見出し画像

太く短くか、細く長くか

細く長く生きたいか、太く短く生きたいかっていう二択問題で、わたしは断然太く短くだなあと思うのだけれど、でも太く長くがいい人や細く短くがいい人だっていたっていいじゃないかと思う。

そもそもどんなのが太いか細いか、すごく主観的な判断なわけで。

戦争を生き抜いた世代の「太く」や「細く」と、戦後の世代のそれらは全然感覚が違うと思う。

太いっていうのは振れ幅が大きく変化に富んでいる、ってことで、細いというのは比較的安定して変化があまりないということだとすると。

太い人生とは波乱万丈と言われる人生ってことになる。

わたしは戦後生まれだし、いちおう五体満足で、家庭環境もふつーだし、人間関係でひどく悩んだこともない。

それでも人生は荒波で、後半に入ってから離婚だの経済的な独立だの事業だので波乱万丈だよ、と感じている。

結局、波乱万丈か太いか細いかなんて、個人の基準。心にどれだけの荒波を感じるかであって、外的な出来事の大きさじゃない。

よく、自分の大変さを「○○な人と比べたら文句はいえない」とか「○○な人もいるのに、こんなことでくじけている自分が情けない」って言う人がいる。

でも、○○な人がその○○なことで、同じぐらい心の荒波を感じているかはわからない。こちらからすればそんな大変なこと!って思うことでも、本人はケロっとしていることもある。

外的な出来事や環境の変化の大きさで人生の波乱万丈感は決められない。本人の受け止め方、心の揺れ方できまる。すぐ上下する人もいるし、あまり上下しない人もいる。

そしてどちらがいいかなんて決められない。ていうか決めても意味がない。

あまり上下しない人が太く、つまり波乱万丈に生きたいと思えば、はたから見たら驚きの連続のような人生になるだろうし、すぐ上下する人が細く生きたいと思えば、静かで変化の少ない人生を生きているように見えるだろう。

でもそれぞれの心の内側は意外と平穏だったり、意外と荒波だったりする。

だから他人と外側の出来事で人生の質みたいなものを比べるのは意味がないし、それによって自分や他人の生き方を否定することはもっと意味がない。

大変な出来事に対し平然と立ち向かうことが賞賛され、そうでない人にそんなことでくじけてんじゃねーよとか、もっと強い心をもて、って言うのも意味がないし、見当ちがい。逆からは、そんなことも気づけねーのか、感覚ザルだなって見えてる、かもしれない。

ここまで書いて思うのは、太く生きたいなら心の上下を激しくすればいいし、細く生きたいならそれを静かにすればいい。

外側の出来事にどう反応するかで、変化に富むか平穏かは決まる。外側の出来事で決まるわけではない。

始めはつい反応して、鈍感だったり敏感だったりするだろう。でもからくりに気づけば、変化がなくてつまらないと思っていた人生がカラフルなものだと知ることができる。大変なことばかりだと思っていた人生が、意外とそうでもなかったのかも、と思える。

短い長いは私たちには決められないけれど、太いか細いかは自分で選択できるし、途中で変えることもできる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?