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「私のせい」と妄想が止まらないとき

何かにつけて罪悪感が脳内に巡ってくる。

例えば、なぜか自分にだけ当たりのきつい人がいるとき。「私がいるせいであの人に不快な思いをさせてしまっている」と、自分を否定する。

「私が何かしてしまったのかもしれない。私の存在が気に入らないのかもしれない」と心配し、相手の気分を伺ったり、変にほめたりしても結局気に入られることはなくて、「やっぱり私はダメなんだ」とさらに落ち込んでしまう。

例えば、付き合うことになった彼に実は他の女の子が言い寄っていると知ったとき。付き合い始めた恋人に、元カノが復縁を迫っていると知ったとき。どちらも「私がいなければ2人はうまくいってたかもしれない」と、自分の存在自体が悪だと感じる。

どちらの例も「自分がいけない」と罪悪感に駆られて落ち込んでいるのだけれど、かといって「どうしたらいいか」が全然見えていない。それはつまり、私がコントロールできる範囲から外れているからということになる。

嫌われる勇気』の文章に、こんな言葉がある。

"たとえば会社の対人関係に悩んでいる人がいたとします。話がまったく通じない上司がいて、事あるごとに怒鳴りつけてくる。どんなにがんばっても認めてくれず、話さえまともに聞いてくれないと"

"しかし、その上司から認めてもらうことは、あなたが最優先で考えるべき「仕事」なのでしょうか? 仕事とは、社内の人間から気に入られることではないはずです。"

"上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだーー。"

「嫌う」という選択をしたのは相手。相手の問題は相手が解決しないと自身も納得ができないし、「嫌わないでほしい」「好きになってほしい」と頑張ったところで相手がその努力をしなければ意味がない。私が出る幕はそこに無いのだ。

恋愛においてもしかり。私がいなくなっても、2人がうまくいく保証はない。その関係性は二人の問題であって、私が介在しなければ……なんて想像しても結局それはタラレバ話になってしまう。


どう頑張っても好きになれない人、苦手な人はこの世に存在する。私も誰かに対してその感情を抱くように、私が誰かからその対象に選ばれることはないなんてことはありえない。もちろん「誰からも好かれたい」と思うことはいいけれど、「100%はありえない」ことも頭の片隅に残しておくべき考え方なのだと思う。それはすべての希望を捨てることではなく、"私は誰かに影響を与えもするし、そうでない時もある"くらいの考えで良いんじゃないか、ということ。あるはずのない100点満点を求める必要はないのだ。

「自分は何もできない」と思う一方で、「自分は悪い影響をパーフェクトに与えられる」と思ってしまっている。それが変えられないならばいっそ、悪い影響を与えてしまうのが当たり前、その中で良いことできたらラッキーくらいに思えるといいのかもしれない。

この話に近いこと、去年も考えてたなぁ。

去年の毎日note


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