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ネパールの師と、心の鏡

「鏡」という語は、『華厳経』や『般若経』をはじめとする大乗経典によく登場します。密教においては「大円鏡智」(だいえんきょうち;Mirror-like Wisdom)という語に代表されるように、さらに深い意味を帯びます。

チベット密教の経典のタイトルにはよく「御心の鏡」「心髄の鏡」などのフレーズが使われますし、儀軌や灌頂でも、実物の鏡が使用されることがあります。心の本質を示す象徴として、「鏡」は重視されるのです。

そして「鏡」というといつも思い出す、1つの体験があります。今回はその体験について、少しお話します。

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上の写真:
今回の舞台。ネパールの首都カトマンドゥ郊外。撮影:気吹乃宮。

二十年くらい前の話です。そのチベットの先生は、カトマンドゥ郊外を流れる小川の近くに住んでおられました。当時すでにご高齢で、今は他界されています。
その後に何度もお会いしているのですが、私がネパールでお会いしたのはこれが最初だったかもしれません。単身で乗り込んだので緊張していました。

謁見の許可をいただいて先生のお部屋に入ってみると、小柄な先生が座っておられました。手には数珠を持ち、ニコニコしながら、ずっと小声で真言を唱えて数珠をくくっておられました。

私は伝統的なご挨拶を済ませてから、いくつか質問をしたように記憶しています。先生はひととおりお答えになった後、会話がしばらく途切れました。先生は相変わらず、微笑まれながら、数珠をくくっておられます。

そのときの有り様は、今でも鮮明に記憶しています。私の心の感情などあらゆるものが、先生を通じて映し出されたのです。それはあまり見たくはないものでした。まだロクに修行していない頃の、私です。安定していないで高ぶっている私の心が、不注意で散漫している様が、ありありと現前したのです。

感情の起伏や煩悩は
「見える鏡」を使えば
客観的に見えるのだ

ということをこのとき、知りました。といってもその間、先生は微笑みながら、静かに数珠をくくっておられただけなのですが。

鏡はいっさい動ぜず、ピカピカに磨かれて、あらゆる顕現を平等に、ありのままに映写していました。その心の力に、愕然としたのです。

長年、心を研ぎ澄ます行を積み重ねた行者さんは、きっとこんな状態になるんだろう・・・と納得しました。

先生のお部屋を後にしたとき、私はひどく汗だくでした。私は逃げるように帰っていったかもしれません。

さらに「何者か」が背後から、私をずっと見続けている視線を感じました。それはネパールの乗り合いバスに乗り込んでからも続きました。誰に見られていたのかは、今でもよくわかりません。

「心を磨く」とか「心を浄める」という言葉を、巷でよく目にします。
しかし「心を磨く」とどうなるのか、私たちは言葉にすることはできないでしょう。

その本当に意味することは、あるいはそれを達成した結果とは、上記の先生のような存在なんだろうと、私は勝手に理解しているのです。そう考えたほうがすんなりするし、実際の自分の目標となるからです。

イヤなものもキレイなものも等しく映し出すような、強烈な反射性、心の力というものが、結果的にその行者に備わるのだと、今はそう納得しています。

仏教的アプローチにしろ、(祓などの)神道的アプローチにしろ、まず自分の心がいかに不安定で、さまざまな罪穢れが浮沈しているかを自覚するならば、浄化のし甲斐もありましょう。

しかし、ただ自覚するだけでは浄化とは呼べないでしょう。それを潰しにかかる作業が、次に待っています。

こうして達成される浄化とは、おのずと心の安定、平穏さが伴うものではないでしょうか。


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上の写真:
ネパールにあるチベット寺院の1つ、ベーロ・ゴンパの伽藍。
撮影:気吹乃宮。


サポートは、気吹乃宮の御祭神および御本尊への御供物や供養に充てさせていただきます。またツォク供養や個別の祈願のときも、こちらをご利用ください。