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進撃の巨人が完結した世界を生きる

アニメが最終回を迎えてからはや2カ月。観終えてすぐにでもこの気持ちをまとめたかったのだけれど、興奮が冷めやらずアニメを全部を一気に復習しているうちに2カ月が経過していた。まだ全然 気持ちの整理はついていないけど、今の気持ちをいったんまとめることにした。


最初の最終回

なぜだか私はエレンが何らかの形で救い出されると信じこんでいたので、エレンを”殺す”という選択肢が現実味を帯びていく流れがなかなか受け入れられなかった。特に、ジャンの絞り出すような「エレンを、エレンを殺そう」の発言は、最初聞いたときは”きっとエレン救われるよね”という気持ちがあったので、辛いような気持と、もうすぐハッピーエンドが待っているよねという気持ちが交錯して変な感じがしていた。

そんな気持ちのままにミカサにとどめをさされるエレンのシーンを迎えるも、着実に迫ってくる”終わり”が、私の中を虚無で満たしていくような感覚がして、エレンの喪失感をうまく感じることができなかった。

その後、風呂に入っているときに唐突にそれは襲ってきた。

エレン〜〜〜!!!
(´;ω;`)ウッ… 。゚(゚´Д`゚)゚。
悲しい…淋しい…

もう一度3人で笑い合う姿が見たかった…。リヴァイにぼこぼこにされているエレンを見たかった…。ジャンやコニーにも何てことしてくれたんだと言われつつも、また笑いあって欲しかった…。ライナーともう一度語り合って欲しかった…。こうするしかなかったのか?他の結末はなかったのか?でも、やっぱりこうするしかなかったんだろうなぁ…。

エレンの喪失感もさることながら、人類 VS 巨人から始まり、壁の中の人類同士でエレンという巨人を巡って争い、壁内人類 VS 壁外人類となり、最終的には進撃の巨人を止めるためにハンジを中心とした調査兵団とマーレが共闘するという流れで、巨人を巡る激動の世界史を見せられた満足感もひとしおであった。

第一話を初めて観たのがもう10年近く前で、何度か再放送を観たりはしていたものの、前半の記憶は若干曖昧なので最終回を迎えたのを機に一気に全話を復習することにした。

アニメ全編を振り返る

第一話のオープニングで幼いエレンが涙を流すシーンがいきなり沁みる。進撃の巨人の未来を見通す力でこの先の未来を見てしまったのかな…。結末を知っているので、壁から現れる超大型巨人はベルトルトだし、鎧の巨人もライナーだし、エレンのお母さんを食べる巨人もお父さんの前妻だしで、私は転生者なのか?物語を見る私は神なのか?物語と私の関係性は初見のそれとは変わってしまったらしいが、中の人から完全な外の人になったのか?という気がしてなんだかすごく寂しい気持ちになってしまった。

そんな感じで振り返りの最初から寂しさを抱えてスタートするという予想外の感情にさいなまれていた私にある本との出会いがあった。

ある映画を見終わって、強い感銘を受け、「こういう映画こそ、いつか出会いたいなとずっと思い続けてきたものだ」という喜びの念を抱くとしましょう。そういう思いを得たら、みなさんはどうしますか。おそらくたいていの人は、その映画を何らかの仕方でもう一度見る機会を持つでしょう。「…」何か魅力的なものと出会うという出来事は「…」ひと言で言えば「出会い続けることのできるものと出会う」ということです。「…」折に触れて反芻しつつ、その時その時の人生の歩みと結び付けて理解し直しながら、その人と出会い続けていくというような経験は、比較的多くの人が持っているのではないでしょうか。

100分de名著 アリストテレス ニコマコス倫理学  山本芳久

そうか!私は進撃の巨人という出会い続けられる作品に出会ったんだ!そして、今新しく出会い直しているから初めて観た時とは違う気持ちになっているんだ!と、すとんと腑に落ちた。そして、これからの人生でも進撃の巨人に折に触れて出会い続けて行こうと思うことができた。

神様視点で寂しいとか思ってたのも最初だけで、結末を知ったからこそ理解が深まることも多く、あっと言う間に神様視点は忘れて普通に物語にのめりこんでいた。

人類 VS 巨人

超大型巨人の襲撃を受けて、ウォールマリアが破壊されエレン、アルミン、ミカサの3人が訓練兵に志願し、ライナー、ベルトルト、そしてアニたち含め104期訓練兵とじゃれ合う姿は懐かしくも物悲しい気持ちがした。そして、トロスト区での超大型巨人と鎧の巨人の再来による突然の実践デビュー。この時の、ピクシスとエレンのやりとりが印象的だった。

ピクシス「巨人に地上を支配される前、人類は「…」果てのない殺し合いを続けていたと言われておる。その時に誰かが言ったそうな 『もし人類以外の強大な敵が現れたら、人類は一丸となり争いをやめるだろう』と。おぬしはどう思うかな。」
エレン「「…」それはずいぶんとのんきですね。あくびがでます。」
ピクシス 「お主もわしと同じで、品性がひん曲がっておるな。
エレン「その強大な敵にここまで追いつめられても、ひとつになったとは言い難い状況なので。」

アニメ進撃の巨人 トロスト区攻防戦⑦ より

これに私は衝撃を受けた。世界中で争いが起こっていて、世界で全然仲良くできていないこの状況を解決するには、世界の敵として宇宙人に攻め込まれるしかないだろうなと思ってた。けれど、そんなことで結束できるほどシンプルに世界はできてないな、この会話で納得してしまった。

また、アルミンの切れ者の印象が前半の頃はあんまりなかったのだけど、改めて見返すと女型の巨人に襲われたときのちょっとした反応からアニを疑ったりする描写がきちんとあって、アルミンってエレンとミカサが言うように昔からすごいやつだったんだなという印象を持った。そんなアルミンがより切れ者だなと思ったのが、エルヴィン団長の第57回壁外調査で死者が多数出ている状況についてジャンと会話してるところにもあった。

ジャン「(女型の巨人を捕まえるためのエルヴィンの作戦で多数の兵士が犠牲になったことは)正しいとは言えないだろう「…」」
アルミン「間違っていないと思う「…」100人の仲間の命と壁の中の人類の命。団長は選んだんだ。100人の仲間の命を切り捨てることを選んだ。「…」何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人はきっと大事なものを捨てることができる人だ。「…」人間性をも捨て去ることができる人のことだ。何も捨てることができない人に何も変えることは出来ないだろう。」

アニメ進撃の巨人 エルヴィン・スミス より

ジャンがエルヴィンの手腕を疑っているのに対して、アルミンがこんなことを言っていた。人間性を捨てられる人とは、つまり悪魔のことだと思う。これは実はキーワードのひとつだと思っている。この後アルミンはことあるごとにエレンに対して、覚悟して悪魔になれ的なことを言っていた。これが最終回のエレンとアルミンが会話する中で、僕も世界を滅ぼした共犯者だという発言につながっていると思う。

壁の中の人類での争い

人類同士の争いはマーレ編からの印象が強くて、壁の中でもエレンという巨人を中心に争ってた話を忘れてた。壁の中でも調査兵団のメンバーは、ケニー率いる中央憲兵と殺しあう経験をさせられてた。脅威なのか希望なのか判断の難しいエレンの扱いは争いの火種であった。

シャーディス教官は最期がイケメンすぎて最高なんだけど、その人間臭さを改めて感じたのがウォールマリア奪還作戦の前に語る、エレンの父との出会いからウォールマリアの壁に穴が開いた日の話だった。エレンの父親であるグリシャと比べて自分は特別だと思ってたけど、全然特別じゃないと気づいて、エレンの母カルラに当たり散らす。そのときのカルラの返答は沁みた。

カルラ「このまま死ぬまで続けるつもりですか?「…」」
シャーディス「なぜ凡人は何もせず死ぬまで生きていられるか分かるか?まず想像力に乏しいからだ。その結果、何もなしえずただ糞を垂らしただけの人生を恥じることもない!偉業を成し遂げること、いや、理解することすら不可能だろう。その僅かな切れ端すら!」
「…」
カルラ「特別じゃなきゃいけないんですか?私はそうは思いませんよ。「…」だって見てくださいよ。こんなにかわいい。だからこの子はもう偉いんです。この世界に生まれて来てくれたんだから。」

アニメ進撃の巨人 傍観者 より

こんな感じの会話をしてていた。この話を聞いて、エレンは巨人という特殊な力を持っている自分は特別な人間だから、何か特別なことを為さなければならないのに、何もできていないと自責の念に駆られていた気持ちから少し解放された感じになっていた。でもすぐに、また地獄に叩き落されるんだけどね…。そして、この後 壁の中の巨人を駆逐してしまって、ある意味人生の目的を達成した風のエレンのこの発言もまた衝撃だったなぁ。

エレン「(海を見ながら)向こうにいる敵みんな殺せば、俺たち自由になれるのか?

アニメ進撃の巨人 壁の向こう側

おいおいとんでもないセリフを主人公が吐いたぞ!この先どうなるんだという不穏なところでこのシーズンは終了。リアルタイムで観ていたときは、このあとどんな展開になるのか全く想像できずに放心したのを覚えている。

壁内人類 VS 壁外人類

マーレ編が始まったとき、初めて観たときは録画するアニメを間違えたんじゃないかと思ってしまった。エレンも、ミカサも、アルミンも全然出てこないから、どこの何の話だろうかと思っていると、ライナーが出てきてそっち側の話なのねとなった。

マーレ編は友達想いだったはずの少年が人類大虐殺を実行に移すまでを外から見ている感じで、エレンの心情描写がほとんどなくなっている。ときたま挿入されるルベリオ襲撃前の話で、これまでのよく知っているエレンを思い出させることで、何がどうなってこうなってるんだっていう、ミカサやアルミン、ジャンたちと同じ目線でエレンの心を推察する形になっている…。完全にラスボスの描かれ方じゃん。いろいろあって、こうなってしまったラスボスじゃん。実際ラスボスだったんんだけど…。

地ならし阻止作戦

リアルタイムで観てたときは、調査兵団メンバーが人類虐殺をとめようとするのは、やっぱり主人公側のメンバーには正義の味方であってほしいからかなという思いがあった。けれど、改めて振り返ると、調査兵団のメンバーが世界の人類を守ろうとした下地がきちんと描かれていた。それは、壁外調査としてマーレの視察を行い、海の外にも同じように人類が生活しているということを知っていたからなんだということが分かった。

地ならしの阻止において、最大の障壁となったのがフロックだった。フロックはウォールマリア奪還作戦で新兵を巨人に突撃させたエルヴィンを悪魔といい、平和のためには悪魔を復活させる必要があると言っていた。そして、フロックはルベリオを襲撃したエレンのことも悪魔と言っていた。ウォールマリア奪還作戦での悪魔のようなエルヴィンを見てから、平和のためには悪魔が必要だと思い、エレンという悪魔が地ならしを完遂するのを見届けるため最後までその信念を貫き通した。このフロックの行動も決して間違いではないと思う。エルディア人としての立場を考えると、そう行動して当たり前ですらあると思う。

このときのアニメのエンディングは改めて聞くと、世界に対するエレンの気持ちでもあり、”正しさ”とは何かということを強く問いかけてくる気がした。

その目を閉じて触れてみれば
同じ形 同じ体温の悪魔
「…」
間違いだとしても疑ったりしない
正しさとは自分のこと強く信じることだ

ヒグチアイ「悪魔の子」より

地ならし阻止後の世界

ジャンの「エレンを…エレンを…殺そう…」が辛すぎて泣ける。一気観で振り返ったことで、調査兵団メンバーとの思いでが鮮明に残っているので、仲間を殺そうと決意するみんなの気持ちが辛すぎてマジで何度観ても泣けてくるし、この文字を書いているだけで泣きそうになる。そして、ついにミカサの一撃でエレンにとどめが刺されると、エレンの真意がアルミンとの対話で描かれる…。本当にこの描き方が秀逸だったなと思う。エレンの葛藤する気持ちがずっと描かれていたら、マーレ側のライナーたちの気持ちにこれほど寄り添うことはできなかっただろうなと思う。気持ちを描かないことで得体のしれない悪魔のようにエレンが見えるようになっていた。

そして最後のヒストリアの手紙は現実を生きる私たち宛なんじゃないかという気がした。まさにこれは、巨人のいない世界で争っている私たちのことかなのではないか。

巨人がいなくなっても争いはなくならない「…」
この結果はエレンだけの選択ではありません
私たちの選択がもたらした結果がこの世界なのです
私たちは戦わなくてはなりません
これ以上戦わないためいに「…」
彼が望もうと望むまいと私たちは託されました
残された猶予をどう生きるか
この巨人のいない世界を

アニメ進撃の巨人 完結編後編 ヒストリアの手紙 より

物語から感じたこと

事実はあくまでも事実なんだな。その事実をどう解釈するかは人で、それが行動につながるんだなぁと思う。エレンは人類虐殺の首謀者であるというのは事実だけど、その事実だけではエレンの意図は見えてこない。進撃の巨人は物語だから、エレンの言い分もアルミンを通して語られる。だから、全体を通して観た人は、エレンが単なる殺戮者とは思わないと思う。やったことの残虐性と、それを実行した人物の人間性は必ずしもイコールではないということ。行為と人格は関係ないという当たり前だけど、見過ごしがちなことに改めて気付かされた気がした。

また、エレンとライナーが対照的な描かれ方をするのはもちろんだけれど、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイにハンジにガビにフロックに…あげるときりがないくらい登場する全てのキャラクターもそれぞれに葛藤していて、その葛藤を誰かに語る場面がある。みんな同じ時代の同じ状況に遭遇しているのだけれど、それぞれの立場によって考え方も行動の仕方も異なることが伝わってくる。同じ状況でも立場によって感じ方も違えば、それによって起こす行動も全然違うということもまざまざと見せつけられた。

そして、異文化理解ってこういうことかなと思ったのがガビの変化。パラディ島の住人を悪魔だと教えられて、殺すのが正義と信じて疑わなかった少女が、パラディ島の人々との交流で、悪魔が人間であることに気づき葛藤する姿。これはガビにとって革命的なことだったと思う。異文化の理解には、本気のコミュニケーションしかないのかなと思った。

ヒストリアの手紙とアルミンの「調査兵団は夢見がちであきらめの悪い連中だ」で厳しくも明るい未来がありそうなラストからの、エンディングでの9.11を彷彿とさせるシーン。やはり人間は争いをやめられないという暗示なのだろうか?と考えていたときに録画していたNHKスペシャルのヒューマンエイジを観ていて気になるコメントがあった。

名古屋大学 准教授 河江氏のコメント
「(争いがおこった後に)もう一度 戻そうとするシステム「…」
そういった戻すシステムを作る努力をするのが良いんじゃないか」

NHKスペシャル ヒューマンエイジ 第二集 戦争 より 

人は人である限り争いをやめることはできないのかもしれないけれど、それでも協力して仲良くしようとする努力をするからこそ人なのかもしれないなと思った。そう簡単に歴史に学ぶこともなく同じような過ちを何度も繰り返すかもしれないけれど、そのたびに立ち上がり努力をしていくこと、それがあのラストで伝えたかったのかなと思うことにした。

物語るというチカラで私たちは何を思うのか。「私たちはまだ話し合ってない」どんなに困難でも我々人類は話し合う努力をやめてはいけないのだろう。

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