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読書記録⑥『建設現場』坂口恭平著

前回の読書記録⑤『独立国家のつくりかた』に引き続き、今回も坂口恭平さんの本を読んだ。前回はノンフィクションで、今回の本は長編小説だ。白いハードカバーの表紙には、L判の写真より一回り小さめな抽象画がこぢんまりと飾られている。その絵は著者自身によって描かれたもので、手前に金網、その奥に赤い塔だか建物、バックに淡い緑と水色の混じった空らしきものが見て取れる。


私がこの本を選んだのは、図書館の小説コーナーの棚に坂口恭平さんの著書がこの一冊だけ収められていたからだ。これは優柔不断な私にとって都合が良かった。何を選ぶにもいつも本当に時間がかかるのだ。選択肢がほんの数冊だったとしても迷う。
タイトルを見てページをパラパラと捲っては内容を吟味し、長編なのか短編集なのか、オムニバス形式なのか。日常がテーマなのかちょっとファンタジー寄りなのか、或いはSFチックなのか‥‥一通り下調べをしないと気が済まない。いやもう、いずれ全部読む気で端からいけよ、と毎回自分に呆れてしまう。


そんなわけで迷うことなく借りることができて、ほっとしながら手にした本であったが、このあっさりとした出会いの展開とは真逆の読書体験が、この後私を苦しめることになる。


一言で言うと「重かった」。
それは不幸の連鎖とか、人がバタバタ死んでいって主人公が天涯孤独だとか、そういう重さではない。愛憎劇とかドロドロ展開といった重さでもない。
もっと根源的なもの。「死生観」と一言で片付けるのも「万物流転」とまとめるのも違う。でも命を表現したものであったとは思う。創造と破壊。時の経過。記憶。他者と自分。終わりのないこと。
物語は一人の男の視点を通じて展開していく。一人称で語られることが、余計にキツかった。これが三人称で彼、彼女が、と語られる話だったらもう少し気楽に読むことができたかもしれない。


ほとんど会話文もなく、つらつらとモノローグが続く冒頭部。舞台は建設現場で主人公はそこの労働者らしいのだが、どこの国かもわからない。そしてそこでは頻繁に「崩壊」が起こる。そのため建てては崩れ落ち、また建てては‥‥の繰り返し。労働者たちの環境もいいとは言えない。怪我人もよく出るし、皮膚が乾燥している者や黒いシミだらけの者、精神が不安定そうな者も少なくない。主人公自身も淡々としてはいるが、心身ともに健康とは言い難い状態だ。そして彼には過去の記憶がほとんどない。自分の名前も長い間忘れていたほどだ。やっと彼が“サルト”という自分の名前を思い出せた時、少しだけ物語の視界が明るくなった気がした。



ロン、クルー、ウンノ、ペン、タダス。物語に何度か登場する人物たちの名前はちょっと変わった響きを持っている。名前に何か深い意味が隠されているのだろうか、と深読みしようとしてやめた。というより何かの裏を読み取る余裕がなかった。とりとめのない風景、シーンの映像を形造ろうと試みることで精一杯だった。そしてそれもすぐに諦め、ただただ文字を、文を、目で追い音読をすることに徹した。元々黙読は苦手だったが、本書は特に音からも言葉を取り込まないと、読んでいく側から泡のように消えていってしまうようだった。

 人間は地形を変化させる力を持っている。人間は言葉よりも、歌よりも、あらゆる道具、金属よりも先に生まれてきた。そもそも地面の中にある音楽に近いものだった。それ自体が一つの会話だった。もちろんそれは人間同士の会話ではない。人間はあらゆるものが通過していく道のような役割を果たしていた。

『建設現場』坂口恭平著



上記のような文章が全体を覆っている。時々正気に戻ったように人としての生活が、日常が垣間見えることもあるが、もはやそれもどこかグニャリと空間が歪んでいるような異様な世界観なのだ。
作中で何度か目にする「ディオランド」という名の場所は、そんな異様な世界の中でも特別な場所に思えた。主人公サルトはベニア板の扉一枚隔てたその場所へ、導かれるように入っていく。霧の中を進み暗闇を抜け、草むらや崖、丘へと続く道を行く。それは実際に歩んでいるのか、想像の中で次々と現れる風景を味わっているだけなのか判断がつかない。そして現れた馬の瞳に映る町並みは、いつの間にかサルトのいる場所になっていた。その街で見かけた人妻の女性。サルトは彼女の所作一つを見ただけで、彼女が普段触れている家具や植物への思い入れや生きる姿勢を読み取ることができた。それは彼女だけに限ったことではない。どうやらサルトは、目の前で起こる事象以上の情報を得ることができるらしかった。


ディオランドからはまた別の扉を開けて、呆気なく帰還している。そしてまた「崩壊」がたびたび起こる建設現場の日常へと戻っていくのだが、何人かの話ではディオランドは幻だとか、労働者たちが作った想像の世界だと言われていて、その真相は定かではない。ペンという初老の現場頭の言葉を下記に引用しておく。

「それはお前の見た世界の話だ。ディオランドなんて場所はもともとない。誰もがおれのことを勝手につくりあげる。もちろん、お前だって誰かがつくりあげたものだ。お前は自分を操作しすぎだ。ここはそういう場所じゃない」

『建設現場』坂口恭平著




これは全編を通してなのだが、サルトは彼が体験する事象を手帳に書いて記録していた。それは記憶が曖昧な彼が、忘れないために書く備忘録のようなものだったはずだが、後半では書く行為が「命令された調査」なのか混乱している。「体の力を抜くと、誰かが乗っ取ったように自動的に手が動きはじめた」とも記されていた。書いていないと発狂してしまいそうになる、とも。これは著者自身の「書く」という行為に限りなく近い気がした。


著者の坂口恭平さんは、躁鬱病と共に生きている。この本全体を纏っている孤独で難解な世界観は、どうしてもそのことを彷彿とさせてしまう。ここに書いてある人物、風景、現象には、まるで違う次元にアクセスして見てきたものを、そのまま描写してきたようなリアルさがあるからだ。
日常がずれて異質なものを取り込み、そこに違和感を持つ余地も残さなくなっていく。存在が歪み、溶けて形を変えていく。他の人やものとの境界が曖昧になり、自分という意識が薄れていく。著者はそんな世界を眺める、冷静な観察者だ。


苦しい。
読んでいるだけで精一杯だった。
こんな世界に降りていき、一人でじっとそこに目を凝らし、書き続けることのできる著者の凄みを見せつけられた。
この本を読むのに何度も睡魔に襲われ、眠りを挟んだ。ボクシングの試合のインターバルみたいに、必要な睡眠のような気がした。意地でも読み切ってやる、と思った。読み終えた時は身体が重かった。予想していた通り、山を登り切った時のような清々しさも達成感もなかった。夕方、まだ明るいうちにお風呂に入ってゆっくり湯船に浸かり、少しさっぱりした身体をフローリングの床に投げ出して、また少し眠った。市のチャイムか何かで目を覚ました時、ようやく身体がちょっと軽くなった。


読んだことを後悔なんかしていない。するわけがない。
間違いなく忘れられない読書体験だった。


でも次回の読書はもう少し、ライトな内容なものを選ぼうと思うのだった。

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