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貴重な平日休暇日に日本のヤバさを語る。

元々このnoteを始めたきっかけは、人知れず自分の自叙伝のようなものを文字に起こしてみようと思ったから。以前からいつかそれがしたくて、生まれて50年を機に本気出して始めてみようと。

が、しかし、未だそれは始まらず、、、また、今思うままに書こうとしている。

今日は、お仕事がお休みだった。平日の休みは保育士にとってはとても貴重なもの。保育園に勤める前は、シフト制の職場だったので、平日の都内散策、喫茶店巡りが私の何よりの楽しみだった。今日は、都内で働く新社会人になった息子に届け物をすることを言い訳に、久しぶりにビジネス街に行って、好きな喫茶店をハシゴして来た。

その合間にランチタイムに合わせて、虎ノ門にある息子の会社まで出向いた。すっかり社会人となって、都内にひとり立ちした息子にはなかなか会えないので、嬉しかったと同時に誇らしかった。

息子とはよく言葉を交わす。その度に刺激を受ける。

バブル時代なんて知らない息子世代は、ゆとり世代なんて言われた時期もあったけれど、そんなの誰が決めたんだろう。小学校の指導要領にゆとりを持たせることを決めたのは大人なのに、その大人達は若者をゆとり世代と言って、甘いだと緩いだの頑張りが足りないだの弱いだの・・・。

何だかおかしい。

私は息子達を育てながら、息子達を通じて時代の流れを見ていた。

ここ20年の時代の変化は著しく、これから息子達の世代が大人になった時、どんな社会で生きて行くのだろうと思うからこそ問題意識が芽生えた。

今、日本には色々な問題があって、バブル時代に最前線で働いていた世代の人達の価値観にはない「ヤバさ」がある。企業にしてもそう、福祉にしてもそう、島国ニッポンは、割と今、かなり今、ヤバい状況にある。

それは、バブルの頃の良き時代を知っている私より上の世代には、こんな風に日本が窮地に立たされる日が来る事は、考えもしなかったかもしれない。

人口の減少、少子高齢化、財政問題、核家族化、都市集中化、地方の過疎化、心の豊かさはどこへ、偏差値教育の末に何が起こったか、そして貧富の格差の拡大などなど。

一つ一つについて記事を書くことも出来そうだけど、あいにくその余裕は今はない。けれど、その内書くかも知れない。


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私は、小学校の先生に憧れがあったので、大学は初等教育科に進んだ。そこで、小学校の先生と幼稚園の先生の資格を取得した。けれど、1ヶ月の小学校での教育実習で、自分のキャパがもう分かっていたのだろう。私は一つ一つ中途半端に出来ない性格で、毎日夜遅くまで指導案を書いて過ごした。

これが仕事になれば、私は自分の子育てが出来なくなる、と察した。初等教育を学ぶことで、自分の子育てにもまた大きな楽しみがあった。当時、指導教諭だった先生にも「先生に向いている」と言われはしたけれど、その先生もそうだったように、一度社会に出てから教師になった方が良い、とも教わった。他の先生は、教育実習の翌月にある採用試験、是非とも頑張ってね!!と激励を頂いていたけれど・・・。

その後私は、旧松下電工(株)現パナソニックに就職した。それから結婚し、仕事を辞めて子育てに突入した。そこから20年以上、子どもに関係する仕事歴はない。子育てそのものが楽しかった。

けれど、子育てに終わりが見えて来た頃、もうその時はひとり親になっていたのだけど(この辺りはいつか自叙伝で・・・)、元夫に「自分が一番やりたい仕事をするように」と言われ、人生でやり残したことを振り返った時、やはりそれは、社会の中の弱い立場にある子どもに寄り添うことだった。


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私は、10歳で父親を亡くし、当時の表現でいう「母子家庭」で育ったため、時々怖かった。これでお母さんもいなくなったら、私は施設で暮らすのかな?ふたり居るはずの親が、突然あっけなく一人になり、人の死が本当に目の前であっけなくなくなるのを目の当たりにした時、心細さしかなかった。

母は一生懸命に私と弟を育ててくれたけど、やっぱり子どもだった私は、社会の中で自分は弱者だと、そんな言葉は具体的に出ないにしても、心の何処かでそう思っていた。母の一生懸命さが分かるだけに、長女である私が母を困らせる訳にはいかなかったから、そっと泣きたい気持ちを封印し、前に進もうとした。父が亡くなって3ヶ月後には、母の地元へ引越した為、それまで慣れ親しんだ土地や小学校から遠く離れ、別の小学校へ転校した。

当時は気付くはずもないが、前の投稿でも書いたように私はHSPの特徴があるのだから、当然のようにその急激な生活の変化に心はついていかなかった。


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長い前置きになったけれど、そんな経験からだろうと思う。子どもの心を大切にしたい気持ちが強い大人になった。社会的養護を徹底的に勉強し(実はこれは松下電工時代にもやっていたのだけれど)児童養護施設の指導員になった。けれど、現実は厳しくメンタルを壊し、まだ下の息子の子育ても残っていたので退職。そして息子の大学受験勉強と同じ時期に私も保育士資格試験を受けることにした。何故なら一時保護所での求人を見たら、保育士資格が必要とあったから。

児童養護施設で暮らす当事者とも何人か知り合いになって、ささやかながら今でも時々やり取りをしている。18歳で退所しなければならない現状がどれだけ当事者の子ども達に重くのしかかる事か、我が子達の年齢と重ねながら感じて来た。

今は、認可保育園で働いている。面接の時、「何故、保育士になろうとおもったのですか?」と聞かれ、「子育て支援がしたいからです。」と答えたら、園長先生は、そのように答えた人は初めてだと仰った。。

色々な家庭環境がある。一人一人の子どもの「泣き」の背景には、様々な理由がある。乳児も幼児もまだまだ自分の表現の仕方が上手ではない子ども。そして、長い人生に於いて、最もと言って良い程大切な時期。そんな時期に心ない大人の何気ない対応(保護者であったり、保育士であったり)で、大切な子どもの心の成長が歪んでしまわないようにと願う。

今の保育は、子どもだけが対象ではない。保護者支援も含まれる。核家族化、都市集中化により、孤独な子育てをしている親がいる現代に於いて、保護者の子育てに伴走する存在が必要。発達障害も10人に1人と言われる時代。その事によって、保護者が子育てがしにくい事から虐待に走ると言うこともある。児童養護施設に入所する子どもには、発達障害の子どもも多い。虐待の問題もよくニュースになるけれど、どこか遠い国で行われている悲劇ではない。誰にでもその可能性はゼロではない。

私は、被虐待児を減らしたい。目に見えない子どもの心の傷を減らしたい。


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最初にゆとり世代の話をしたけれど、まさにその世代の人達が今は20代の社会人となっている。そして、バブル時代も知らないその年代の若者達にとって、日本はヤバい、のは、普通のことなのだ。子どもの頃に見ていた景色が私達の世代のそれとは全く違う。そして、問題意識を持って、日本を良くしよう!!と動き出すのも若者達。

次世代を担う、そして高齢者を経済的に支える若者を、そしてこれから育つ今はまだ幼い子ども達を大切にしない日本はこの先どうなる?


ヤバさしかないでしょう。


ランチしている時に息子に言った。「あんたは大変な時代に生まれてしまったんやな。」

息子は言った。「逆にラッキーやと思うで!変革の時やからな」とエネルギッシュに言い放った。

頼もしく育って、知らない内に親をやすやすと越えて行ったのを感じている。私も負けては居られない。


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上手くまとめられなかったけれど、平日の貴重な休暇に喫茶店をハシゴし、そんな事を考えていました。

長くなりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました。






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