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Day 362 自我のドラマ的に見た願望実現

こうなったらいいな、と思うことって、軽い、思考にすらならない言語化されていない希望みたいなものほど、あれ、そういえばそうなったらいいなって思ってたんだった!という感じで叶うことが多い。

一方、これを叶えたい!絶対に叶えたい!叶わなければ生きている意味がない、ぐらい大きい重い希望ほど、全然かなわない、ということが多い。

軽い方が高い波動に一致しているから、とか、重く結果に執着していると、まだ叶っていないという思いが現実化して叶わない、とか言われる。どれもそうなのかもしれないとは思う。

でもどっちにしても自我のドラマであって、起こることになっているものは起こるだけという視点で考えてみるなら、この現象はどうだろう?

そうなったらいいなと言語されないぐらい軽い願いというのは、たぶん、あまり思考化されていないはず。ドラマに巻き込まれていない真我に近いところを流れていたものなのでないか。

源から生まれたての波みたいなもの。そこにフォーカスすると感情となり、その感情の意味付けに思考がつく。

まだ思考がついていない、感情がほんのり感じられる程度の波。それをそのままキャッチしていて、同じような感覚を呼ぶ現実が起きた時、あ、あれと同じだと感じるから、叶った、と思う。実際は叶ったというより、それが起こるための波を先にキャッチしていて、願いとして自分は認識していた、ということなんじゃないだろうか。

一方の重い願いは、生まれたての波からいろいろ思考がこねくり回し、くっつけ、だいぶ離れたものになってしまっている。どちらかというと、叶わない、と感じるときと同じ感情を生む波をキャッチし、そちらにフォーカスしたためやっぱり叶わない、と思うのではないだろうか。

そちらのいろいろくっついた波の方が、インパクトが強いから自我のドラマとしては私たちをとらえるのに威力の強い装置だ。

願うときの波動の軽さ重さなんて、コントロールできるだろうか。だってすごく欲しいと思ったものを軽く欲しいに変えることができたためしがない。

すごく欲しいと思ってしまうものは思ってしまうようになっているのだ。それをあとから軽くしようとしてもそうはならない。軽くなったように感じたなら、軽い方の波をキャッチしただけなのだ。

思考のドラマをただ観照すると楽になるというのはこういうことなのではないだろうか。重い波が来てもキャッチしない。執着しない。ただ、波が生まれるところに近い場所をつねに感じているようにする。

すると、叶うも叶わないもどうでもよくなる。

願いの大小も関係なくなる。

と考えるこれも思考。言語化されることになっていたからされただけのもの。

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