読書記録⑬『愛なき世界』三浦しをん著
この本は前々から少し気になっていた。著者の三浦しをんさんの書く世界観がすごく素敵だから。『舟を編む』『格闘する者に◯』『まほろ駅前多田便利軒』‥‥他にも何冊か読んだ。『舟を編む』は映画にもなった名著だから、知っている人も多いと思う。この著者の作品を読んでいつも思うことは「取材と下調べ、相当したんだろうなぁ」ということ。
小説家は壮大な嘘つきにならなければいけない。自分の知らないことでも、知っているふりをして。設定やテーマを決めてしまえば「当事者じゃないから知りません」は通用しない。時には省いたり避けて通ることもテクニックの一つだと思う。でもたった数行の事実を書くために、十冊以上の参考文献を頭に叩き込まなければいけない時もあるはず。
三浦しをんさんの本を読むと、その裏の奮闘に思いを馳せずにはいられない。
著者の苦労に比べたら、読書記録なんて3行日記を書くようなもの‥‥と思いたいけれど、まだまだそんな境地にはなれない。
書きたいことを整理することも、ぴったりの表現を選ぶことも、シンプルにすっきりとまとめることも本当に難しい。それでも続けていくことで、少しずつできるようになっていくと信じたい。
それでは『愛なき世界』の、あらすじから書いてみる。
まず最初に伝えたいこと。それは藤丸という人物の魅力だ。「そうっすね」「いいっすね」という、一見チャラそうな口調の藤丸は、難しい話にはついていけない。本村に遺伝子や実験内容、植物の性質などを説明されても、頭にはてなマークを浮かべてばかりいる。しかし感覚で本質的な話ができる、生きる上での賢さは備えている。時に実験を料理になぞらえて話し、悩んでいる本村に大事な気づきを与える。
本村に振られた後も実験の邪魔をしないようにと、いい距離感を保ち、自然で優しい接し方をしている。仕事にも真摯に向き合う。とにかく素直でかわいい。円服亭店主の円谷や、年配者の常連客たちにかわいがられるのも頷ける。読みながらところどころ藤丸のピュアな言動に、キュンとしてしまった。
店主の円谷が、弟子である藤丸にかける言葉もいい。初めてT大で、別世界の空間を体験して店に帰ってきた藤丸に、
と一言。
店の業務に加え、自転車での配達に疲れて眠る夜の藤丸のいびきを、
と表現。弟子への愛と、ユーモアのセンスが光っている。
また、T大研究室の仲間の人間関係もとてもいい。普段はそれぞれの研究に没頭していて、プライベートもそこまで踏み込んで話す仲ではない。しかしちょっと抜けたところのある松田教授のフォローをしたり、元気のないメンバーの様子に気づき、みんなで話を聞いて助言をしたり。研究対象は違えど地道な実験を続ける仲間同士、家族のような絆がある。
いつも黒いスーツを着て陰鬱な空気を醸し出し、殺し屋を彷彿とさせる松田教授。基本的に研究室のメンバーそれぞれの考えを尊重し、自由に実験させることを許可している松田だが、実験に臨む態度、内容にはシビアだ。
こんなふうに、著者の表現は、キャラクターをありありと描写し、読者をクスッと笑わせてくれる。
研究でボルネオに滞在することが決まった助教、川井を松田が心配している様子も読者の口元を緩ませる。普段ならばあまり他者に積極的に話しかけない松田が、しつこく川井にアウトドア用品を勧めたり、トレーニングをした方がいい、象に踏みつぶされることもあるかもしれない、などと助言をするのだ。
その心配の根本は、昔、松田が院生時代に同級生を亡くした経験があったからだった。ライバルであり大切な友達だったその仲間は、旅の最中に亡くなった。旅から帰ってきたら、たくさんの植物の写真を土産話とともに見せられるはずだった。このエピソードがまた良かった。人によっては泣けてしまうと思う。
そして大きな山場ともいえる、本村の失態。実験内容を説明することは省く。(というより、ちゃんと理解できていないため説明ができない。)とにかく実験で「最初のボタンをかけ違える」ような、基本的なミスをしでかしてしまったのだ。そこに至るまでの時間と手間と労力をかけた実験過程を見せられているため、本村がその失態に自ら気づいた時のショックは読者にも少なからず伝わってくる。
しかし、このピンチを救ってくれたのも、研究室の仲間、藤丸、教授の松田だった。やっぱり人は落ち込んだ時、一人で抱え込んでいるより信頼している誰かに話を聞いてもらった方がいい。研究室の仲間は、基本的に見守るスタンスでいてくれる。でも、助けが必要そうだと思った時にはそっと手を差し伸べてくれる。
仲間っていいな。そう思えるドラマを見せてくれた。
ところでタイトルの『愛なき世界』。こんなに愛に溢れている物語からは、程遠いように思える。人間のように感情で動くことのない、植物の世界のことを表現しているのだろう。でもまだまだ解明されていないことの多い植物にも、生存欲求があり時には意志があるような動きすら見せる。望んでいるか否かはさておき、他の生物の血肉となる葉や実をつけてもくれる。
物語の端々で、植物とは、愛とは、と哲学的なことを自問する本村と藤丸の思考も興味深い。とにかく内容が濃く、読む人にも当たり前と思っていることに疑問を持つことや、生き方を自問させてくるような本だった。
この本は実験内容やそのプロセスに触れた、少し難しい箇所もある。けれど説明はとても丁寧で、一般の読者に向けて大分優しく書かれていると思う。全部理解できなくても、物語の本筋を楽しむのには問題ない。
文系を自覚している人はむしろ、少しいつもと違う世界観を楽しむ入り口になるかもしれない。興味を持たれた方はぜひ、読んでみてほしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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