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ウブドゥ ① / 自作短編小説

この作品は以前発表したものを、リライトしたものです。
……………

熱帯の湿潤の香りと共に、香料と香辛料の香りが喧騒の中に入り交じる。観光取材にバリ島を訪れた三日目。僕は撮影機材を抱えてウブドゥの通りを歩いていた。

通りには沢山の工芸品売り場や露店が立ち並び、モンキーフォレストに向かう観光客の足を止める。喧騒の向こうから動物の鳴き声が聞こえてくる。

ある露店の前で、美しく深いブルーに包まれた抽象画に目を止め、僕も足を止めた。

バリは芸術の島でもある。かつては日本もそうであったように、家や家具や服にいたるまで芸術が生活に密着していて、その中でも絵画のレベルは高い。淡色の陰影による古典的な流派が存在する中、若手の前衛的な無名の画家達の作品も、その精神性は高い。

その絵が湛える深いブルーは、トランスの影響を示している。バリ島はトランスと宗教が息づく島。

前の晩に現地に詳しい日本人レストランオーナーに誘われ、観光用ではないケチャックダンスを見た。すざましいトランスに包まれ平常意識を失い踊り泣き叫ぶ人々。変性意識のさなかにあって、人々は何を見ているのだろう。

「日本人、日本人、ちょっと。」

絵に魅入っている僕の背中越しに呼びかけられ、はっと身構えながら振り返る。マリファナを鞄に捩込み地元の警察とグルになって賄賂を吹っかける奴や、スリもいる。高価なカメラを狙われる可能性もある。

振り返ると背の低い若いバリニーズが立っていた。

「若い日本人、マスターがあなた呼んでる。」

男の背後には、威厳を伴った知的な顔付きの老人が立っていた。

「なにか。」

「急で変だと思われるかも知れませんが、私の家に招待したい。近くですから歩いて行けるのですが、時間はありますか。」

なにかの詐欺かも知れないと思ったものの、老人にはなにかしら信用できる佇まいがあり、怪しむべき人物ではなさそうに思えた。それになによりも外国に来て現地の人と交流できる機会はあまりない。

警戒心より好奇心が勝った僕は、その誘いを受ける事にした。

老人と下男らしい男と共に、メインストリートを外れた小さな通りを歩く。
スコールが近くなる昼下がりの湿潤の空気に、熱帯の木々の匂いが濃く香り、鳥達の鳴き声が穏やかに響く。

十数分ほど無言で歩くと、瀟洒なコロニアル風の邸宅に着いた。

テラスに面した応接に通され、不安ながらも老人に案内されるままにラタンのソファーに座った。昼下がりの熱帯雨林の湿った空気を照らす南国独特の光に包まれたその庭は、観光地の喧騒から程遠い静寂に包まれて、鳥の鳴き声とサルの叫び声が遠くから聞こえてくる。

「ビールでもいかがですか?」

「いただきます。」

老人は下男らしき男に目配せをして、現地の言葉で一言二言喋りかける。下男らしき男は奥へと消え、そして再びブルーの切子のカットグラスとシンハーというビールの小瓶を運んできた。

「まあ、お若い方、くつろいでください。」

老人は自らの手で、僕にビールを注ぐ。その手で自らのグラスにビールをまた注ぐ。

湿潤の中に独特の植物の香りが濃厚に立ちこめ、ラタンの香りとラワン材の香りと、そして時々の鳥の鳴き声が午後の光を和らげる。

冷えた切子のグラスの中のビールが乾いた喉を通る。

「やっぱり暑い中で飲むビールはおいしいですね。」

「どうぞ、遠慮なさらずに。」

老人は流暢な日本語でさらに僕にビールを注ぐ。ビールがなくなるとタイミングを計ったように下男らしき男が冷えたビールを運んでくる。

「それにしても、どうして私を招待されたのですか?」

穏やかな目つきで僕を見つめる老人に、僕は率直に尋ねた。

「ああ、あなたは昨日、クタの路上で若い人たちにビールを奢って飲んでいたでしょう。若い日本人がああやって店の若い子たちと打ち解けて飲んでいるのは珍しいなと、通りがかりに見ていたんですが、先ほどまた同じ日本人に出会ったものですから、これも何かの縁かと思いましてな、声をおかけしたのです。」

バリには日本の屋台に似た露店がたくさんある。ナシゴレン(バリ風チャーハン)、ミーゴレン(ラーメン)、ピーナツソースの甘辛いソースがついたサテ、トロピカルフルーツジュースなど安くで現地の味が楽しめる飲食屋台。そんな中、露店で働くお兄さんたちは人懐っこく親切だ。

彼らは時々ビールをねだる。たかがビール一本とはいえ当時彼らの日給分に相当する値段。彼らにとっては高級品だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
続く

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