098 茶の湯 細川三斎流

細川三斎流とは
三尋木崇の”茶の湯”感を作っている細川三斎流とは何か?
15代家元の高樋宗其が記していますので、少し古いですが引用します。
現在は亀井宗玄(17代:2022年4月時点)が家元となり流派の教えを受けています。
 
流祖忠興は細川幽斎の嫡男従三位参議越中守豊前三十五万九千六百石小倉の領主となる。寛永九年(一六三二)肥後及豊前三郡五十四万石となり、熊本の城主となる。元侯爵、細川家はその後裔である。
元和六年(一六二〇)剃髪して三斎、又黙庵とも号す。古溪、玉甫、清巌和尚に参禅。茶は利休に学び、七哲の一人である。利休が秀吉の怒りにふれ、堺に下るとき古田織部と共に淀まで見送る。
正保二年(一六四五)十二月二日、熊本県八代に於いて薨ず(八十三歳)。歯骨を京都柴野大徳寺高桐院の石灯籠の下に葬る。その石灯籠は利休所持の物であったが三斎へ与へたもので墓碑に代う。墓銘に松向軒三斎宗立と題す。松向さまと言うのは北野の大茶会の茶室に扁額したためである。
茶は一尾伊織(姓は久我。名は道尚、宗碩、又一庵徹斎と号し、後に照庵と号す。三斎に学び、花筒、茶物を造り世人その技を大いに賞す。元禄二年(一六八九)三月江戸にて歿す。年九十一歳)に伝え当代(15代高樋宗其※昭和49年時)に至る。
徳川末期、江戸の人荒井一掌(通称三郎兵衛閑市庵と称し、三佗、古帆、宗音の号あり。)白隠禅師に参禅し松平不昧公に愛され文化元年八月八日(一八〇四)に歿す。七十八歳)雲州松平不昧公に招かれ同地方に三斎流を広めただいまの雲州三斎流の祖となる。
当代高樋宗其は名を留子。聴松庵と号す。大正十五年十二歳にして芦原蘆舟に指示す。昭和二十九年蘆州隠居によって家元を継ぎ今日に至る(当時)。聴松庵の号は京都柴野大徳寺義山老子より賜る。
細川流盆石では眉雪と号す。また香道は御家流吉田露香に師事する。/ 高樋宗其 記
 
 
2018年、細川三斎に関係する3流派、「肥後古流」「三斎流」「細川三斎流」で茶会を行った際にまとめた図です。


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