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【第三回】チャップリンが生きた道~放浪紳士の誕生秘話

チャップリンの銀幕デビュー作は、1914年2月2日公開の短編サイレント映画「成功争ひ」である。本作でのチャップリンは放浪者の扮装ではなく、フロックコートにシルクハットを被り、どじょう髭姿のペテン師役で登場した。

「成功争ひ」のチャップリン(右)

「成功争ひ」では初登場ということもあり、いつもの放浪者姿のチャップリンはまだ誕生していなかった。放浪者チャップリンが誕生したのは、出演作2本目の1914年公開「メイベルのおかしな災難」の撮影中だった。チャップリンはセネットから、急遽おもしろいメイクをするように言われ、衣裳部屋に行くまでの間に放浪者の扮装を思いついた。

チャップリンは最初からアイデアを持っているわけではなかった。さらにセネットから若すぎることを指摘され、口ひげをつけて老けているように見せたという。

だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである

引用:チャップリンの自伝

チャップリンの狙いは大成功だった。デビュー数週間で人気者になったチャップリンは、念願だった監督を自分で行いたいとセネットを説得した。

そして、1914年4月20日公開の「恋の二十分」で監督デビューを果たした。映画デビューからわずか2ヶ月で監督に就任したチャップリンは、1週間に1本というペースで短編映画を製作した。

この時期のチャップリンは映画技術をどんどん磨いていった。「いちばん張りのあったすばらしい時期」と話すほどである。

デビュー年である1914年の時点で36本の作品に出演し、チャップリンの人気はうなぎ上り。途中で女優のメイベル・ノーマンドやセネットとの衝突により一時解雇されそうになったが、ニューヨークのキーストン社の本社から「チャップリンの映画が大当たりしているから、もっと作品を送れ」と、電報が届いたことにより解雇は免れた。

しかし、同年にセネットと契約更新の話をしたが、チャップリンの要求(週給1000ドル)は断られ契約更新の話はなくなった。

その後、チャップリンは週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたエッサネイ社に移籍した。ここで、チャップリン映画を語る上で欠かせないエドナ・パーヴァイアンスと出会う。

エドナ・パーヴァイアンス

チャップリンはエドナについて「可愛いなどという程度ではなく、まったく美しかった」と話している。チャップリンも惚れ惚れするほどの美貌の持ち主だったエドナだが、喜劇には不向きだと考えてた。最終的に、エドナは採用され8年間で30本以上の作品に出演している。(エドナについては今度詳しく書いていきたいので割愛。)

エッサネイ社に移籍してからエドナの出会いの他に、放浪者のイメージを変えたことにより、さらにチャップリンは前進していく。

キーストン社時代のチャップリンのキャラクター像は少々残酷でセクハラまがいな描写が多かったが、エッサネイ社への移籍を機にロマンチストで優しい放浪紳士へと変化した。同時に、ドタバタ劇に孤独というスパイスを加えることで、チャップリンの愛嬌と健気さを引き立てている。

穏やかな放浪紳士の初登場は1915年の「The Tramp」である。(邦題「チャップリンの失恋」)

キャラクターの変化により、チャップリン特有の「悲劇を喜劇に見せる」技法を編み出している。「The Tramp」の儚く美しいラストシーンは印象的だ。

1915年の時点でチャップリンの人気はさらに上昇。アメリカでは「チャップリンはここにいます」と看板を出すと劇場が満席になったという。人気はアメリカにとどまらず、世界的な有名スターになった。

1915年12月にエッサネイ社との契約が切れ、さらに高額なギャラを提示してきたミューチュアル社と契約を結び移籍した。


私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし、私の笑いが、誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。

チャールズ・チャップリン


ー続く


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