本当に人間というのは、

共通項なんてひとつもない、

みな唯一無二の存在なんだ、と具体的に知り、

そして、

それぞれの本質のために人生があり、

オリジナルな人生というものが流れているということを知ることができました。

これは、バトンの場が、

『本質』や『本質的な人生』を知りたいと想う方々が集まる場だから、

否定なく、人と人を比べられる場だからこそできること。

わたしはそれを知れたおかげで、

様々な価値や社会での不安に影響されることがなくなりました。

そして、

『本当の意味で助けるとはなにか?』

という生きていく上で核になるような問いを持てるようになりました。

なので、

薬漬けの日々から人並みに社会生活ができるようになっただけではなく、

わたしは今、生きる実感を持って日々生活しています。

その実感まで、私の場合は一年もかかりませんでした。

これは、

場づくりやサードプレイスではなく、バトンの場を勧めているということではありません。

様々な関わりの場はそのままで

その場で、人として関わるために
本当の意味での『人』や『人生』というものを、先に知って欲しいのです。

「人を後押ししたい」そう思うなら、

『本当の意味で助けるとは何か?』ということを先に知って欲しいのです。

具体的に、事実として。

あなたがあなたの想いを諦める前に。

バトンについては、そら 山本博さんのブログをご覧ください。

https://ameblo.jp/sora-ni/

またSetsuko Naritaさんのブログも読んでみて欲しいです。

『何人も何人も何人も…』

https://ameblo.jp/n-setsuko/entry-12623934767.html

方法や価値観という制限の中ではなく、

あなたが想いを表現し続ける人生でありますように。

みほ