新千歳空港国際アニメーション映画祭2021①

去年に引き続き、今年も新千歳空港国際アニメーション映画祭のプレビューメンバーを務めました(プレビューメンバーとは、コンペに応募されてきた作品に対して、足切りと評価付けを行う仕事です)。

応募作品の全てに目を通したわけではありませんが、他のプレビューメンバーと比べて自分の足切り基準が厳しくなりすぎないよう、他のメンバーと自分の評価基準を照らし合わせられるように、私に割り振られた作品以外にも可能な限り多くの作品に目を通すようにしていました。だからこそ新千歳のラインナップの洗練具合がよくわかったというか、その年のアニメーションシーンの、カッティングエッジが捉えられたセレクションであることを実感しました。

毎年毎年、今年読んだ/観たもののベスト集的な記事を書き始めては忙しさのために挫折するというのを繰り返しているので、今年は新千歳で印象に残った作品について書くことで、その代わりとしたいと思ます。

仕事の隙間時間くらいしか時間が取れない&とりあえずnoteを動かしたいという極々身勝手な事情から、一記事で扱う作品数は4〜6作品になると思います。

記事の性質上、扱う作品および作家の過去作についてのネタバレが含まれていますので、その点ご了承ください。


Špela Čadež「Steakhouse」

私的にŠpela Čadež監督の作品は、空間の操作に特徴があると思います。

例えばスペラ監督の出世作である「BOLES」では、孤独な物書きの部屋がイマジナリーな空間と接続します。その空間には一人の女性(結末部でこの女性はアイディアを与える女神のような存在であることが示唆されます)が住んでいるのですが、このイマジナリーな空間は物書きの部屋から覗き見られるのみで、例えば現状から逃れるための外部や、目指すべき行き先といった意味を持っていません。むしろこの作品は、この空間と女性の存在によって、既存の物書きの部屋の方が変容していくことに焦点が当てられています。

変容と言ってもそれは物質的な変化ではありません。物書きの部屋はあいも変わらず狭いワンルームのままですが、女性の出現によって、そこは物書きが霊感を得るに至るまでのドラマが演じられるメタフォリカルな舞台となります。具体的で物質的な部屋が、同時に象徴的な場となることによって、部屋の見え方が多重化するのです。

ザグレブでグランプリを獲得した代表作「NIGHTHAWK」においても、アナグマの酩酊した意識を描くことで、アナグマの運転する車が走る道路が単なる二車線道路であると同時に、サスペンスの空間にもなるという多重性が生まれています。さらに言えば作品の大部分を占める運転のシークエンスはアナグマの夢であることが示唆されており、場面それ自体の見え方も揺れ動いています。また、道端で泥酔し夢を見ているアナグマが、他の人々から蔑ろにされるという状況の見え方すらも複雑化されています。

スペラ監督の作品は既にある空間の見方や状況が組み替えられることで、空間が多重化することに特徴があると私は考えています。これは実際に今・ここの空間の形が変わるメタモルフォーゼとも違います。「BOLES」の冒頭では煙突から出た煙に、「NIGHTHAWK」では酩酊した視界にかかるモヤに象徴されるように、空間が物質的に変わるというよりも、その捉えられ方やあり方に何かフィルターがかかることで屈折し、それを見る仕方が揺れ動くという方が正確でしょう(念のため付言しておけば、このような見方をした時、監督の初期作、例えば2007年製作の「Lovesick」などはいささかナイーブに見えてしまいます。「BOLES」以前の作品についてはまた別の語り方が必要かもしれません)。

「Steakhouse」にも「BOLES」と似た煙が現れます。この煙の出現を皮切りに、リアリスティックな空間がメタフォリカルな空間に変容するという操作が行われますが、この作品の特筆すべき点はやはり、このような手法を活かしたテーマの描き方にあるでしょう。

「Steakhouse」の冒頭においては、家でステーキを焼く夫の様子と、仕事先の妻の様子とが交互に描写されます。ここで描かれているのは尋常普通の日常の光景であり、目に付くのは夫のステーキを焼く見事な手際や、美味しそうに焼きあがるステーキといった具体的な細部です。

しかしなかなか帰宅しない妻に業を煮やした夫は、当てつけのようにステーキを焦がし、部屋を煙でいっぱいにします。帰宅した妻は驚き、帰りが遅くなったことを詫びますが、夫は無言を貫き、妻に圧力をかけ続けます。このとき画面は煙に覆われており、冒頭部分とは打って変わって具体的な細部を視認することができなくなります。視認性が下がることで具体性が捨象されたおかげか、ここから先、二人の行動は象徴的なものへと変容します。

夫は丸焦げになったステーキを机に出し、妻はそのステーキを切り分けようとします。しかし手際の悪さに苛立った夫は妻からステーキを奪い取って切り分け、嫌味と当て擦りを述べながら咀嚼します。しばらく夫が咀嚼する様子とそれを眺める妻の様子とが映し出された後、夫は誤って舌を噛み千切ってしまいます。夫が妻に支えられながら部屋を出て行くと、流血を思わせる象徴的な赤ワインと、切り落とされた舌が映されます。

煙に覆われた中で繰り広げられるこの奇妙な食事は、夫の日頃の理不尽さや不合理さ、あるいは家庭における二人の明確な権力関係を、象徴的に表すことを目的としていると言えるでしょう。また、作品内で行われる妻への精神的な加害が、主に舌に関係していること(無言を含めた言葉による圧がけ、食べ物をめぐる理不尽なやりとりなど)から、舌はモラハラを可能にする力のようなもののメタファーとして解することが可能でしょう。

スペラ監督によれば、この作品は閉鎖空間において行われる不可視の精神的暴力を描いたものであり、この不可視なものを可視化するために「NIGHTHAWK」に続き今作でもマルチプレーンを用いたそうです。マルチプレーンとは、並行に複数枚並べられたガラス板に切り絵を乗せることで、平面の素材を前後に配置し、それを上から撮ることでイラストレーションに独特の立体感と奥行きを与える装置です。例えばユーリィ・ノルシュテインはこの装置を使って、過去と現在、虚構と現実といった複数のリアリティを併存させたり、各場面やモチーフのリアリティを操作したりすることを可能にしています(詳しくは土居伸彰『個人的なハーモニー』の第3章をご参照ください)。

スペラ監督は「Steakhouse」におけるマルチプレーンについて、独特な奥行きがイラストレーションに違うものを与え、別の世界にゆっくりと足を踏み入れていくような感覚をもたらすと述べています。目に見える空間の奥に潜む不可視の加害の場に観客を誘うために、マルチプレーンによるリアリティの操作は効果的だと言えるでしょう。さらに「Steakhouse」においては、先述したリアリスティックな空間からメタフォリカルな空間へという操作以上の、より複雑なリアリティの操作が行われています。

夫が舌を切り落としてしまったあと妻が一人で部屋に戻ってくると、窓が開け放たれており、煙がなくなっていました。視認性の低いメタファーの空間から再びリアリスティックな空間へと戻ったわけですが、ここで妻は唐突に夫の舌をステーキにしてお皿に盛り付けてしまいます。そしてこの舌を探す、おそらく医者であろう人物からの電話に対して、妻が「見つからない」と嘘をつくところで作品が終わります。

舌を食べるという行為は、夫への仕返しや力の簒奪という象徴的な意味を持っているように見えますが、同時に舌のステーキは前半のステーキと同様に、具体的な手触りをまざまざと感じさせます。また、この舌自体も可視的なものでありながら、妻が「見つからない」と嘘をつくことで不可視のものになっています。この場面における空間は、リアリスティックかつメタフォリカルな、多重化した空間だと言えるでしょう。

この作品が描く精神的な加害は不可視であるがゆえに、非日常的で象徴的な行為やメタファーによって描かれていますが、しかし加害は現実において確実に存在しているものでもあります。この作品が目指しているのは、単にそのような加害の存在を知らしめることだけではなく、現実の奥に潜む加害を見つけ出すための、視力を養うことのように見えます。スペラ監督が空間を屈折させ、多重化するのは、現実においても今見えているものと、その奥に潜むものとを同時に見つめられるようにするためなのかもしれません。

最後にこの作品のタイトルである「Steakhouse」にも注目してみたいと思います。作中でステーキハウスが現れるのは、作品の前半部、妻が街中でちらりと目をやった場面のみです。そこで目に映るのは看板の「STEAKHOUSE」の文字と、曇りガラス越しにぼんやりと見える店内の様子です。このシーンは夫婦の食事を煙越しに眺める中盤以降の場面と視覚的に類似しています。二枚のステーキ(牛肉と夫の舌肉)が焼かれる夫婦の家、すなわち煙に覆われたメタフォリカルな空間は、ステーキハウスの反復として捉えられるべきでしょう。

ここで注目したいのが、ステーキハウスの中は視認性が低いを通り越してほぼ不可視であるという点です。すると煙に覆われた夫婦の家は、ステーキハウスを反復している以上、不可視のものが可視化された空間だと捉えられます。メタフォリカルな空間が象徴によって可視化するのは精神的な暴力のみならず、ステーキハウスの不可視の部分もなのです。

では、ステーキハウスの何が可視化されているのでしょうか。一つの解釈として可能なのは、肉と血の滴りというカップリングです。夫は舌を噛みちぎった際に口から血をこぼしますが、その直後に赤ワインがこぼれるシーンが挿入されることによって、血の滴りがダメ押しのように強調されています。肉を噛みちぎれば血が滴るという事実は、ステーキを食べる際にできれば忘れていたいことでしょう。あるいは、動物の肉を美味しそうに調理するのと同じ手順でもって人間の舌を調理することも、動物への加害を意識させる狙いがあるのかもしれません。「Steakhouse」はステーキハウスが隠蔽するものを可視化していると解釈したとしても、決して間違いではないように思えます。

ここで強調したいのはメタファーの意味が揺れ動いているということです。考えてみれば、目に見える空間の奥に不可視の何かがあるという思考は陰謀論に似通っています。しかしスペラ監督の作品においてはメタファーが何かを意味しつつも、その意味が常に余剰を抱えています。今見えている世界は屈折して別の姿を見せうるが、その別の姿すらも、また他の可能性に開かれている。スペラ監督の特異性は、不可視の真実を開示することではなく、異なったリアリティ同士を重ね合わせることでリアリティのブレを体験させることにあるでしょう。

個人的にこの作品は、今年最も優れている作品の一つだと思いました。


Anna Budanova「Two Sisters」

Anna Budanova監督の作品については、非常に注意しながら語らなければならないと思っています。

アンナ監督の作品はフォークロワに範をとったストーリーと、プリミティビズムの影響が色濃い絵柄に特徴があります。それゆえ監督の作品は一見すると、西洋近代の目から見た、非西洋性と原始性のナイーブな礼賛にも見えてしまいます。

例えば2016年に新千歳のグランプリを獲得した傑作「Among The Black Waves」は、古代ケルトのセルキー伝説を基にしています。セルキーとは溺れ死んだ死者の魂がアザラシへと姿を変えたもので、このセルキーは陸に上がると、アザラシの毛皮を脱いで人間化すると言われています。

セルキー伝説にはいくつかのバリエーションがありますが、「Among The Black Waves」が基にしているのは、女のセルキーが人間の男によって脱いだ毛皮を隠された挙句、無理やり妻にされ、そのままそれなりに幸せに暮らすも、海への郷愁が捨てきれず、毛皮を被って再び海に戻って行ってしまうというものです。

「Among The Black Waves」のストーリーはこの伝説の通りですが、男性が暮らす寒村の生活と、そこにおけるセルキーの女の浮き方、またセルキーの女たちの魅惑的な動きとを描写することで、男性を文明のメタファーとして、女性を自然的なもののメタファーとして描いているようにも見えます。そこには同時に、男性中心主義的な社会に虐げられる女性という現代への目配せも見ることもできるでしょう。

この作品で気をつけなければならないのは、プリミティブな絵柄の魅力が最も発揮されているのが、セルキーの女たちの自然性や原始性を思わせる、艶やかな動きであるという点です。この作品を女性の原始性を礼賛した作品だと捉えたとしても、決して間違っていないように見えます。もしそうであるならば、この作品はある種のオリエンタリズムに陥っているということになり、作中セルキーの女が振るわれた暴力と同質の暴力、すなわち西洋近代というファロセントリズムの暴力と同じものを、監督がふるっていることになってしまいます(言うまでもなく、グローバル資本主義が全面化した現代において、オリエンタリズムは非西洋世界にルーツを持っていたとしても逃れえないものです)。

とはいえ、ここで一つの補助線を引くことはできます。『自然と文化を越えて』のフィリップ・デスコラによれば、アニミズム的な世界観において、動物というのは毛皮を被った人間という捉えられ方をするそうです。近代人はしばしば衣装や仮面といった表面の奥にこそ、真実や心理があると考えてしまいがちですが、アニミズム的な思考においては、衣装や毛皮といった表面がすなわち身体であるという考え方がされています。すると動物が動物であるということは、近代人が人間という皮膚を持ち、社会的な適切さに合わせて衣装を脱ぎ着し、その都度振る舞いを変えていく行為となんら相違はないということになります。

デスコラの捉えるアニミズムにおいては、動物が動物であることも、人間が人間であることも、魂が他の魂との折衝において、たまたまそのような表面(毛皮・皮膚・衣装……)を必要としたということの結果に過ぎないのです。

ここで押さえておきたいのは、このような思考は自然(動物)/文明(人間)という二項対立のうえで、自然こそ本来的であると考えるものではなく、むしろ自然/文明という二項対立それ自体を無化しているということです。それはすなわち、文明以前の自然やプリミティブなものを礼賛するオリエンタリズム的な思考から、ある程度逃れているということです。

「Among The Black Waves」のセルキーは、寒村にふさわしい分厚い衣類を着ることで文明人としての皮膚を着ることもできるし、アザラシの毛皮を着ることで動物にもなれる存在です。ということは単にプリミティブで自然的な存在者であるのではなく、自然/文明という二項対立を相対化するアニミズム的なロジックで生きる存在であるとも言うことができます。単なるプリミティビズムだと誤解されかねないアンナ監督の作品には、このようにオリエンタリズムを逃れる思考が潜んでいるのです。

「Two Sisters」ではどうでしょうか。この作品のストーリーをざっくりとまとめると、原始的で自足した生活をしている、一心同体と言ってもよい姉妹の片割れが、禁忌の森にいる男性に惹かれてしまいます。そのことに怒ったもう片方の女性が禁忌の森を燃やし尽くしたために、姉妹の仲が決定的に悪くなってしまうというものです。

この作品においても、一心同体である姉妹が舞い踊り、原始社会の通過儀礼を思わせるような儀式(?)を執り行うシークエンス、すなわちプリミティビズムの魅力溢れるシークエンスが大変印象的です。そのような理想的で美しい世界観を、男性に象徴されるなんらかの脅威が崩壊させる、とまとめてしまえば、これもまた原始的なもののナイーブな礼賛として批判しなければならないでしょう。ただここで注目したいのが、冒頭で行われ、結末で反復される線を引くという行為です。

そもそも姉妹の暮らしは、禁忌の森に生えている木の枝を集めることで成り立っていました。森は作品の始まりから不気味なものではありましたが、この作品は姉妹の片割れが、森と自分達の生活空間との間に線を引くことから始まります。姉妹たちの生活は不気味な森と共にあることで成り立っていたのにもかかわらず、不気味な森を他者として排斥することで姉妹だけの自足した世界が仮構され、「姉妹たちだけの世界/禁忌の森」という分断線が敷かれるのです。

ラストシーンにおける姉妹の仲違いが、姉妹と森とを隔てる「線を引く」という行為の反復として表現されていることから、姉妹だけの世界を仮構するものと、姉妹を分け隔てるものとは、同質なものだと考えるべきでしょう。「Two Sisters」はよって、プリミティブな姉妹の世界が森という他者の脅威に脅かされる物語ではなく、姉妹の片割れが森を他者として排斥することで、森を脅威として仕立て上げた結果、その排斥と分断の暴力が巡り巡って自分達に返ってきてしまった物語ということができます。

現に森にいる男性は姉妹の片割れを襲うのではなく、誘惑することしかできないほど弱々しい存在ですし、森が燃やし尽くされるシークエンスにおける姉妹の片割れの姿はどこか森の男を思わせます。脅威を脅威として作り上げるのが脅かされるもの自身である以上、この両者の姿に差異はないのです。

「Two Sisters」が描くのは、原始的な人間のフォークロアではありません。この作品が描くのは、共同体を作り上げるために振るわれ、その成員たちに返ってくるであろう暴力の神話です。そしてこのような暴力を描くことは、文明(排斥するもの)/自然(排斥されるもの)という分断線が引かれる、その瞬間にフォーカスを当てることにもつながる……と話を進めていけば、「Among The Black Waves」とも繋がってくるのではないでしょうか。


・Hong Xiao「Statues Game」

Hong Xiao監督は日常を切り取ったようなgif作品のイメージが強い作家です。

例えば「Citizen Hippoシリーズ」では、上海の街をぶらつくカバ男が見かけた、何気ない光景がスケッチされています(「Charger Baby」などがわかりやすい例だと思います)。そこで扱われているのは都市の何気ないありふれた光景なのですが、gifとして切り取られることによって、その中にある特定の動きのみが浮き上がります。この浮き上がった動きがループさせられることで、詩情や面白さが生まれていきます。意識されざる日常の細部が発見され、誇張されているのです。

シャオ監督の過去作の中で、私的に最も面白いと思ったのが「Cross-section of Park : Twin」です(これもシリーズものですが、リンクにはそのうちで最も好きな一作を貼ってあります)。コロナ禍の上海の公園を舞台にしたこの作品は、分断や孤立という角度から語られがちなコロナ禍に対して、また別の見方を提供します。

「Cross-section of Park : Twin」が着目するのは、人間同士のコミュニケーションが困難な状況のなかで逆説的に浮かび上がってくる、意図せざる環境との相互作用です。特に少女二人が鬼ごっこをしている作品は白眉で、彼女たちは自分が動きたいように動くのではなく、周りの環境、すなわち岩の出っ張りや、公園にいる人々、障害物の角度などを参考にしつつ、相手の動きを読むことで自らの動き方を決定しています。そこでは大きなコミュニケーションが行われない代わりに、人と人、人とものの間で不断に行われている微細な相互作用(監督の言葉を借りれば「interaction」)が切り取られています。

「Statues Game」においてはどうでしょうか。gifではなく短編作品として作られたこの作品にも、過去作に見られるような魅力的な動き(分けてもシンプルな描線のみで描かれた子供たちの遊ぶ様子)が現れています。とはいえ、この作品については過去作との接続性よりも、表現としての大きな飛躍の方が目につきます。

「Statues Game」のストーリーをざっくりとまとめると、大好きな母親の近くで、だるまさんがころんだのような遊びをしている子供の時間が突然止まってしまいます。しばし止まってしまったワンダーな時間の中を子供は遊びまわりますが、動き出す気配のない時間に次第に焦り始め、なんとかして時を動かそうとします。なんとか時を再び動かすことに成功しますが、実は時間はずっと流れていたらしく、唐突に大人になった自分がいる時間へと飛んでしまいます。そしてその時間においては、母親が息を引き取っていた、というものです。

監督曰く、この作品は残酷に流れ続けていく大人の時間と、遊びの中でなら時を止められる子供のイマジナリーな想像力とを対比したうえで、もし止まってしまった時間にずっと閉じ込められてしまったら?という空想が出発点となった作品だそうです。とはいえ出来上がった作品は、止まった時間に閉じ込められていた子供が唐突に大人になってしまった物語というより、母親の死を受け入れられない大人が、母親を回顧する中で時間の静止という出来事と出会う物語と読めるようになっています。

というのも、だるまさんがころんだのような遊びをするシークエンスは、シーツに母親の影像が映し出されるシーンに象徴されるように、明らかに母親を亡くしてしまった主人公の見る記憶の映像であるからです。すると遊びの最中に起こる時間の静止は、母親の死から目をそらして古い記憶へと退行した主人公に忍び寄る、母親の死の影と解釈するのが妥当でしょう。

ここで注目したいのは、監督の述べる二つの時間、すなわち残酷に流れ続ける大人の時間も、イマジナリーに操作可能な子供の時間も、どちらもそのベースに静止があるという点です。記憶の世界に退行している主人公はある意味、子供の遊びのように自分の時間を止めているといえます。現実の時間における母親の死はそこに、絶対的な静止によって介入しています。しばしばアニメーションは、動きによって絵や人形といった無機物に生命を与える芸術だと語られますが、しかしこの作品の根底には静止と死があるのです。


・Daniel Gray「hide」

Daniel Gray監督はTom Brown監督との共作がよく知られていますが、この作品ではダニエル・グレイ監督のみが監督としてクレジットされています。

ダニエル・グレイ監督とトム・ブラウン監督の共作は、奇妙なこだわりを持つ人間を、ザラザラとした違和感を持たせたまま描くことに特徴があります。奇妙な人間を愛らしく描くことで感情移入や理解を促す作品は多くありますが、ダニエル監督とトム監督の作品は、描かれた人物に感情移入させたり親近感を持たせたりするのではなく、その違和感と他者性を積極的に提示します。

t.o.m.」で語られるのは、主人公であるトムの朝のルーティーンです。冒頭においては朝ご飯や好き嫌いの話、歯磨きの話など、至極普通の話が展開されるのですが、彼は通学路に出るや否や服を一枚一枚脱ぎ始め、脱いだものを街中のいろんなところに隠してしまいます。

トムは、服の隠し場所についてはその選定理由であったり印象であったりを積極的に語るのですが、服を脱ぐ理由については何も語りません。彼にとってそれはルーティーンであり、当たり前のことだからです。彼がなぜ服を脱ぐのか、そこにどのような満足や快楽が潜んでいるのか、観客が納得するような答えは、作品を何度見返しても見当たりません。

語りが尋常普通の習慣の話から始められ、唐突に理解不能な習慣の話へと移ることからわかるように、この作品は二つの話の落差を利用して、トムの違和感と他者性を強調しようとしています。もちろん、トムの奇行を面白いものとみなして、げらげらと笑いながら鑑賞し、違和感と他者性のザラザラとした引っ掛かりを漂白することは可能でしょう。しかしそのような鑑賞を行った観客は物語の最後で、トムを嘲笑する子供たちに自らの似姿を見出すこととなり、居心地の悪い思いをすることになります。この作品はトムを他者として観ることを求めているのです。

他者性の問題は物語の内容レベルでも問題になっています。トムはズボンを脱いだ後、窓に映る自分の姿を眺めて、スカートを履いてるようだと語ります。服を脱ぐことで観客にとっての他者になるのみならず、自分自身を自己にとっての他者にしているのです。また脱いだ上着を見つめながら、透明人間がいるみたいだと語るシークエンスも見逃すことはできないでしょう。ここでは、自己にとって親密であるはずのものから他者性が引き出されています。

2015年に新千歳のグランプリを獲得した「teeth」においても、親密さは他者性と結びついています。この作品において一貫して語られるのは、自らの歯に対する違和感と異様な執着です。一応執着の理由として、はじめて生えた歯で母親を傷つけてしまった際、母親に殴られたことがトラウマになったのが原因だろうと推測させるような描写はあります。とはいえ、このような理解可能な細部すらも、主人公の行動の不気味さを際立たせるためのスパイスに見えてきます。

というのもこの作品には共感覚的な描写がいくつか存在するのですが、それらが総じて嫌な感覚を引き起こすものであり、観客が主人公と何かを共有すればするほど(あるいは観客と主人公の距離が近くなればなるほど)、心理的な距離が離れていくようになっているからです。

例えばナイフが歯にコツコツと当たるときのビリビリとした不快感、歯を舐め回す舌のぬめぬめとした嫌な感じ、歯医者で口の中に物を入れられた時のえずきそうな感覚。主人公に対しては、違和感のみならず嫌悪感を抱かざるを得ないようになっています。

物語の内容レベルでも同様の事態が起こっています。自らの歯を嫌悪し続けた主人公は、中年になって付けはじめた入れ歯を異様に大切にします。加えて、さまざまな動物の歯の形や機能を研究するようになります。自分のものではない歯への興味が高じた彼は、理想の入れ歯を約8年かけて作りあげます。しかし完成した入れ歯はどうやら彼の思い通りになるものではなかったようで、彼はその歯で誤って舌を切り落としてしまいます。ここでも歯への親密さは、それが他者化することの布石となっています。

もし風変わりな人間を描き、その変さを観客がエンジョイできてしまうとしたら、それはフリークスショーと変わらないでしょう。また、変わった人間の持つ愛らしさや理解可能な部分にフォーカスし、観客に共感を求めるとしたら、そのときこの世界に数多く居る、理解不能な他者たちの存在が忘れられてしまうでしょう。このような鑑賞のモードは、私ではない存在を私の快楽に奉仕させたり、私の理解可能性の範疇に収めようとしたりするものです。

それに対して「teeth」は観客に、他者のザラザラとした異和感を提示し続けます。それは私という範疇を超えたものを、「そういうもの」としてみることに耐え続けるためのレッスン、すなわち他者を他者として尊重し続けるための練習として機能しているのかもしれません。

「hide」においてはどうでしょうか。今作はダニエル・グレイ監督の単独作でありながら、やはりトム・ブラウン監督との共作と地続きの作品だと言うべきでしょう。

「hide」のあらすじを無理やりまとめると、かくれんぼをしている兄弟の片割れが、戸棚の中に隠れる。隠れた子供はずっと見つけられないまま、戸棚の中から外を眺め続ける。扉の狭い隙間から眺められる世界では時がどんどんと進み、親族の結婚や親の死といったライフイベントが行われるというものです。

戸棚の中から世界を眺める主人公ははじめ、自分が世界に関わらないまま一方的に眺め続けるという状況を享楽しています。彼は世界から切り離されることで一方的に把握する優位な立場に立ち、自らの快楽のために奉仕させるのです。強く言えば彼はその時世界を、幻想の中で我有化していると言えます。

しかし時が経つにつれ、家族の喪失といった悲しいイベントを目撃せざるを得なくなり、彼は見たくはないものを見続けざるを得ないという状況に追い込まれます。世界に対して優位に立っていたはずの彼は、世界のざらざらとした部分、すなわち自らの快楽に奉仕しない部分を見つめざるを得なくなることで、一転して世界の他者性に相対することになるのです。その点では「hide」を「t.o.m.」や「teeth」の延長線上にある作品と言うことは容易でしょう。

とはいえこの作品の主人公の造形が、過去作とは違ってあまりに感情移入可能な対象として作られているのも事実です。たとえばこの作品を見ながら、子供の頃に押し入れに隠れたときの安心感と高揚感を思い出す人は多いのではないでしょうか。また、世界から退隠して自らの私的な領域を享楽するというモードは、不安定な時代に作られた作品にたびたび現れるものです(現代であれば全面化したグローバル資本主義への抵抗としてよく選択されています)。

後半の展開についてもそうです。扉を開け閉めするごとに時間が飛び、脈絡なく出来事が目に飛び込んでくるというシークエンスを観て、突然昔の知人が結婚報告を送ってきた時の感覚、つまり突然時間の経過を意識させられ、見ないで済ませたいものを見ざるを得なくなってしまった時の感覚を思い出した人もいるのではないでしょうか(昔のままだと思っていた友人が、大人になっているのを意識させられるとき、自分1人だけ世界に置いてかれたような感覚を覚えるのは私だけでしょうか)。

上記の話にはあまりに個人的な与太話も含まれていますが、実は主人公への感情移入には構造的な必然性もあります。というのも「hide」の主人公は、どこか劇場における観客に似ているからです。たとえば一方的に世界を覗き見し、そのことに快楽を感じる主人公のモードは、ローラ・マルヴィが「視覚的快楽と物語映画」で指摘した窃視の構造と類似しています。

さらに戸棚から覗かれる世界も、明らかに映画を思わせるようになっています。たとえば執拗に繰り返される、扉を開けては閉めるという行為は、フィルムのコマ送りを思わせます。また、限られた画角から眺められる、前後の文脈が断ち切られた飛び飛びの時系列の世界というのは映画の編集を思わせます。

このように「hide」の主人公は、観客が容易に自己を重ねることができる存在として描かれています。そして皮肉なことに、観客は最後に「hide」の主人公と同じ過程、すなわち安全圏から楽しんでいた景色が、突然自らの快楽に奉仕することのない他者となり、無慈悲に自分を置いていくことの不気味さを味わうことになるのです。

この作品は最後、主人公が発見され、「I found you!(みーつけた!)」という言葉をかけられることで終わります。主人公は作中人物に見付けられることによって作品世界との関係を取り戻し、観客としての立ち位置を外れて、1人のキャラクターとして作中に取りこまれます。このとき主人公が世界とのつながりを取り戻すことと引き換えに、観客は彼に置いていかれるのです。親密だったものが他者化するという構図は、「hide」でも反復されていると言えるでしょう。

個人的にこの作品は、今年最も優れている作品の一つだと思いました。

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