読書記録⑮『残りの人生で、今日がいちばん若い日』盛田隆二著
読書記録も今回で15回目。その日に読むページ数を決め、印象に残ったページや行には付箋を貼っていく。読み終えたら復習がてら、紙に人物関係図や話の流れを軽くまとめる。少しずつ書きやすくするための工夫もできるようになってきた。
でも毎回書く前は不安になる。これは読書記録に限らないけど、文章を書くとき、本当に最後まで書き切ることができるのだろうか、と。そして「また時間がかかるんだろうなぁ」と気が重くなる。
それでもやっぱり書きたい。不思議と書いているうちに“無”の境地になっていく。全部出し切らないとスッキリしない。それに最近は書く前のあの少し不安な感じも、あっていいものかもしれないと思えるようになってきた。だって自分の指先からどんな文章が出てくるのかわからないから面白いのだ。何度か読み返しをする自分のためにも、読むのになるべく負荷のかからない文章を書きたい。そんなことを考える今日この頃だ。
では、盛田隆二著『残りの人生で、今日がいちばん若い日』のあらすじから書いていく。
この本を読もうと決めたのは、タイトルに惹かれたから。どこかで一度は聞いたことのあるような格言、『残りの人生で、今日がいちばん若い日』。私自身はこの言葉を聞くと「過去を後悔してうだうだ悩んでも仕方ない」「大切な今日という日を悔いなく生きろ」というメッセージが込められているような気がする。どちらにせよ、若い人より中年以降の人間に響く言葉だろう。
しかし読了した今、あまりこの本の内容にタイトルが似合っていないように感じる。それはたぶん私が勝手に、老いや“若い時にやり残したこと”をテーマにした物語を想定していたためだと思う。
予想は外れたものの、物語自体は充分に楽しめるものだった。今回初めて盛田隆二さんの本を読んだが、他の作品も読んでみたいと興味が湧いた。まず思ったのは、違う立場のそれぞれの人物描写が実にリアルだということ。そんなの作家なら老若男女、どんな人物の心情も汲み取って表現できて当然じゃないか、と思うだろう。しかし、読みながらその人物の視点に立って、対峙する相手に本当にムカムカしたり軽蔑したり、ハラハラしたりしてしまったのだ。
例えば百恵が婚活でデートを重ねていた相手、四十四歳の区役所勤務の津村という男。両親を看取り、婚期を逃したという。面白みには欠けるものの礼節や一般常識はわきまえているように見えた。が、さして盛り上がらない会話に加え、百恵から手を繋ぐなど津村がその気になるようなアクションをとっても、消極的な姿勢。そのくせそんな態度をとりながら、イケると思ったのか津村は百恵にプロポーズをしてきた。しかもその言葉が壊滅的にデリカシーの欠けたものだった。
婚活あるあるの“同時進行”といえば察しがつくだろうか。世間には暗黙の了解というものがある。しかし、それを口にしてしまえば相手がどんな気持ちになるかくらい、恋愛経験に乏しくても、人生経験から察してほしい。おまけに子宮系の病気を打ち明けた百恵に、なぜ黙っていたのか、と攻め口調の津村。デリケートな問題だ。百恵だって打ち明けるタイミングを測っていたはず。信頼関係も構築できていない相手に話したい内容ではないだろう。
読みながら津村という男の鈍感さとデリカシーのなさ、器の小ささにムカムカしてしまった。それと同時に、あ、こんな風に異性の気持ちを想像できなかったり、自分を守るために相手を攻撃してしまうような人、実在するんだろうなぁと思わされた。まさに物語の中で作者が意図せず、勝手に登場人物たちが自分たちらしく振る舞っている感じがした。
もう一人、私が作中で感情を悪い意味で揺さぶられた人物がいる。小説家志望の小暮冴美だ。この物語の中では地に足がついていない感じといい、定職につかず大人になりきれていない幼さを持つところといい、認めたくないが、スペック的に私に一番近い存在だ。だが共感はできない。同族嫌悪とも違う。直太朗の視点を通しているから、なおさら彼女を否定的に捉えてしまうのかもしれない。とにかく見ていて痛々しい。
最初の方は直太朗も少なからず悪い男に見えた。冴美のことを好きでもないのに、性の対象として切れずにいたのだから。しかし直太朗が、冴美を小説家としてデビューさせたいという気持ちに嘘はないし、彼女の気持ちを弄ぼうとしたわけでもない。直太朗は娘の菜摘を第一優先する、基本的にはいい父親だ。
けれど、冴美は小説も上手く書けず、直太朗との関係性も心が離れていくのを感じ、だんだん追い詰められていく。直太朗と百恵の仲を疑い、場の空気を壊すような発言をしたり。深夜に何通もメールをしてきたり。「では、さようなら」なんて意味深なメール後、連絡が取れなくなったり。完全に情緒不安定のいわゆる“メンヘラ化”を遂げていくのだ。
ここでも私はまんまと直太朗の視点で「面倒臭いなぁ」「勘弁してくれ」「後味の悪いことだけはやめてくれ」という男の狡さが露になった感情を抱いてしまった。でもそうした直太朗の冷めた気持ちに加え、唯一直太朗と繋がれる小説原稿までも否定されたことで、冴美が心の拠り所をなくしていく様もありありと伝わってくる。
こんなふうに誰に焦点を定めても、その人物の思考に触れて納得できてしまうのは、著者が普段から人を偏った見方で捉えることなく、フラットに観察しているからではないだろうか。また九歳の菜摘の、冴美に対する観察眼も鋭い。以下は菜摘が冴美についてキツめな物言いをした後、百恵が「でも、彼女はまだ若いから」と冴美を庇う発言をした後の菜摘の言葉だ。
菜摘はそっけなかったり、ふいに百恵と手を繋いだりする。大人を見ていないようで、よく観察している鋭い女の子。媚びることも背伸びすることもせず、時に不機嫌さを露にする。そんな菜摘は大人からしたら接しづらくもあるかもしれない。でも感情を素直に表現できるところが、子供らしくて私には好ましく思えた。ただ考えを巡らせすぎてしまうのか、自分で自分を持て余している感じがする。菜摘の描写に触れることで、忘れていた子供時代の繊細な心情をちょっと思い出した。言語化能力に長けていなくても、世界に触れ、感じることはむしろ大人よりもずっと多かった。そのもどかしさをまるごと描けている著者は、本当にすごい。
そしてこの本の魅力は人物描写に留まらない。百貨店の従業員、書店員、編集者、といくつか登場する職業。その仕事内容をチラッと見せてくれるのだが、リアリティーのあるエピソードが興味深い。
例えば書店員の仕事では、返品本を選ぶことの苦労が語られていた。毎日新刊がものすごい量送られてくる。収められる棚は限られている。売れ行きや単純な日付順、人気作家のものなど考慮して、書店員のセンスで決めなければならない。その辺は経験を積み重ねて肌で感じてさばく術を身につけていく他ないんだろうなぁと想像した。
編集者の仕事にしても、ただ作家と原稿のやり取りをするだけに留まらない。作家のサイン会を開催し、手配や当日のサポート、打ち上げの手はずを整えたり。座談会を開けば、その録音したデータを元にライターに原稿を発注するのも仕事だ。二度手間にならないよう、ライターに誌面で取り上げてもらいたい箇所を伝達するなど工夫も凝らす。
仕事の話は、専門的なことやただの段取りだけを訥々と語られても眠くなってしまう。でもこうして小説の中でエピソードと共に垣間見せてもらえると「へぇ、知らなかった〜面白い」となる。特にこの本ではそのチラッと見せてくれるバランスがまた良かった。
長くなってしまったので、そろそろまとめたい。
とにかくこの本では、どの人物の視点に立っても、その人物以外の人間に対して一度は苛立っていたかもしれない(笑)。つまり何が言いたいかというと、誰が正しいとか好感が持てるとかではなく、視点を変えれば誰もに苛立ち、配慮に欠けていると思わされることがあったということ。
これは、今更だけどはっとさせられることだった。“人のふり見て我がふり直せ”である。自分も、知らない間に人を傷つけたり苛立たせていることがあるのではないか、と思った。それも無意識に。
八方美人に振る舞うわけにはいかないけれど、せめて自分の身の回りの人たちの気持ちを想像することは忘れたくない。そして言わずに後悔することや、言ってしまって後悔することがないよう、日々の言葉を大切にしたい。そう思えた。
さりげない日常をテーマにした本なのに、人生のあれこれをギュギュッと詰め込んだ、濃厚な物語だった。色々な立場の人の感情を味わいたい人にもお勧めだ。興味がある方は、ぜひ読んでみてほしい。
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