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レビュー GEZAN 『狂(KLUE)』 〜「あの東京にも原始時代はあった」〜

 冒頭からいきなり別のアーティストの歌詞を引用することに対して、不純であるかなと少しだけ迷う。しかし、このアルバムが持つプリミティブな力強さに浮かんだ言葉は people in the box 『割礼』という曲の「あの東京にも原始時代はあった」という一節だった。

 2020年1月に発表されたGEZANの5thアルバム「狂(KLUE)」。このアルバムを聞くまで一人のリスナーとして「GEZAN」に心を傾けることができなかった。
 メロコアやパンクのエッセンスばかりが印象として先行してしまい、自分より若い世代に向けられた、自分の聞くフィールドとは異なる音楽として処理してしまっていた。しかし、このトライバルなループ、必然性を帯びたテンポ(BPM100)、そして目を背けることを許さないリリック。好き嫌いでは無視できない作品であることを一曲目「狂」から徹底的に覚悟させられる。アルバムの第一声に発せられるそのウィスパーボイスは「今、お前はどこでこの声を聞いている」である。  

 普遍的な作品であればこそ、そこに時代を感じさせる固有名詞はないことが好ましい、と私は考えるがお構い無しにマヒトゥ・ザ・ピーポーの歌詞は「現在」をえぐっている(SNS、社会問題、政治)。そのフォーカスの絞り方は極まっており、来年改めて聞くのが不安なぐらい、マヒトゥ・ザ・ピーポーが感じる「2020年、東京」、その切迫した過酷さについて書き殴られている。
 その点で言えばレベルミュージックの中でも、より個人的な抗いとして捉えることができるし、共感や同調については聞き手に委ねられ、その手前である一個人としての純粋な主義主張が最優先される。この40分間、誰かの意見ではなく「あなたはどう考える」という対話の渦に私たちは向き合わざるを得ない。
 BPM100というルールの中で売られたのは、タイマンの喧嘩だ。そう、これは政治の歌ではなかった。

 リズムセクションはどうだろう。アルバムジャッケットのひょっとこ踊りからも連想されるように、円環を描くようなビートとダブミックスにより、果たして自分がどこで踊っているのか、曖昧になる。なにより、インドネシア・バリ島のケチャから着想を得たかのような、呪術的でパーカッシブなあの「声」。リードトラックでもある「赤曜日」などにも顕著なように、本アルバムがトライバルであると称される一因であり、この「声」とも「叫び」とも、あるいは一種の「呼吸」とも呼べるミニマルなループが人間の本能に刺さる。それは誰もが炎のゆらぎを見て、一種の落ち着きを覚えるのと同じぐらい、体に刻まれたものではないだろうか。


 

 不器用にも思えるほど刹那的に現在を切り取る詞に呼応させたのは、古来のDNAを揺さぶる肉体的でプリミティブなビートであった。
 科学技術、テクノロジーが加速度的に変容し、私たちは巨大な恩恵を預かると同時に揺さぶられている。しかし、どこまでいっても人間は人間であるという温度感を持った確信を、彼らのビートの選択から感じ取った。不安や怒り、そしてそれでも前に進みたいという気持ちに関しては、遥か原始時代から変わらないことをを手掛かりとして、過酷な時代に「一人間として向き合うこと」をGEZANは要求している。しかも、それはシティポップには担えなかった「強い要求」である。



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