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「対話型鑑賞」が面白かった話!前編

「対話型鑑賞」の世界


POOLO活動とは別に、最近体験してすごく刺激的だった、
「対話型鑑賞」について、アウトプットがてらシェアしてみようと思います。
POOLOメンバーも好きな人多いんじゃないかな!


先日、とあるきっかけがあり、
ACOP / エイコップ(Art Communication Project)
というプログラムを受講しました。

公式webサイトによると、
ACOPとは…

「みる・考える・話す・聴く」の4つを基本とした対話型鑑賞プログラムです。美術史等の知識だけに偏らず、鑑賞者同士のコミュニケーションを通して、美術作品を読み解いていく鑑賞方法を提唱しています。

ACOP アート・コミュニケーション研究センター|京都芸術大学

だそう。

なんのこっちゃ?という感じですが、すごくざっくり言うと
「アートを通してコミュニケーションについて学ぼう」
といった趣旨の研修プログラムでした。

アート「について」学ぶのではなく、
アート「を通して」学ぶというのがポイントですね。

最近では、この対話型鑑賞を題材にした企業研修やイベントなんかも増えてきているそう。

私は偶然その時期、
【目の見えない白鳥さんとアートを見にいく】川内有緒
という本を読んでいて、
この本に出てくる、「全盲の美術鑑賞者」白鳥さんとその仲間たちが
していることがまさにこの対話型鑑賞と重なるもので
(厳密にはいろんな種類があるみたいですが)
リアル体験できるんだ!と思って参加しました。

実際に参加してみて、
アートに詳しい人も、見方・考え方をより深められるし
アートに詳しくない人でも、全く問題なく、
(というより詳しくない人の方がむしろ)
発見や学びが多いのではと思いました。

前置きが長くなりましたがここから講義の中で印象的だったシーンを
一部かいつまんで書いていきます。


「モナリザ」って知ってる?

この日の講義を担当してくださったのは、
京都芸術大学の、伊達 隆洋先生という方。
教員紹介|大学案内 |京都芸術大学 (kyoto-art.ac.jp)


先生と受講者の対話を交えつつ、プログラムが進んでいきます。


伊達先生「この絵知ってますか?」


……私を含め全員が、「もちろん知っている」と思うわけです。


Aさん「モナリザです」

伊達先生「そうですね。ほかに知っていることはありますか?」

Bさん「レオナルドダヴィンチが描いた作品です」
Cさん「ルーブル美術館に所蔵されてます」

そんな答えがいくつか出て、おそらく私含めた全員が
もう知ってることないな…となったところで質問は終了。

伊達先生「今皆さんが挙げてくださった情報
(絵画のタイトル・作者・所蔵先・描かれた時代・・・)は、
実は絵画『そのもの』の情報ではなく
その絵画に『まつわる』情報なんです。」


絵画「そのもの」の情報とは例えば、

・この絵がなぜ描かれたのか?
・描かれている女性は誰なのか?
・彼女は何を思っているのか?
といったこと。確かに言われてみればそうだ。

そういう、絵画そのものに関する情報は何一つ知らなくても、
それにまつわる周辺的な知識を持っていることで
私たちはつい「モナリザでしょ」「知ってるよ」って思ってしまうのです。

自分自身を顧みても、まさにその通りでした。

そして、伊達先生曰く、
人は、一度「知っている」と思った物事を注意深く見なくなるのだそう。


見えているけど見ていない私たち


続いて、
伊達先生「そういえば皆さん、モナリザは右手と左手、どちらを上にしてたか覚えていますか?」

私の頭の中は、
「右な気もするし左な気もする。というかどんな手だっけ?
そもそも組んでませんとかいうひっかけ…!?」
と思うくらい全然分かりませんでした。

けどちゃんと組んでます(笑)
みなさんも予想してさっきの絵を見てみてください。


この一連のモナリザの話から分かるのは、

人は、当たり前に「知っている」と思う事も、意外と「知らない」し、
視覚的には「見えている」ものも、意外と「見ていない」という事です。

それもそのはず、
現代人は日々大量の情報に触れています。
(先日の八木先生の講座でも、現代人の情報接触量は江戸時代の1年分、
平安時代の一生分、なんてお話もありましたね。)

全ての物事を隅々まで観察していたら、脳のメモリがどうやったって足りません。

私たちはたいていそういう物事を4文字の「モナリザ」といった
文字情報に変換して頭の中にしまい、「知っている」ことにするわけです。



見えない人にアートを伝える

続いてのパートでは、2人1組のペアになって、
1人は目を伏せた状態で、1人はアート作品を見て、
パートナーの脳内により鮮明にアート作品を浮かび上がらせるようにに説明します。

これがまたとっても難しい!

A「左奥の方にベッドがあってその上に大きいくしがある。髪とかすやつ。」
B『大きいってどのくらい?ベッドが小さいんじゃなくて、くしが大きいの?』
A「ブラシが天井に付くくらいだから…」
B『あ、室内なんだね!』

A「男の子が目を瞑ってる絵、たぶん亡くなってる」
B『なんで亡くなってるって思うの?』
A「顔色が…」
B『悪い?』
A「うん、肌の色が、普通じゃない…」

といった感じで試行錯誤しているうちにあっという間にタイムアップ。
終わってみて感想を言い合うと、


「こんな写実的な絵だったんだ」
「横長の絵をイメージしてたけど縦長だ!」
「視点は真横からだと思ってたけど斜め上なんだ」
→何が書かれているかの前に、絵画の大前提の部分を意外と話せていなかったり。

「くしって聞いてヘアブラシを想像してたけどコームの方か」
→同じ単語でもイメージするものが違ったり


「え、これって男の子?女性にも見えない?」
→同じものを見ても受ける印象が違ったり




普段いかに、視覚情報を共有していることに頼っていたか、
そしてたとえ同じものを見てたとしても、
人の感じ方ってこんなにも違うものなんだ
というのを実感しました。


そして本筋とはズレるかもしれないけど、
最近あまりよろしくないとされる「(普通の)肌色」とかの表現も、
こういう場ではついつい使ってしまいたくなるのです。
理由はシンプルで、その伝え方が「手っ取り早くて楽」だから。

(この感覚は、若者に対して「おニャン子クラブみたいなものだよ~」
みたいな例え方をしてくる上の世代の行動ともどこか似てるなと、ふと感じました。笑)

けど当然、多様な価値観の中でそういった発言は
時に相手にはわかりづらかったり、
時に人を傷つけてしまうのも事実。

「自分が」分かりやすい、伝えやすい表現ではなくて
多少言語化の手間がかかったとしても、
「相手が」受け取りやすい、その場に適した表現を模索していきたいなと思いました。


さてさて、かなり長くなってしまったので一旦前編は終了して、
諸々のプログラムを経て私が学んだことを
後編に書きたいと思います!

最後まで読んでくれてありがとうございました!!^^



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