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可哀想って誰のため?

ちょっと、まとまってないけど
引っかかってることあるから下書き気分でツラツラ書きます。

「祷禾が可哀想だ」

と、母に何回か言われたことがある。
深い意味もなく、傷つけるつもりもないのはわかる。
娘への愛情から出てくるのもわかる。

いろんな状況があるから、
同じ意味の可哀想ではないけれど、
でも、それを言われるたび、私は傷つきながら疑問にも思う。

可哀想ってなに?
どういうこと?

今日、車の中で、
祷禾が掴み食べ上手になってきてるという話をしていた。

「ご飯の時、怒られたくないもんね。好きなようにさせてあげればいいのよ」

と、母。
成長してきて嬉しいって話をしていたのに、
この言葉で私はカチン。

いやいや、
怒りたくて怒ってるわけないじゃない。
いろんな疲れが溜まってるから、ちょっとのことで怒っちゃうんだよ。

「祷禾だって、食べづらいのよ」

いやいや、
そりゃそうでしょ。
いろんなこと練習中だもん。
それに合わせられるようにこっちだって試行錯誤してるわけじゃない。

「それもわかってるけど…」

ここからしばらく沈黙。

あーー
ご飯中肩身狭いのはこう思われてるからなんだ。

あーー
だから、家に居たくなくなるんだよ。

あーー
せっかく天気良くて家族でお出かけなのに
車の中でなんでこんな空気にならなきゃいけないんだ。

ブチ切れたくもなり、
悲しくもなり、
でも、必死に抑えようとしていたが、
無理。

そのうち母が、
「気分悪くしたなら申し訳ないけど、全否定してるわけじゃないから」

そりゃ、気分悪くなるわ。

「アドバイスしてあげたいのに、何にも言えなくなるじゃない」

いやいやいや。
違うのよ。
言われたことにどうのこうのって、話じゃなくて…

…うまく言えない。
この心の寂しさ、
一緒に暮らしてるのに、この突き放された感じ…

そうな風に思われてるから、
余計に肩身が狭くなるんだよ、
洗い物とか洗濯とか色々やってくれてることはありがたいと思ってるよ、でも前にも言ったけど、私は家事をやるのは辛くない、
一日ずっと祷禾のことばかりやってるのがしんどいんだ、と言うと

「祷禾を全否定してるじゃない」

ここで、父がストップをかける。

「それは飛躍しすぎてるよ。」

私がどうしてほしいか聞かれる。

極端に言えば、おっぱいあげたり、夜一緒に寝る以外は私以外でもできるじゃない。
でも、今は全部私がやってる。
私しか、立ち向かってない。なのに、そういうこと言われるから余計肩身狭くなって辛い。

「祷禾の世話は、任せたくないのかと思っていた」
と、父。

そんなわけないじゃない、前にも言ったけど、外食しても祷禾のご飯優先で、みんなが食べ終わる頃に、自分のご飯食べ始めてる。
代わってほしいって言うのも、どんどん申し訳なくなってきて言えないだけ。

「そっか、ごめんごめん、いくらでも代わるよ。」
と、父。

途中、祷禾が少し泣く。

「祷禾の話してるから…」(だから泣いちゃってるじゃない、という意味で)
と、母。

祷禾のこと言ってないけど…。

「どこまでやっていいの?ご飯の準備から?」

と、母。

うー…?
別に準備とかはしんどくないけど、
まぁ、その時によって…。

という感じで、一応終わり。
私も手伝ってほしいことを伝えられたし、
むしろ伝わってなかったことに驚いたけど、
平気そうに見えるのは、わからなくもないからなぁ。

この日、帰り道ずっと運転もして疲れて、
夕方から夜にかけて、ひさびさに1人広いベッドで爆睡。
起きた時の、深い眠りをした感覚。
とても久しぶりだった。
今まで、どんだけ、浅い眠りだったんだよ、と。

リビングに行ったら、
父も母も祷禾もご飯終えた後。

ありがとう。

助かりました。

夕方寝たけど、
祷禾の寝んねと共に再び寝て、
夜中の授乳で起きて、
祷禾しばらく覚醒して、
それに付き合って私は目が冴えて、

祷禾寝たのち、今、これ書いてる。

どうしても疑問が残る。

度々母の口から出る、

「祷禾が可哀想」

これ、なに??
なにが可哀想?
ご飯中怒られて可哀想?
お世話しんどいって言われて可哀想?

なんで、そうなるんだろう。

その、可哀想って空気が母親を苦しめて、余計に育児が辛くなる仕組みが、なぜわからない。

夕方、たっぷり寝れるだけで、
夜中に起きられてもしんどくないのよ。
いつもなら、泣かれたらうるさいなぁってなるけど、
今日は、はいはい、寝れないのね、と余裕。

ご飯あげるだけでいいなら、
米粒がどこに飛ぼうが、擦り付けられようが、怒らずに済むわけよ。

それら全てをやるから、ひとつひとつの小さなことが、しんどくなって、

やめてよ!とか、
うるさいよ!とか、
怒っちゃうわけよ。

これって、当事者しかわからないんだなぁ。
育児を経てきた母でも、忘れちゃうんだなぁ。
祷禾が可哀想って考えになっちゃうんだなぁ。

可哀想って、
私が可哀想にさせてるってことになるよね、
でも、残念ながら、
私は祷禾を可哀想なんて思ったことない。

私がギャンギャン怒っちゃった時でも、
ごめん、と思うよ、
反省はするよ、
でも、可哀想なんて思ったことない。

だって、当たり前だもん。

産まれてから、今まで、
ボロボロの身体でずっとお世話してて、
まだ意思表示もままならないから、いろんなこと試しながらやってきて、

わからないことだらけ、初めてだらけで、

それでも、
疲れたって、しんどいって、思わないのことが、愛情になるわけ?
愚痴らなければ、子供は幸せなの?
疲れて当たり前、しんどくて当たり前やろ。
そうじゃない人もいるかもしれないけど、
私は残念ながら、疲れます!しんどいす!
自分の時間ないと死にます!

父親がいないことを、
ふいに申し訳なく思ったり、
私自身寂しく思うこともあるけれど、

でも、祷禾を可哀想なんて思ったこと1ミリもない!
だって、めちゃくちゃ愛してるもん。
まだまだ未熟なママだから、些細なことで怖い顔しちゃうけど、
でも、こわい顔よりもたくさん笑ってるよ。
祷禾が笑ってくれるから。
祷禾が愛してくれるから。
ブレずにいられる。
マジで相思相愛。

で、
どこが可哀想なわけ?
今も隣でスピスピ寝てるよ。
頭突き何回もされたよ、顔の上で寝ることもあるよ、
パイパイって言いながら起きてくる時もあるよ、
チューって言うと、チューしてくれるよ、
たくさん、お話できるようになったよ、
真似っこ上手になったよ、

わかんないなー、
なにが可哀想なのか。

祷禾の世話がしんどい=祷禾を否定してる

この考えにいきつく脳みその仕組みがわからない。

なぜ、しんどいことをしんどいって言うことが後ろめたい世の中なのだろう。
我慢は美徳、じゃないでしょ。

子育てに優しい環境は、
まず家庭からでしょ。

たぶん、可哀想、の中に、母自身の寂しさが混じってるんではなかろうか。
祷禾の代弁だとは、到底思えない。
母自身の寂しさが解消しないと、
私の肩身の狭さは解消しないのかな。
エネルギー余ってれば母にもがっつり向き合いたいけど、
私のエネルギーは、ほぼ祷禾に向いているからなー。
余裕ないんだよなー。
前にも話ししたけど、それで解決ってわけにはいかない根深さだなー。

可哀想って
誰のための言葉なんだろう。

結論は
出ず。

お腹すいてきた。
もう4時。
寝れるかな…。

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