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エンパスという才能

昨日は、オンライン個人セッション。自分の使命と英語との関係を知りたいというところから始まった。

なんと1年以上前の私のブログ記事を見て、申し込んでくださった。英語を学ぶことが天命につなっがている人がいる、という内容の記事だった。

私のセッションは、その人の使う言葉からエネルギーを読み、それをナビゲーションに質問を重ね、出てくる言葉をまるで星座のようにつないで一つの風景を描きだすというもの。そうやって自分の言葉を紡いで描かれた心の風景の美しさに、受けてくださった方全員が感動する。

当然といえば当然で、心の深いところから引き出された言葉には、その人の一番大切にしている想いが込められているわけで、美しく感じないはずがない。

その自分の美しさを知ったとき、人は自分が何者であるかを思い出し、他人の目や思惑ではなく、自分は自分を幸せにするために生きるという使命にむかって一歩を踏み出していく。

なにをしたらいいですか?と質問されるかたも多いけれど、自分を知った人は、なにをするかはあまり問題ではない。なにをしても、その自分としてあることが使命をはたすことになるから。あとは、楽にできることや、得意なこと、ついやってしまうことを選べばいい。違っていたら選びなおせばいい。

昨日の相談者は強いエンパスでこれまでずっと生きにくさを感じていた。相手の気持ちがすべて流れ込んでくるため、すべてにこたえようとしてしまう。だから3人いたなら3人分にこたえようとするため、やることも増え、エネルギーを3倍つかい、そして仕上がる仕事量が減る、ということに。

社会的には仕事ができない、というあまりにもひとくくりな評価になり、それをやっかいに感じる人からはパワハラされたりもする。相手の気持ちが入り込んで自分の気持ちと区別がつかなくなるので、自分がつらいことにうつ状態と指摘されるまで気づかなかったそうだ。

自分の想いを共有しようとすると、言葉がとまらなくなる。あらゆる背景を説明するところから入らねばと思うから。

英語は楽だという。英語を理解しない相手に感情が高ぶると英語でしゃべるという。いっぽう日本語は苦しい。きちんと、礼儀正しく話さなければ、そして長く話してはいけないと思うから。

日本語で日本人と相対すると、言葉がつまって閉じこもってしまうという。それは、言葉があふれすぎ、でもどれを渡せばいいか取捨選択できない上に、聞いている相手の想いもダイレクトにくるから、余計に自分の想いで話し続けることが苦しくなるのかもしれない。

英語は対話において話す側の責任が大きい言語だ。だから説明し、情報を与えることが前提の言語。付与できるかぎりの情報をつけて渡しても、あまりそれをとがめられることがない、と思うから楽なのかもしれないと聞いていて思った。

一方、日本語は、聞く側の責任が大きい。なにをいいたいのかを察し、言わずもがなの行間を読みまくって対話が成立する。つまり彼女の場合、読まずともわかってしまうことがとても多いいことが、追い詰められる一因となってしまう。また、流れ込んだのと同じ量の想いや情報を返してしまうと日本語としては多すぎてしまう、相手の行間を読む自由を奪ってしまうことになる。しかも、奪われた相手の気持ちもわかってしまうから、余計に話せなくなる。

これは英語が堪能になれば、日本語の際と同じことが起こる可能性がある問題だ。

心が分かりすぎるから、心の仕事は向いていないと周りに言われるそうだ。たしかに、きちんと自分を守るすべを知らずに心の世界に飛び込むと苦しむことになるのかもしれない。

しかし、キャッチできる心の色が常人の域をはるかに超えるセンサーを持っているのはやはりギフト。同じように、他の人には存在すら理解されない心の色の話を聞いてほしい人には救いの存在となるはず。

それが欠点だと思っていた才能。才能というのは突出していると欠点に感じてしまうこともある。というか、周りから欠点扱いされてしまう。結果自分を責めて生きてしまう。

でも、そうした人は、それは選ばれて与えられた強い光を放つギフトであると認め自分を幸せにしていく責任がある。そう生きていく覚悟をする手伝いをするのが私の使命であり、それができるギフトを私はもらっている。


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