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目的以上のものを受け取るには

行動すると、必ずしもそれをすると決めた時に目的としていたこととは違うものがもたらされたりする。

なにかを得ようとして人は行動する。

空腹を満たしたいから食べるという行動をする。美しい自分を得たいからおしゃれをする。安全を得るためにリスクのあるものを避ける、など。

でも、その行動の当初の目的よりも想定外のもっと重要な結果が出ることの方が実際には多い。

知識を得ようとして勉強会にいったら、そこで教えてくれたことよりもそこで出会った人との縁がその後の人生に重要な意味をもつことになったり。

何かの行動をとれば付随する出来事はひとつではないのに、わたしたちは得たいものだけにフォーカスしているだけなのかもしれない。

たとえば、顧客開拓のために潜在顧客のいそうなコミュニティに入るという行動をしたとする。そこでは会合でアピールしてたくさんの人に知ってもらう、みたいなことを意図していたとして。

実際にはいってみたら、そこは会合でアピールするよりも、メンバー同士で1対1でミーティングをして関係性を深めることがメインの活動で、すると必然的に集中して話したり聞いたりする人数が増える。

結果、濃いコミュニケーションをたくさんすることで、その人を顧客とするよりはその人に紹介できる人を考えるようになったり、逆に紹介してもらえたり。

広く浅くをねらって起こした行動が、深く濃くを連れてきて、結果広く浅くよりも早く良質なご縁をつれてきてくれたりする。

こういうとき、自分は宇宙の意図の手ごまにすぎないなとつくづく思う。どんな目的をいだこうと、私がその行動をとることに意味がある。私が最初に意図した目的や計画など、ちっぽけで浅はかで壮大な青写真のなかで流れになんの影響もないぐらいだ。

でも三次元の世界では行動しないとコトが起こらない。青写真の中で次に用意されているものにつなげるために、その行動をおこすことがとにかく重要なのだ。

その行動をおこすきっかけとして、わたしたちの頭に目的が浮かんだりする。その目的は感情から生まれる。感情はポジティブなものかもしれないし、ネガティブなものかもしれない。どちらでもいいのだ。行動につながりさえすれば。

だから、ぐちゃぐちゃ考えず、やりたいと思うこと、やったらいいのかなとふと思いついたこと、気づいたらやっちゃうことをただやったらいいのだ。

目的なんてものは、やりたいと感じたときに脳が後付けで作り出しているだけ。だからちっぽけなのだ。

逆にやりたいのに理屈をつけて抑えることも、意味がない。どうせやることになるのだから。

明日、この世を去るとしたらそれを抑えてやらないままでいいのか?

絶対に嫌だ。そう思うならやるしかないのだ。どうせやることになるのなら、遠回りして引き延ばすなんて時間がもったいない。

やる理由も目的も、たいして重要ではない。やりたいならやる。避けていたら、宇宙が用意している幸せを受け取る経路がややこしくなるだけ。

シンプルにスムースに。

そしてやってみて、あれ最初の目的とちがうものが来たのなら、それで大成功なのだ。


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