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何をやってもうまくいかない時、どうする?

天気と同じで、気分が変わるのも仕方ない。
普通に考えたら、物事には何か理由があって結果がある。お気に入りのカフェでモーニングを食べているから、ご機嫌だとか。出先で突然の雨に降られたから、苛立っているとか。楽しみにしていた友達との約束がキャンセルになったから、ガッカリしているとか。


そのことを人生の前半では疑ったこともなかった。外からもたらされることで、自分の気分が上がったり下がったりする。もちろんそこには努力の余地はある。だけど理不尽なことも起こる。それが世界で、被害者がいれば加害者がいて。善悪があって、正しいや間違いがあるのが当然だと。


だからスピリチュアルや量子力学の世界に出会った時は、衝撃だった。常識がオセロみたいにひっくり返った。一時期、自己洗脳するみたいにイヤフォンを耳に突っ込んで、四六時中知識を吸収した。あの頃はでも、甘くて優しい言葉だけに耳を傾けていた。地に足がついていなかった。
最近はそういう類のことに、潮が引くように、興味や関心の温度が下がっている。だけどじゃあ「そんな世界なんて本当はないんだ」と見切りをつけたのかといえば、それは違う。逆に自然なこととして、特別視しなくなったのかもしれないとすら思う。


何が言いたかというと、よく言われる「鏡の法則」とか「現実は心の投影」とかいうアレ。今更だけど、本当なんだろうなぁと。ようやく最近ちょっと自分の体感として腑に落ちてきた気がする。
知識だけ詰め込んで、大して能動的に動いていなかった時期を通り過ぎて、ちょっと熱が冷めてきた今。内面も目に見えない世界ももちろん大事だけど、肉体を持っている以上、きれいごとばかりじゃなくて、目の前の現実、生活が大事だよなぁと地味に再確認した今日この頃。だからこそなのか、見えてきたものがある。
特別なことじゃない。本当に、そこらへんに転がっていそうなこと。


ここ数日、なんだか自分の内側に、イライラやムカムカが溜まっているなぁと自覚していた。そんな時に起こることって、何度もジャブを喰らわされているようなもの。一つ一つは小さなダメージなんだけど、ちりも積もればなんとやら。じわじわと効いてくる。


朝、なかなか起きてこない息子に声をかけると「うるさい起こし方してくるから、起きる気無くした」と不機嫌マックスな表情で返される。スーパーに買物へ行くと、いつも買っている商品が在庫切れ。ドラッグストアで発行されたレシートのクーポンを使おうと取り出すと、昨日で期限切れ。大通り脇の歩道を歩いていると、大型トラックが前方の車に向けてか、こちらがビクッとするような大きなクラクションを鳴らしてくる。いつもは残されない家族のご飯が「ちょっと多かった」と生ごみ行きに。


一番ぐったりきたのは、息子の病院の付き添い。数日前に熱がぐんと上昇して、一晩寝たら嘘みたいに下がった日があった。ただの風邪だと思っていたけど、その次の次の日あたりから咳をしだして、片耳が聞こえにくいという。ネットで調べた結果、これは放置しておいて治る類のものじゃないかもしれない、と判断。
電話で耳鼻科の web予約をした。予約開始時刻を待ち構え、二分後には予約を完了していたにも関わらず、順番は“57人目”。マジか。他の病院もないかと探したら、家の近くの総合病院にも耳鼻咽頭科があった。しかも予約制じゃなかった。期待せずに直接行ってみたら、受診してもらえることに。ただし、数日前に発熱があったことを考慮して、まず小児科へと回されることに。(これはある意味、最初に予約した耳鼻科に行っていたら断られていた可能性もありそうだからよかったと思った。病院の電話アルアルで、全然通じないから事情も話せなかったし。)



で、結果として症状はただの風邪による咳。耳の方は軽い中耳炎のような感じだった。小児科の後に耳鼻咽頭科にも足を運んだから、最後に精算をして処方箋を受け取った頃には午前中が終わろうとしていた。
息子共々ぐったりして家に帰った。受け取った薬は一週間分で、基本一食後に四粒。毎食後に服用することになっていた。が、結局飲んだのはたったの一粒だった。



あろうことか息子はラムネのような見た目のその薬を、一息に飲み込めなかったからと、かじった。そして吐き出した。その後苦味がトラウマになったらしく、頑として「もう飲まない」宣言。「こんな大きいもの、飲み込めるわけない!」と。
えー‥‥いつもろくに食べ物噛まずに飲み込むくせに? もう私の背丈も超えた中学生なのに? いや、もう午前中いっぱいかけたあの時間は何だったんだ? 徒労感でいっぱいになった。
だけどまぁ、大した病状じゃなかったと、わかっただけでもよしとしよう‥‥そう自分に頑張って言い聞かせた。



おかしい。一つ一つのエピソードは地味かもしれない。でもなんかズレている。
そして依然としてイライラムカムカモード。
こういう時、できれば人と関わりたくない。だって歩く公害だ。不機嫌さを人に撒き散らしたくないし、人に嫌な思いをさせることで自分を嫌いにもなりたくない。たぶんハリネズミのように、自分の周りをぐるっとトゲが覆っている。
とにかく何をしても気が晴れない、タイミングが合わない、不快感に意識がいく。ああ、これは私の内側が原因だ、とはっきりわかった。



ずっとこの状態が続くことはないと知っている。でも、もうそろそろ抜けてもいいよなぁと思う。
こういう時、今まではどうやって対処してきたか。まず寝る。もうこれが一番効く。だって起きてると、ぐるぐる考えすぎるし。あとは書く。汚い字でノートに書き殴る。それかまだ明るいうちに湯を張って、お風呂にゆっくり浸かる。



これだけじゃなくて、今回ちょっと腑に落とせたことがあった。別に新しいことじゃない。世間では出回っていることだ。でも、自分が体感するのと、ただ知識として知っているのとでは大きく違う。
それは、原因や犯人探しをしないこと。解決を目的としないこと、だ。
それから、自分に余裕がない時って、大抵呼吸が浅くなっているから、丁寧に呼吸することを心がける。
そうだ、天気だってずっと晴れなんてあり得ない。雨は悪者じゃなくて、恵みでありがたい存在でもある。自分の気分だって変化して当たり前だ。「なんで雨なんて降っているんだ!原因はなんだ!早く解決しないと」とはならない。


散歩中、なるべく余計なことをごちゃごちゃ考えず、いつもより深く呼吸して歩く。気持ちが落ち着いてくる。ちょっと別の道を歩いてみよう。最近入っていなかった、地元の小さなスーパーになんとなく入り、商品棚を見ながらぐるっと一周する。へぇ、結構安い。別に何も買わなかったけど、ちょっと新鮮な気持ちになって出口へと向かった時だった。


「いいことあるわよ」


よく通る、年配女性の声が耳に入ってきた。その声は、さらにあと2回ほど同じ言葉を繰り返した。
私は思わず笑いそうになった。その女性は全然私の知り合いじゃなかったし、その言葉もたぶん常連客同士の知り合いか、店員さんに向けられたものだった。でも、あまりにもくっきりと私の耳に届いた。


うちに帰ったら、父は出かけるところだった。こう言ってはなんだけど、昼ごはんを作る手間が省けてラッキーだった(笑)。そして数時間後にお昼を済ませて帰ってきた父は、そろそろ買い替えなくちゃと思っていた、新品の浴槽の蓋を手に持っていた。父はシャワー派だから、お風呂の蓋が割れて切れかけていることに、気づかないだろうと思っていたのに。浴槽の蓋をテーブルに本を読む私には、少なからず嬉しいことだった。
学校から帰ってきた息子とも、心なしか今日はやり取りがスムーズな気がした。最近は一日のどこかで必ずといっていいほど、お互いバチバチと火花を散らすシーンがあったのに。


物事を解決しようとして、マイナスからプラスに持っていこうとしてもなかなか上手くいかない。でもまずフラットにしよう、ごちゃごちゃ考えるのやめよう、と力を緩めるとなぜか上手く回り出す。
それって別にそんなに不思議なことじゃなくて、もっと単純で平凡な話かもしれない。精神世界とか投影とか、小難しい説明を経由するまでもなく。
正直なんでもいい。


でも空気だって音だって、目に見えないけど大切で欠かせないものだし、誰もが存在を認めてる。目に見えない、計り知れない何か大きな力が働いていても、ちっともおかしくないと思う。そもそも命がどこから来てどこへ行く(還る)のかも、ちゃんと解明されていないのだから。“これは常識だけど、これは常識の範疇を超えている”なんていうのは、単に未知のものに対する免疫がないだけだ。


取り止めのない話になってしまったけれど、ふと考えたのは「こんな状況、冗談じゃない!」と表面では思っていても、どこか深い所では楽しんでいる自分がいるのかもしれない、ということ。
「いや、断じて望んでいないし!」 と否定したくなるけど、やっぱり人はこの世界に物語を創造しに来ている気がしてならない。物語に起承転結の曲線は付きものだし。



とはいえ、まだまだ目の前の状況に動揺しまくるし、自分の内側から湧いてくるような黒い感情に飲み込まれそうになる。渦中にいる時に、スッと冷静になるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
だけどいつでも、客観的な視点は持ち合わせていたい。
そして旅するように人生を味わいたい。



まとまりのない内容になったかもしれない。でも、書いているうちに感情は整理されてきたように思う。やっぱり書くっていいな。


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