母娘のテーマ〜私とはるちゃんとの場合
親子のテーマは、きっと永遠に尽きなくて、
それぞれに形があって正解はない。
けれど、子どもが母親に愛されたいと言う気持ちを持つのは、
動物的本能であり生きて行くのに必要な感情だろう。
動物の赤ちゃんは可愛がられる為に可愛く生まれる。
人間にしても同じだろう。
母性本能に関しては、年々、進化しているのか退化しているのか
分からないような社会事情もあるのは危惧されるところだけれど。
子どもが親を求めるのは、社会で生きて行くにはまだ非力で、
右も左も分からず、生きていくための食を自分で確保することも出来ないから。
それ以上に心の拠り所を感じ、安心することでポジディブに視野を拡げることが出来る。
自分と母との関係を考えた時、いつもつまづくのがその点で、
私の母はとても愛情深い人だし、優しい人だけれども、
少々、心配症過ぎる節があり、私は自由を奪われているような感覚になることが多かったり、言葉のチョイスが強過ぎる時があるので、単純に悲しんだり傷付いたりする事がある。
相手の言動に敏感な私は母の機嫌に左右されるところがある。
これは現時点での話でもあり、過去に於いてもそうだった。
家を出るまで親の顔色を伺って暮らしたのは、私の繊細な性格もあるが、
母親が思う私で居ないと、ご機嫌が悪くなって面倒だからだ。
私のことを「考え過ぎ」とか「心配しても仕方がない」とか言っている母の方が、よっぽど考え過ぎていると思うこともある。
それが分かっているので今の私は、心の中で母を批判したり責めることは少なくなって来たけれど、私の生きづらさはいつもそこにあったと言える。
私が思っているのと同じように親も私との距離感を上手く掴めないでいるのだろう。とは言え、私よりも割り切りが強いし、気持ちも強いので、私のように神経を使って疲れるより、開き直っていることの方が多いのは救われる点かもしれない。
時々、相手が何を考えているのか分からない。
そう言ったことは、親子であっても夫婦であっても、親友であっても恋人であっても
よく話す、出来れば目と目を合わせて、をやるのが一番いいような気がする。でも時に、その条件が叶わない状況に陥るので、悶々としてしまうのだろう。
気持ちのすれ違いはとても悲しいことだ。相手を思う時にそれはしばしば深みにハマる。大切な人だからこそのジレンマなのだろう。
そんな時は、そっと時を経て、何事もなかったかのように振る舞えるといいな。
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