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人生はパーティー

人生はパーティー。パウロ・コエーリョの『アルケミスト』の中にある言葉。

この言葉が意味することが、ちらりと見えるけれど、全貌が見えない。つかめそうでつかめない。わかりそうでわからない。

見るとかつかむとか、自分ではない対象としているところから、「わかる」には程遠いのだろうけれど。なにか、ずっと昔のとくになんということのない記憶の一場面に、自分がふっと戻りそうになるような、そんな感覚。匂いとか音とか、光の具合とかが蘇って、その時の空間時間の自分に今の自分が重なっていくような。

そしてパーティーの映像は見えるのに、そこまで行くとなにもない。蜃気楼のように。夢でなにかをつかもうとすると消えてしまうように。

地平線の先にそれはあるんじゃなく、たぶん、自分の中にあるってことなんだろうけれど、知識でしか追えない私には、自分の中こそが深くて手が届かない。

でも、蜃気楼でも、記憶の残像でも、存在を感じられるようになっただけ進んだのかもしれない。

それにしても。

人生はパーティー。お祭り。ゲーム。遊園地。遊び。いろんな言葉で表されるけれど、そのパーティーを実際に生きると日々なにをどう感じるのか、それを具体的に語るものには出会わない。真にそうなった人はいないから?それとも言葉にならない?あるいは。そうなったら消えてしまうから?

そうなった人に会ってみたい。


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