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この世はゲームの中だと気づくというのは、ゆるむということ

周りを取り巻く世界から、ふいに自分がさーっとひくような感覚になることがある。なんというか自分が生きていると思い込んでいたのは映画の中だった、と気づくような感覚。

目が覚めてしまうと、その楽しい映画の世界から出てしまう。一瞬そんな風に感じて、気づけばまたその世界に埋没していく。

わたしたちはこの世に生まれてアバターとしてゲームをしているようなもの、とよく比喩される。まさにそんな感じ。アバターの意識からゲームをしている人の意識に飛んで、あ、これはゲームだった、と気づくような感じ。

そういうことの頻度が最近どんどん多くなっている。真剣に組織の運営について議論しているときも、それは突然やってくる。そしてみんなゲームの世界なのに真剣に生きているなあ、ということを肌がキャッチしたり。

おいしいものを食べて、ああ、おいしい、としみじみ感じた瞬間、そうか、これを味わうために主体者はこのゲームをしているんだなあ、喜んでいるんだろうな、このおいしいという体験に、なんて考える。

このゲーム感に気づいて、完全に意識は主体者でありながら楽しんでいる人、気づいてはいるけれど、まだ引っ張られて出たり入ったりする人、まったく気づかずゲームの世界に没頭している人、今ってこういう人たちが混在している。

ゲームを生きているということに気づくと、問題が問題に感じられなくなります。アバターとしては感情が動くのですが、最終的にこれはゲームだと思うと一喜一憂する意味がなくなるからです。

そして起こることや環境は、ゲームの設定で自分にはコントロールできないこととさとり、それらを変えることができない自分を責めることもしなくなります。

無価値感や罪悪感をもたなくなるので、生きやすくなります。問題が起きなくなるわけではないけれど、自分を知るために起きているのだから、自分を殺したりだましたり傷つけたりするのではなく、自分が喜ぶ道を自然と選べるようになります。

去る者は去り、来るものは来る。

なにが起きても、心が穏やかであればそれは困難にはなりません。これはゲームの中であると実感できるようになると、すこしずつ問題だと以前思っていたことが「平気」になるのです。だってその問題はゲームを面白くするための仕掛けでしかないから。

人間関係の問題はだいぶ前からほぼ起きなくなりました。健康は今一つあるけれど、それも快方にむかっています。この故障は私が無理に突っ走らないための設定なのかなと受け入れることができたからだと思っています。

そしてお金についても変化が現れています。現実のお金や、お金についての明るい情報がどんどん流れてきているのです。これも自分の責任で稼がなければ、と固くなっていたパイプが、ゲームの設定なのだから信じて任せるということを徹底的にしたことでゆるんだのかなと感じます。

ここはゲームの中である、という気づきは、ただただ自分をゆるめるためだけにすればいいと思います。気づくというのは情報や知識として知ることではありません。実感すること、そして身を任せるところまでいくことです。

そしてそれは気づかなければ、と意気込んでいると逆方向に向かってしまうのです。

もし頑張ってしまうようなら「ムリなく気づけるようにしてください」とオーダーすればいいと思います。


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