うまくやらないといけない神話
私たちは、つい、うまくやることを考えてしまう。
ビジネスはもちろん、どんなことでも。料理も、勉強も、バスに乗ることも、スポーツも、趣味も、会話も、家庭も、なにもかも。
たとえばビジネスなら、最小のコストで最大の利益がえられるやり方と言える。一番効率のよい販売ルート、マーケティングのセオリー、効果的なコピーや広告。いくら地道にやっても、こうしたことが計算に入っていないと、うまくやっていないことになる。うまくやっていない結果として、集客できず利益があがらない。
うまくできなかった料理はまずいし、うまくできなかった勉強は試験の成績が悪い、うまくバスに乗れなければ次の電車にも乗り遅れる。
うまくいけばおいしいし、楽しいし、ハッピーだから、うまく行く方がいいのかもしれない。
でも上手くいかせることが目的で勉強しているわけではない場合もある。学こと自体が好きで学ぶことと、試験に受かるために勉強することは別物だ。でもいつのまにか目的がすりかわっていることに気が付かない。
報酬を得ることをうまくやることと、ビジネスをすることは、必ずしも同じではない。
おいしい料理で人を喜ばせることと、料理をすることは同じではない。
たとえばビジネスに関連するSNSをいくつかしていて、それぞれ分析して集客につながっていないなら、そのメディアにかける時間を他のことに回しましょう、とか、そのメディアに書く内容をターゲットに合わせて変えましょう、とか。
でも、そのメディアでその内容で書くことが好きなら、上手くいくかいかないかは関係ない。
さらに、じゃあ、メディアはそのままで、ビジネスに適したターゲットに合った記事にしましょう、と言われても、今度はそれに意欲がわかない。言葉が生まれない。けっきょく、うまくいかせようとすることは、ほとんどが私を殺すことになる。
うまくいかないといけない、という思いは、自我のドラマに引きずり込もうとする仕掛けなのだ。
なにかをしたいからする。したいようにする。それはうまくいかせる必要はないのだ。うまくいかないと、まるで自分が敗者のように思うけれど、そもそもうまくいくかどうかのゲームをしているわけではないのだ。
たとえば「好きなことをして幸せな人生を生きる」という生き方を知り自分もそうやって生きようと決めたとする。でも、周りを見て好きなことをしてキラキラして人がまわりに集まって仕事としてうまくいっている人を見ると、自分はうまくできていないな、と凹んでしまう。好きなことをするようになって、家族も優しくなって、朝の光をあびたときに美しいな、すがすがしいな、と感じる幸せ。そんな時間があるのに、「うまくいっている」他人をみてそれをだいなしにする。自我の思惑通りだ。
したいと思うことをする。それをすることで満たされるだけでいい。小さかろうとひとりよがりだろうと関係ない。うまくいかないといけない、の思考は流してしまえばいい。
うまくいったところで、幸せでなければ意味がない。世間や社会の「うまく」は絶対的でも普遍的でもない。うまくやるためにそれをしているわけではないのだから。
うまくいかないといけない神話、二度見したら、消えているかもしれない。
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