マイナーなものの模倣‐‐ひらのりょう「Krasue」について

作品のトレーラーはこちら→https://vimeo.com/673027952

Krasue(ガスー)とは東南アジアに伝わる妖怪のことで、女性の生首に臓器がぶら下がった見た目をしており、発光しながら宙を飛んで家畜や人間を襲うと伝えられています。分けてもタイではよく知られた存在であり、現代でもいくつかの目撃談があるほか、ポップカルチャーにおいては一種のアイコンと化していて、例えば“Krasue Valentine”(2006)や “Krasue: Inhuman Kiss”(2019)といった、ガスーをヒロインとしたボーイ・ミーツ・ガールものも多く制作されています。ひらのりょう監督の「Krasue」は、このポップカルチャー化したガスーを題材にした作品だと言えるでしょう。

ひらのりょう監督の作品は、形式面においては異なるカルチャーや映像の文法の混淆が、内容面においては異種族の混血や時空間の混濁が多く見られます。「Krasue」においても、例えばドローイングのキャラクターとミニチュアの質感を持った舞台セットが同居したり、格闘ゲームを思わせるような画面構成になったりと、映像の文法の混淆が見られます。他にも、ガスーというポップアイコンを、ヤクザものに範をとったストーリーに入れ込むことも、物語文法の混淆として語ることができるでしょう。

ここで注目したいのが、「Krasue」において混淆するものの多くがマイナーなものであるという点です(ここでは「マイナー」という言葉を、「非規範的なもの」や「ローカルなもの」といった意味で用いています)。映像面においては様々なサブカルチャーの文法(ゲームやアニメーション、あるいは特撮も?)が混ざり合っていますし、日本ローカルな物語形式であるヤクザものと東南アジアのガスーも、ともに非西洋だという意味でマイナーだと言えるでしょう。

複数のマイナーなもの同士が出会う時、何が起こるのでしょうか。もしマイナーなもの同士が、互いを通底させるための規範的なもの(これはマイナーとの対比で「メジャーなもの」とも言うことができるでしょう)を持つことができたら、その出会いは穏健なものとなります。その一つの形が「翻訳」です。

例えば「Krasue」の冒頭、画面には、タイ語・英語・日本語の3カ国語で書かれたガスーについての説明が映し出されます。ここで注目したいのが、ただ視聴者にガスーについて説明するだけならば3カ国語を同時に表示させるべきであるのに、この作品ではまず最初にタイ語が表示され、少し間を置いて英語、日本語と説明が続いていることです。もし3カ国語を同時に表示させたならば、それぞれの文章は一つの言いたいことを、別々の言語によって表現したものに見えるでしょう。しかし3カ国語の提示に順番がつけられることで、2番目に提示される英語は最初に提示されたタイ語を翻訳したものに見えるようになり、最後に提示される日本語も、タイ語ないし英語の翻訳に見えるようになります。

タイ語と日本語の間に英語が挟まっていることの意味は重大です。文芸評論においてよく言われるように、異言語は体系を異にしている以上、相互に厳密な翻訳は不可能です。現に20世紀における文学は、例えば目の前にいるポメラニアンを指すときに「犬」と言ったのを「собака」と翻訳する場合でも、この2語の間に大きな意味のズレを認めてきました。しかし藤井光が『ターミナルから荒れ地へ』で述べているように、全面的なグローバル資本主義の進展によって英語の覇権がますます強くなった21世紀において、非英語圏の作家たちは母国語で書く場合ですら、英語に翻訳されることを考えて書くことが多くなったといいます。翻訳不可能性というテーゼによってローカルな言語の特異性を強調してきた文学の世界においてすら、現代では英語を、ローカルな言語を翻訳可能にする共通言語として捉えているのです。

英語というメジャーな規範を間に挟むことによって、日本語とタイ語は翻訳という形で穏健に出会うことができるようになります。しかし、藤井が先に挙げた著書の中で、英語の時代の特権的なトポスとして空港のターミナルおよび飛行機を挙げている点にも注意しなければなりません。「Krasue」の中盤には、主人公であるヤクザの男が、遥か遠くを飛び去る飛行機を見上げた直後、横から現れた敵と裸で取っ組み合うという印象的なシーンがあります。メジャーなものが遥か遠くに飛んでいき、ただマイナーなもの同士がフラットな戦場で取っ組み合う。「Krasue」はメジャーなものを失調させることで、翻訳というわかり合うための可能性を奪い、マイナーなもの同士に穏健ではない出会いをもたらすのです。

物語はヤクザの男が東南アジアのある都市の街中で、飯を食べているところから始まります。背後ではボロボロの野良犬が寝そべっており、何かに気づいた様子のヤクザは野良犬に食べかけの飯を差し出して、その場を去ります。しかし野良犬はその飯を食べません。人間が他種とコミュニケートする場合、餌を与えることは最もメジャーで平和な方法でしょうが、物語はここで両者の安定的な関係の構築を拒否します。ヤクザの男と野良犬は出会い損ねを演じるのです。

ヤクザの男が走り去ったあと、やおら立ち上がった野良犬の目にガスーが映り込み、そのままタイトルバック。ここでガスーと野良犬の間に何か関係が生まれるかと思いきや、突如ガラスが割れるけたたましい音が鳴り、両者の間にはヤクザの男が落ちてきます。どうやら彼は現地マフィア相手に一人で立ち向かっているらしく、ビルから突き落とされた後も、ガスーと野良犬そっちのけで現地マフィアと争い続けます。この時点ではヤクザの男、野良犬、ガスーの三者は一所に会しながらも、各々が自らの生を生き、互いに関係を持つことがありません。

ガスーとヤクザの男が関係するのは、いささか奇妙なきっかけによってです。ヤクザの男は現地マフィアと争っている最中に、銃を奪われ、左手の小指を吹き飛ばされます。この飛んでいく小指の様子はスローモーションで描かれるのですが、血が滴る様子や断面のグロテスクさにもかかわらず、どこかロマンチックな雰囲気を帯びています。この小指はまず野良犬の顔面に張り付くも、先の飯と同じように野良犬によって拒絶されて振り払われ、それがガスーのもとへと届き、ガスーはこの小指を咀嚼します。この小指の味が気に入ったのか、以降ガスーはヤクザの男に執着するようになります。

給餌は生き物と生き物の間に、食べ物という媒介が挟まることによって結ばれる安定的な回路ですが、ガスーとヤクザの男の出会いは、「食べる / 食べられる」というプリミティブな二者関係です。そこには両者がコミュニケートするための規範や媒介がありません。ヤクザ、ガスー、野良犬というマイナーなものたちは、互いに完全に異質な他者であり、互いを通底させる手立てを持たないからこそ、関係を拒絶するか、食われ消化されて相手と完全に一体となるかしかないのです。

それでも、異質なものたちが共通の基盤を持たないまま関わりあうにはどうすればいいのか。その答えと言えるかどうかはわかりませんが、「Krasue」の後半には、興味深い二つの事態が現れています。それは似通うことと模倣です。

ヤクザの男はその後、現地マフィアに拉致され森に連れて行かれるのですが、そこで殺されそうになったところにガスーが現れます。このとき、ガスーの胃のなかでヤクザの男の小指が消化されていく様子を映すカットが挟まります。これから起こる、異種たちの接近と似通いを予告するかのように、ここでガスーとヤクザの男は部分的に一体化するのです。獲物を取られることを嫌がったガスーは現地マフィアを襲い、ヤクザの男と共闘します。この三者の争いで注目したいのはまず、ヤクザの男と現地マフィアとが極度の疲労のために、似通った動きをしている点です。映像の形式も横スクロールアクションゲームを思わせるものとなり、人間が小さく描かれ、キャラクターたちの動きは個性の無いゲームキャラのモーションのようになります。

ヤクザの男と現地マフィアたちの争いが打撃戦から取っ組み合いに移行すると、映像は一転してキャラクターにクローズアップするようになります。ここでは人間対人間の争いと人間対妖怪の争いが、素早いテンポでクロスカッティングすることで、人間と妖怪の差異が限りなく見えづらくなっています。また、引きのショットでは宙に浮くガスーと人間の動きとに大きな違いあるのですが、クローズアップすることで両者の動きの差異がなくなり、人間と妖怪が等価に見えるようになります。

戦いのどさくさに紛れてヤクザの男は車を奪うことに成功し、窮地を脱します。しかし森の中になぜか野良犬がおり、それを見たヤクザの男は咄嗟にハンドルを切ってしまい、車を横転させてしまいます。まるでヤクザの男と野良犬の間に、関係を拒絶する見えない障壁があるかのように。命がけの逃避行を行うヤクザは野良犬を避け、野良犬もヤクザの男などいないかのように振る舞います。横転した車から抜け出したヤクザの男は服も脱げ全裸状態、かつ傷だらけ。そのとき目に入るのは、この場に不釣り合いなビニール袋。それは風に飛ばされて彼方へと飛んでいき、遥か上空を飛び去る飛行機と共に、グローバル資本主義というメジャーな規範の失調を印象付けます。

直後、やってきた現地マフィアの男を岩で殴り殺したヤクザの男は、雄叫びをあげ、四足歩行を行い、動物のようになってしまいます。ビニール袋と飛行機の飛び去りは、文明から野生へと還っていくことを象徴してもいるようにも見えます。さらにヤクザの男が野生化する直前には、彼の心臓のクローズアップが挟まるのですが、これは構図的に先のガスーの胃のカットと重ねられており、ヤクザの男が動物のみならず、妖怪のようにもなっていることが示唆されます。

異種との境界線を超えたおかげか、野良犬はここで初めてヤクザの男を意識するようになり、両者は敵対します。ここで注目したいのが、野良犬と戦うヤクザの男の動きが動物的ではありつつも、機敏に動く野良犬と比べてあまりにも緩慢である点です。この緩慢さの理由は直後、なんとか野良犬を投げ飛ばしたヤクザの男が、背中に描かれた龍虎の刺青を見せながら見栄を切るシーンによって判明します。

実力が伯仲していることの喩えである龍虎をここで持ち出すことは、野良犬とヤクザの男の実力差を考えた時にあまりに不釣り合いです。この見栄は物語の状況を正しく演出するために用意されたものではなく、ヤクザの男が野生化(かつ妖怪化)した自分を、龍虎に準えていることを示したものとして解釈するべきでしょう。つまりヤクザの男は本当に野生動物や妖怪になったのではなく、人間であるからこそ他種に自らを準えている。この龍虎の刺青自体が人間の作り出したイミテーションであることを考えると、彼の野生化自体も、一つの模倣として捉えることができます。そしてあくまで模倣に過ぎないからこそ、ヤクザの男の動きは野良犬と比べて緩慢なままなのです。

ヤクザの男が野良犬との戦いで疲弊し息も絶え絶えになっていると、突然宙に発光する右手が現れ、ヤクザの男の頬を撫で彼を落ち着かせます。そして冷静になって周りを見てみると、その視線の先にはガスーの姿が。ガスーについては様々な伝承がありますが、人口に膾炙したものにおいては、ガスーは昼間人間の姿をしており、夜に生首と臓器だけが身体から抜け宙を舞うと言われています。気付くと時間は明け方、異種たちの出会う夜は明け、ガスーもまた元の身体に戻ろうとしているのかもしれません。昇りつつある朝日をガスーとヤクザの男は隣同士で、野良犬は少し離れながら眺めていると、ヤクザの男とガスーが見つめ合う切り返しショット。そして少し間を置いて、突然ガスーがヤクザの男の首に噛みつき、エンディング。混ざり合っていた人間、妖怪、野生は各々の両分を取り戻し、再び野良犬は無関係な存在に、ガスーは男を食べようとする存在に戻るのです。

人間であるままに他種を模倣して戦い、その模倣が行き過ぎてしまったときに相手を狩ることに失敗し、人間であることを思い出す。ヤクザの男の辿ったこのような過程は、昨今の文化人類学の発見、ことにヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズムを思わせます。

ヴィヴェイロスは『インディオの気まぐれな魂』や『食人の形而上学』において、ネイティブ・インディアンの儀式の分析などを通して、人間が他人や他種(動物や植物も含む)と主観を交換し得るという世界観を描き、それをパースペクティヴィズムと名づけました。特に『食人の形而上学』においては、主観の交換の契機として、他者を食べてその他者の視点を自らに取り入れるということが挙げられており、「Krasue」について考えるうえでの様々な示唆を与えてくれます(ガスーと人間との似通いを予告するのが、ガスーが人間の指を消化するカットであったことを思い出すべきでしょう)。

またレーン・ウィラースレフは『ソウル・ハンターズ』において、ヴィヴェイロスのパースペクティヴィズムを援用しながらシベリアの先住民族ユカギールの狩猟について分析しています。ウィラースレフはユカギールの人々が獲物を狩る際に半分獲物に同化しつつ、同時に狩猟者として人間であることを保ち続けている様を明らかにしました。ユカギールの人々によれば、ハンターは自らの目的を果たすために狩る側のエゴに凝り固まってしまっても、逆に獲物の目線に同化しきってしまっても、狩りに失敗してしまうそうです。他者と似通い、理性を失ってしまうほどに野生動物の姿と立場とを模倣してしまった「Krasue」のヤクザの男は、後者の意味で狩りに失敗するハンターであったと言えるでしょう。

必要なのは、他者と自らの視点を交換しつつ、自らを複数の視点の間に位置づけてバランスを保つこと。もちろん『インディオの気まぐれな魂』の知見も『ソウル・ハンターズ』の知見も、あくまで一先住民族のフィールドワークから得られたものにすぎません。しかしヴィヴェイロスもウィラースレフも、このような自己と他者が主観を交換し合い模倣しあう世界感こそが、人類にとって普遍的であると考えているフシがあります。メジャーな規範や媒介が失調しているために、在り方の似通いや立場の模倣という形で異種同士が関係する「Krasue」の世界観は、このような同時代の文化人類学的な知と共鳴しているように思えます。

またこの共鳴は、アニメーションにおけるアニミズムの在り方について興味深い考えをもたらしてくれるように思います。パースペクティヴィズムは、植物も含む異種の主観を認めるという意味でアニミズム的な世界観を持ちます。またアニメーションもしばしば、絵や対象に生命を与えて生き生きとさせるという意味で、アニミズム的なものとして語られます。しかし擬人化に代表されるように、アニメーションにおいて付与される生命は、人間的な生命であることも多いように思われます。それに対してパースペクティヴィズムが認めるのは、異種たちの生命の在り方の交換です。ひらのりょう監督の混淆するアニメーションには、人間的なアニミズムだけではなく、異種たちの交換や模倣としてのアニミズムの可能性が胚胎しているように見えます。

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