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3次元の世界で、自分の幸せを本気で最優先にしないといけない理由

えらく早くに目がさめてしまった。

眠れないときとか、早く目が覚めてしまったときにできた時間は、なんだか異次元というか秘密の時間にさまよいこんだような気分になる。

ほら、夜中には小人の職人たちが靴をつくっていたり、人形たちがおしゃべりしていたりするわけで、人ならざるものたちの活動時間だから。

そこにちょっとお邪魔するような気もちがする。

いつもの活動時間とはちがって、思考より感覚がさえているし、生まれる思考も毒されていない。

思いがけず生まれた時間だから、ちょっとした自由時間でもある。ちょっとワクワクする。

マインド、脳が感覚、ハートと遊びたがっている。

そんな状態のときはnoteを書くのに最適。

言語化しにくかった感覚的なことを書けそうな気がする。


内外の話って4次元ぽくわからない

内面が外の現象をつくっているとか、世界の創造主は自分であるとか。
そういう話です。

耳タコな話なのに、理屈としてはわかるのに、真に理解できない話でした。

4次元てなに?に似ています。

3次元に時間が加わったものだよ、と言われたってすでに今、時間は存在しているわけで、加わるってなに?3次元となにがちがうの?って思う。

3次元は空間であることも知っている。時間がなにかも知ってる。でもそれがひとつになった4次元は真には理解できない。

同じように、内面が外をつくるというのも分かるようなわからないような。内面が外の世界の現象として「映し出されている」っていう表現の方がまだ分かりやすいかな。

でも内が実は外、外は実は内、みたいな映画Men in Blackの猫の首輪にくっついているボールの中の銀河みたい。

あるいはNever Ending Storyの主人公、本を読むバスチアンと本の中の世界みたい。

本当はそっちっぽいよなあと。でもよくわからんだったのです。

この前その感覚がちょっとだけ感じられたので書き留めておきます。

内側が外の世界を作るという仕組み

外と内っていう概念で考えちゃうと、どうしても三次元的な感覚から抜けられないのですが、それ以外の表現がないのでとりあえずそれを使います。

まあ、自分の中に今目の前に見ている世界があると考えます。身体の内側です。自分もそこにいます。

つまり外側の身体である自分の中の世界にちっこい自分がいるってことです。この内と外の自分は実は一体。でも一対と考えると三次元的感覚が邪魔するので、連動していると表現します。

内側のちっこい自分がなんだかどんよりしているとします。すると、それはイコール外の自分となるので、外の自分がどんよりしていることになります。

で、外の自分の中に世界があるので、世界は全体としてどんよりします。だから内にいる自分は「ああ、世界ってどんよりしたものなんだな」と受け取ります。

逆に、内にいる自分がいい気分でいるときは外の自分もいい気分。すると中の世界もいい気分に全体的に包まれます。

外の自分の気分は天気みたいなものだと思うと分かりやすい?

外の自分が雨なら中で雨が降る、晴れなら晴れるみたいな。

で、雨か晴れかをつくっているのは内の自分の気分。外の自分じゃなくて。
天気を体験している側の自分なのです。中の自分は体験させられている気がしているけれど、実はその天気は自分が作ったものというわけです。

なんでこんな面倒な仕組みがあるかというと、この内と外の自分をさらに外から観察している自分がいるからです。

3次元的外の世界には宇宙までも含まれちゃうので、観察者がいるのは宇宙外です。

観察者がいるところでは、外と内のギャップがありません。外だけっていうか。この外と内のギャップがあるから、気分が世界を作るということが体験できる。その体験をしたいためにこの内外の仕組みを作ったのです。そして内外の自分を分離して両方に置いたのです。

(観察者という言葉も、3次元的な肉体をもち目をもって呼吸しながらどこかの部屋にいるようなイメージを連想させますが、たぶんそういうものじゃないと思います。概念というか意志というか、そういう3次元的には触ったりできないものなのではないかと。)

内の世界は3次元です。そのため、創造には時間がかかります。時間がかかるからこそ、味わうことができます。

時間がなければ、思ったものが瞬時に作られる、作られるというプロセスすらなく現れる、思った瞬間とできあがる瞬間に時差がないということです。

だから味わうことができません。

味わうためには時間が必要で、時間をかけるために3次元という世界が必要だったのです。

ソース、ワンネス、真我、神、大いなる意志などなど。そういうのがこの観察者の名前です。それぞれちょっとずつ意味は違うけれど、それは内の世界で名づけられたものなので仕方ありません。

普段のわたしたちの自我はちっさい方の自分です。でもとりあえず、空なんか見上げた時に、この空も外側の自分の皮膚なのかなあぐらいぼんやりとらえて、自分の気分がこの空から下の空気感を左右すると思うと、私には想像しやすくなりました。

人生は周りの出来事や状況に左右されていると思っていたけれど、それらはむしろ自分の気分が作り出している天気みたいなものに作られている。その天気に合わせて起きている。

だったら、すべては豊かさと幸せと楽しさという天気に合わせたものだとちっさな自分が決めてしまえば、この世界はそういうものとして作られていく。

そういうことなんじゃないかなと、まったく確証があるわけでもありませんが、確信はあります。

だから、認知できる自分である自我、ちっさい方の自分は、気分よくいないといけないのです。だってちっさい自分が世界を左右するのだから。

だから、幸せで波動があがることをすることを自分に許可しつづけないといけないのです。それをしに三次元に生まれたといっても過言ではない。

楽しくて大好きなことだけれど、こんな一文の足しにもならないこと、こんな社会的に価値をもたらさないこと、こんな他人の役にたたないことをしている場合じゃない、って思って我慢して「意味あること」をするのはむしろ世界にとっては大迷惑なのです。

外の自分を幸せにしておくために、常に内の世界の天気を幸せにしておくために、ちっさい自分を幸せにすることが何より大切なのです。

そうするために、仕事だの人間関係だの趣味だのなんだのがあるのです。





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