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手段を目的にしたっていいじゃないか

目的のために手段がある。

バレーを好きな人たちがバレーをするための1手段として部活のバレー部があるように。

でも、とっても才能のある人でも、卒業するとあっさりバレーやめちゃう人がいる。こういう人ってバレーはもちろん好きだけれど、それ以上に「部活」とかもっというとその学校のバレー部でバレーすることが好きなんだろうなと思う。

だから、バレ-をしているというより○○学校バレー部をしている。

ふり返るとわたしもこっちのタイプだなあと思う。

ダンスがしたくて今の教室に通っている。でも。

もっとうまくなれる教室があるけどそっちに乗り換えるかというとそれはない。むしろ、この教室がなくなったらダンス自体をやめてしまうかもしれない。ということは、私はダンスをしているというよりは、その教室で踊ることをしているということだ。

手段を目的化してしまうと、もうその手段が役目を果たさなくなっても、なんのためにその手段をするかが誰も分からないまま継続されて、負担や無駄が出たりする。

だから手段の目的化は弊害が多く避けるべきといわれる。でも目的と手段が逆になることで幸せな人もいる。部活をするためにバレーをするってこと。

人生は楽しむためにある。そして何事も楽しんでする方が成果があがる。それなら手段を楽しむことを目的にしてしまっていいじゃないか。

ビジネスのためにビジネスコミュニティに入ったとしても、数字のためにコミュニティを利用してやろうというよりは、そのコミュニティ活動そのもので遊ぶのだ。

新撰組は佐幕派で、江戸幕府を存続させるために働いた集団だ。でも彼らの多くは、佐幕派としての信念をもって新撰組にいたのではなく、ただひたすら新撰組を「やって」いたんじゃないかと感じる。

近藤勇が処刑されて、もはや新撰組という存在は消えても、土方歳三に函館までついていった隊士は、新撰組を生きていた気がする。

かれらは、佐幕だろうが勤皇だろうが関係なく、新撰組として生きることをやっていた。

ビジネスのためにブログやSNSを書いていたはずが、書くこと自体ですらなく、そのプラットフォームを使うことが楽しくなってそれが目的になったっていい。

書くことじゃなくてnote をしている、みたいな感じ。

気づけば私はそうやって何で活動するかを選んできたし、そうやって選んだ場での活動は幸せだった。

成績の出ない活動や、数値目標がない活動は、趣味、遊び。やっていても仕方ない。成果の上がる仕組みややり方に乗り換えないと。それがまっとうな考え方だろう。

でも、そんなの捨てる。絵を描くために筆を使うのではない。筆で遊んだ結果が絵でもよいじゃないか。

そういうのもありだなって思えたら、すごく楽になる。

もしあなたもそっちタイプなのだとしたら、美しい絵を描くために筆を使うなと言われると苦しくなっちゃうはず。あなたの目的と手段は、一般の人とは逆なのだから。それを受け入れて、手段で遊べばいいのだ。

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