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ひとの作ったご飯が食べたい

外食が減った。相当減った。

外食が減った、即ちそれは自分でご飯を作って食べているということである。自炊。

今までだって作ってた。少なくとも平日は作ってた。

作っていたのは必要に駆られて。家計と健康を考えれば毎食外で食べるわけにはいかないのだ。庶民。

必要がないなら作りたくない。きっと多分、たぶんきっと、わたし料理に向いてないんだと思うの。

外出自粛のこの機会にと、SNSでこぞって料理に精を出す投稿を見るたびに、スーパーでがらんと空いた小麦粉類の棚を見るたびに思う。自分にとっての普通は他人にとっての不可思議、他人の普通はまったくもって不可解なものであると。

毎日毎日ご飯つくってるひとたち、それだけでえらい。心底えらい。


外食と言ってもね、贅沢したいわけでもなく、美食を追求するほどの舌を持つわけでもないのです。ただひたすらに、誰かが自分のためにつくってくれたご飯が食べたいだけなのです。

母の味ってさ、学校から帰ってきてソファでゴロゴロしながらテレビ見てるときに台所からトントン野菜を切る音と晩ご飯の香りが漂ってくるあの空間含めてなんじゃないかと思ったステイホーム週間。


ここまで書いた気持ちをごくごく簡単にして夫に伝えたら、週末はご飯を作ってくれることになった。

なにごとも言ってみるもんだ。夫はやさしいのだ。

しかし料理は苦手だった。
以前、カレーを作ってくれたときにはなぜか5時間もかかっていたし(スパイスから調合したわけではない)、余った玉ねぎでつくったオニオンサラダは厚切りで水にさらした様子もなくもちろん新玉ねぎでもない。ご飯を食べてあんなに泣いたことはなかった。頑張って5口くらい食べたのち、レンチンした。

しかし今や大オンライン時代。作り方なんてものはちょちょっと調べればすぐに出てくる。むしろ出てきすぎて最近どのサイトを見るのが正解なのか迷子中。

夫がなにを見たのかはわからないけど、彼の手料理コレクション見てくれ。

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ケチャップ文字のセンスが光る”オム・ライス”。


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餃子の皮でつくったラザニア。スーパーにラザニア生地が売っておらず代用品を急遽ググってつくるという臨機応変さを発揮した逸品。


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揚げないフライドチキンに揚げないアジフライ。
ここでも光る検索ワードスキル。そして「フライ」とは?という哲学的思想に耽らずにはいられない味わい深さがある。

すごく美味しかった。ひとが作ってくれるご飯ってこんなに美味しい。自分の作ったもののなにが飽きるって、食べる前からもう味の想像ができるから。食材も味付けももう知ってる。わかってる。

食べたことない料理なわけじゃないけど、その人の味が出るんだろうな。レシピ通り作っても、やっぱり違うと思うんだ。

隠し味は愛ってやつなんだろうか。そうなのか。

しかし、そうなると近所のネパール料理屋さんのビリヤニがめちゃくちゃ美味しいのに意味が出てきてしまうから、ここらへんでやめておこうと思う。


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