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生命が消えるときの風圧

話したこともないけれど、ゆるく同じコミュニティにいて、たぶんむこうは私のことは知らないけれど、わたしはいっときその人のメルマガを購読していたこともあった、そういう人がいた。

まだそういうことを率先して開示するのは勇気がいる時期から、スピリチュアルな道で覚醒した体験をシェアしていた。

オンラインの講座をしている最中に倒れて搬送され、そのまま亡くなったと先ほど知った。大動脈瘤剥離。そばに誰もおらず、講座を受けていた人が異変に気づき救急車をよんだらしい。

なので、その後どうなったのか救急車を呼んだ本人も家族ではないため情報が入らず、ご家族への連絡もできているのか、心配されていた。

さきほど、娘さんがご本人に代わり、亡くなったことを書かれている記事がアップされていた。

話したこともないのに、なんだかショックを受けている。年代が同じぐらいの人の死だからもあるし、離婚して一人で暮らしている状況が似ていることもあるのかもしれない。たぶんご本人は三次元から解放されて今は心地よくいるのだろうけれど。

Facebookでつながっていたけれど、私のタイムラインにはいっさい投稿があがってきていなかった。Facebookのこのおせっかいなアルゴリズムは本当にかんべんしてほしい。誰の記事を読みたいか、誰とほんとうはつながっていたいか、アルゴリズムなんかに決めてたまるものか。

亡くなる前の記事をさかのぼって見させていただいた。趣味を楽しんでいる様子、講座をしている様子。私の共通の知り合いも登場して、楽しそうにしている。生きていることを、与えられているものを、ただあるがままにいつくしんでいたのだろうな、というのがうかがえる。

やはり、肉体の存在が消えるというのは、分子が手を組んでなりたっているこの世では、なにか大きな風圧のような衝撃が起こるんだなと思う。

よく知っている人でも、なくなったことになんとも感じない人もいれば、ほとんど知らない人なのに、ショックを受ける人もいる。

会うべき人には会えると、信じているけれど、ひょっとすると会うことはなくてもつながっている人というのはいるのかもしれないとも思う。

毎朝同じ車両に乗り合わせる人のほうが、教室で隣の席の子よりも存在感があるような感じ。

自分が急にいま、なくなったらいったいどうなるんだろうと思わずにいられない。私は本当は誰とつながっているんだろう。

もう三次元で生きているのに疲れたななんて思ったり、生きづらさをのろったりすることも多いのだけれど、彼の死で私は、もう少し遊んでいたいと思っていることに気づいた。

ふっとろうそくの火を吹き消すように、ふいにこの世を去る逝き方。この人はこんな風に去りたかったんだな、と思う。


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