44歳。未だくすぶり続けるトラウマ。

最初に断っておくが、ここに「伝えたいこと」は書いていない。あくまで自身の心の整理のための文章であることは前置きしておく。

昨日1年半年ぶりに女友達4人で会食した。1年半もあれば彼氏ができていたり、できた彼氏と別れていたり、離婚していたり、キャリアアップしていたり。まあ色々ある。話はつきず楽しい時間はあっという間に過ぎて。また会うことを約束して岐路についた。そして毎度のことだが、1人になった途端、まさに「虚しさに襲われる」。

独りよがりな哀愁だが、わたしの家族の思い出は、既に亡くなっているがアルコール依存症の父親の暴力と、親子2代に渡る毒母からの執拗な攻撃。そんな環境で独特な成長を遂げた姉による蔑みとで構成されている。彼らの思い出を語るのは今でも酷く重苦しい。

実際、命の危険を感じるほど過酷な環境ではあったが、運の良いことにわたしには自ら考える力が残っていたため、問題はわたしではなく彼らにあること、距離を置くことが唯一の解決策であるという正解に辿り着くことができた。

また、二十年掛けて、彼らはわたしに人間の愚かさ、卑怯さ、汚らわしさ、無知という罪を教えてくれた。わたしは彼らのお陰で、他人の些細な悪意に敏感になれた。無自覚に他人を利用し洗脳しようとする人間の区別が付くし、無知さが故に他人を傷つけずにはいられない人間が分かるようになった。

そうして20代で家族と絶縁し、紆余曲折を経て何とか30代後半で過去から卒業することが出来た。40代となった今ではずっと豊かになり静かで平穏な暮らしになった。

ただし培われた生きる術のせいで、未だに他人に気を許すことは出来ないし、他人を全く信じられない。常に猜疑心というフィルターを通して他人を見ることが通常運転になってしまった。別にそれ自体は悪くないし役立つ能力ではあるのだが、悲しいのは、友人であっても恋人であっても同じ扱いをしてしまうということだ。

友人が羨ましいとか妬ましいといったことではなく、会話を楽しみながらもお互いの無意識な承認欲求やマウント、嫉妬や羨望や甘えを汲み取ってしまう。そして僅かながら過去のトラウマを思い出して気分が悪くなり、人間そのものを汚らわしいと感じてしまうのだ。そうしてまたある程度の距離を取ってしまう。

誰かに愛されたいとか、心から人を信じてみたいとか、そういう熱量はもうどこかに置いてきてしまったが、自分はそういう人間になったんだと自覚することに哀愁を感じてしまう。今後もわたしは誰かと深い関わりを築くことはないし、これから先も死ぬまでこれは続くのだ、と。圧倒的な孤独を自覚することが哀しい。

仕方がない。すべてを手にすることは出来ないのだ。昔に比べたらずっと平和な暮らしになったじゃないかと言い聞かせる自分がいる。残る数十年を孤独に生きることに何の意味があるのかと問う自分もいる。

そうやって未だにわたしの中でくすぶり続ける火種。忘れた頃に顔を出してはわたしに薄く切り傷をつけていくトラウマ。厄介としか言いようがないが、これは折り合いをつけて付き合うしかないわたしの一部なのだ。蓋をしたり目を背ける必要もない。わたしはまた少し傷ついたという事実を受け止めて、ゆっくり深呼吸したら、さあ、やるべき事をやろう。

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