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読書記録⑫『かさなりあう人へ』白石一文著

白石一文さんの著書は、過去に何冊が読んだことがあった。内容はほとんど覚えていない。でも長編向きな作家さんだなぁと思ったことは覚えている。推理小説でもないのに、点と点が繋がって一本の線になっていくさまをきれいに見せてくれるから。例えるなら彫刻のような感じ。徐々にその人の生き方、運命が浮き彫りになっていく丁寧な物語の描き方。
本は読み終わって数日もすれば内容を忘れてしまいがちだけど、著者それぞれの世界観は残る。その余韻が癖になって、また同じ著者の本を手に取ってしまうのだと思う。


今回読んだ『かさなりあう人へ』は初版が令和五年と、比較的新しい。装画には、うずくまった女性らしき人物を包み込むように、抱きしめるように、いくつもの手や丸い花のようなものが描かれている。表紙を見ただけでライトな内容ではなさそうだ、と心の準備をした。
では、軽く物語のあらすじから紹介していく。


箱根勇はこねいさむは五十代のバツイチ男性。離婚したことや、共同経営者であった長谷川が元妻と付き合っている事実などが後押しとなり、博多から東京へ転勤することを了承。
「やりたいようにやる」をモットーに勇が東京でナンパした女性、野宮志乃ののみやしのは四十代の未亡人。ナンパの誘いはバッサリ断られたが、志乃が万引き犯として捕まりそうな窮地を救ったことをきっかけに、勇と志乃は徐々に距離を縮めていく。
志乃の亡くなった夫、龍一の母で、七十代現役介護ヘルパーのさち。勇の娘で、もうすぐ十七歳になる智奈美ちなみ。恋愛のみならず、家族関係や職場でのトラブル、過去の話が交錯しながら展開していく人生の物語。



物語は勇と志乃、二人の視点から交互に語られる。序盤では正直、物語にあまりのめり込めなかった。なぜだろうと考えて、単純に主人公二人の内面がイマイチつかめなかったからだと思った。
だって冒頭でいきなりヒロインである志乃は、万引きを犯しかける。のみならず、咄嗟にたまたま目の前にいた、数日前に自分をナンパしてきた男を利用して難を逃れるのだ。そして勇はといえば、寝具売り場に勤める志乃と、客と店員の立場で少し話をして、容姿がタイプだったからという理由で彼女をナンパしている。普通に考えて、二人の最初の印象はとてもいいとは言えない。


しかし話を読み進めていくうちに、二人の見え方がだんだんと変わっていく。それは勇と志乃が二人で会って話をしている時より、それぞれの日常を過ごしている時や過去の回想をしている時の方がより大きく感じられた。
どこか冷めていたり軽薄に思えたり、つかみどころのない二人。彼らには、幼少期にあまり親から愛情を受け取れなかったという共通点があった。お互いの母親にはシングルマザーだった時期がある。そして子供の頃、二人はそれぞれの母親の恋人からひどい目に遭わされている。おまけにどちらの母親も、子供よりも恋人に肩入れしていた。
子供にとって“お母さんが庇ってくれなかった”という事実は、深い傷になる。二人を近づけた要因の一つは、子供時代の辛い経験にあると思った。


勇は自分の容姿がいいことを自覚している。妻と別れた原因の一つは、勇による浮気だ。好感なんて持てそうもないと思っていた。
けれど勇は、ところ構わずナンパしているわけでもなく、言動にも落ち着きがある。仕事には真面目に取り組んでいるし、基本的に人間関係も大事にする人物だった。立場的に意見しにくい相手にも、不義理をしたとあればキッパリと自分の言いたいことを言う。そのせいで会社を辞めることになった時も、次に住む場所と他の仕事の紹介をしてくれる人に恵まれている。
何かあった時、やっぱり人脈は大事だ。つまらないプライドを捨て、素直に人に頼れる心も。そして何より常日頃から、人に対して誠実であること。結局は人にしたことが自分に返ってくるのだ。小説を読んでいると、こういうシンプルで大切な人生の法則のようなものも再確認できる。


志乃にしても、万引きは常習犯というわけではなく“魔が刺した”という言葉がピッタリくる、衝動的なものだった。義母の幸が所有する団地に同居し、イトーヨーカドーで働いている彼女は、特にお金に困っているわけでもない。ちょっとクセのある幸とも、細々した不満はあれどわりと仲良くやっている。二人の会話は義理の親子というより、本物の親子のようにフランクだ。志乃に対して幸は、新しい恋愛をするなり好きにしたらいいというスタンス。いずれ同居中の団地も志乃に譲ると言っている。


最初、私が志乃に対して抱いた印象は“感情の起伏が乏しくドライな女性”だった。でも、彼女の意外性を見るにつけ、その考えは変わっていった。
ちょっとした空色の変化を美しいと思い、スマホで写真に収める習慣。博多に住んでいた勇の高校生の娘が突然家出をしてきた時も、嫌な顔一つせず団地に泊めている。事情があって家を出て行った義母の幸とも、自ら連絡をとりつけて会いに行っている。
志乃のその、人との距離の取り方が、押し付けがましくなく、突き放しすぎずちょうどいい。
嫌味なく自然とその距離感を保てるのが、志乃の魅力かもしれない。


また、主役の二人だけでなく、七十代の幸や十代の智奈美という人物も興味深い。幸はこの年齢になってもいわゆる“生涯、現役の女”というタイプ。ちょっとだらしないところもあるけれど、情が深い女性であることがわかる。
勇の娘智奈美は、博多から東京へ一人新幹線に乗り、家出してくる度胸のある女の子。無鉄砲というわけではなく、ちゃんと先のことも考えられるしっかり者だ。
むしろ個人的にはこの脇役二人の方が、輪郭がはっきりと見えて理解がしやすかったかもしれない。


ところでタイトルにもある「かさなりあう人」というワード。作中で勇のセリフとして出てきたので、引用しておく。


「志乃さんがこれまで付き合ってきた男は、亡くなった旦那さんも含めて志乃さんにとっては一人の男みたいなものだってことです。つまりは志乃さんという歴史にとって彼らは重なり合う一体のもので、それがそのまま志乃さん自身でもあるってことです」

『かさなりあう人へ』 白石一文著  



出会った人たちによって、一人の人間がつくられていく。自分が見ている、接している人間は、自分が見て解釈した姿として取り込まれていく。人はお互いに影響し合って生きている。
もちろん人と接すれば、時には嫌な想いだってする。苦しめられたり、悲しい気持ちにさせられることもあるかもしれない。でも結局その人との間に起こった現象をどう消化するかは、受け取り手次第だ。きっと大きな意味で捉えられた時には、相手をゆるせたり感謝すらできるのだと思う。


そう考えると、何かを成し遂げたような偉大な人間じゃなくても、人はみんな知らず知らず誰かの人生に大きく貢献しているのかもしれない。
白石一文さんの著書は、人生において必要な広い視野をもたらしてくれる。興味を持たれた方は、ぜひ作品を読んでみてほしい。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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