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Day 353 紅茶を飲んで、すべて自分の中にあると知る

今朝、ミルクティーをいれて飲んだ。数日前は牛乳をきらしていたので、パウダーのミルクを使ったけれど、今朝はちゃんと牛乳も温め、紅茶も茶葉をたっぷり使いお湯の温度も最適で丁寧に淹れた。

ああ、おいしいなあ。
そこはかとない幸福感が身体に広がる。

ふと、この「おいしい」は紅茶というものが私にもたらしてくれたものではあるけれど、もともとは私の中にあるものだ、という感覚になった。

おいしい味覚もそうだし、飲んで味わった幸福感も、どちらも私の中にあったものを、紅茶を飲むという体験が引き出してくれたのだ。

そうか、生きていながら体験するあらゆるものはすべて、自分である、自分の内側にあるというのはこういうことか、と少しだけ近づいた気がした。

私の体内に紅茶が血液のように流れているわけではないけれど、この紅茶が連れてきた至福は内から湧いているのははっきりとわかる。私のものだから、だからおいしいし、至福なのだ。この至福は私だと感じられるのだ。

体験する主体と体験の対象は、実はひとつのものである。ひとつであるという感覚が起きた時、わたしたちは幸福感、至福をしるのかもしれない。

心の痛み、苦しみ、不安、怖れ、そうしたものは、それは自分ではないというサインだと言う。これは少し言葉足らずだ。それはやはり自分の中にあるから、なんらかの事象をきっかけに引き出される。ただし、自分の本質とは違う場合、痛み、不安、怖れといった苦しみの色を持つ。そういうことなんじゃないか。

だから私たちはもっと、日々の小さな時間にやってくる小さな一致感を味わえばよいのだ。つい、苦しみをもたらす大きなことにフォーカスがいき、そのことばかりで頭をいっぱいにし、小さくても本質の一致感を無視してしまう。

でもその態度は結局、苦しみのもとである問題を解決することでもとめている至福を遠ざけることになる。すぐ手もとにある至福と一体化すればすぐに欲している至福になるのに、なぜ苦労してそれを遠ざけ、手に入れるために苦しみの解決を選ぶ必要があるだろう。



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