出題者MEL「自己肯定感について」
おはようございます。
友人にお題をもらったので、noteを書きます。
テーマは自己肯定感だそうです。
若干テーマを変えてしまいましたが、
非常に低い、私の自己肯定感について書いていきます。
結論から書きますと、私のほうです。おかしいのは。
わかってはいます。肥大した自意識。行先をなくした感情をここにつづります。
ここに書くことは、おかしいことなんだろうけどそんなことはわかったうえで書いていきます。
「育て方を間違った」「あなたのそんな性格を見ていると、私たちまで人生を間違ったように感じる」
そんな風に母親に泣かれたことはありますか。
私にはあります。
どうやら間違っているのは、僕らしい。
そんな私が私見をつらつらと書いていきます。
さきにも書いたように当然、自己肯定感は低く、鬱屈した感情の持ち主です。
こんな僕の書く文章が、ひょっとしたらどこかの誰かの心の隙間にはまってくれることを願って。
といっても暗い話を書いたところでどうしようもないので、ダラダラぼくの自信のなさのようなものについて
書いていきます。
例えば、僕は深夜に夜食をとることができません。
一般的に朝昼晩と三食食べるだけで、飽き足らず追加で一食を食べる。
自分が生きるために他の命を必要以上に取るような基準を満たしているのかそんな不安に駆られます。
深夜にコンビニに行くこともできません。
物理的にもですけど、深夜に働いている人がいるのに何をのうのうと買い物なんかしているのだろう?
そんなことに不安を感じます。
まあ旅先の高揚感、酔っ払た勢いに身を任せると深夜にいろいろできるのだろうけど。
やっぱり深夜の贅沢というものは私には非常に難しいです。
もし友人と、深夜にコンビニに行こうものなら、そそくさと空気のようにふるまいますし。
買い物もせずに会釈だけして出ていくのでしょう。
つらつら書いたけど、自分のわがままに人をつきあわせるなんてことに非常に罪の意識を持つわけです。
だから自己肯定感が高いのか自分に自信があるのかわかりませんが、他人に対して横暴な態度をとったり、
自分こそが正しいのだとふるまう人がとても苦手なのです。
そんな彼らを見ると尊敬や憧れを通り越して、なんてデリカシーのないやつだ
どうせ、服のシワだとか目の下のクマを指摘して「細かいところに気が付くオレ」みたいなのを演出して生きてきたタイプなんだろうと冷めた目線を送ってしまうわけです。
なにが言いたいのかというと、自己肯定感の高い人間の持つデリカシーのなさ、
ちょっとしたところに表れる無神経さや暴力性といったものが非常に苦手なのです。
これを読んでくださってるあなたたちのことは知りませんが相手の立場に立ってものを考えられない人、というのは一定数存在しています。
店員に横暴な男、注意書きを読まずに喚く客、初対面のときからやたら距離が近い男。
How to本で世界を知った気になる大学生、壺を押し付けてくる人間。
空気も読まずに会話に割って入ってくる奴。
隙あれば自分語りをするやつ。
じゃあお前はどうなんだ?と聞かれると口をつぐんでしまいますが。
みんな自分が世界で一番正しい自信があるのでしょう、だから無自覚に人に強く振る舞える。
どこにあなたが正しい根拠があるのでしょう。
そういった人たちが僕は本当に苦手です。
虚飾と虚勢、嘘にまみれた人間がやってしまう。
たまに目にする他者への思いやりの欠如、世界に対しての敬意がない発言や振る舞いを見ると僕は心がしんどくなってしまいます。
同様に、謙虚さや気遣いにあふれた人を見るのも苦手なのです。
これは単純に僕の田舎へのコンプレックスが原因であるとも思います。
恵まれた文化資産、子供のころから触れてきた環境、やさしい大人に囲まれて育てられたがゆえに
ふりまかれる気遣いや謙虚さ、何気ない日常の出来事。人が人であるなら当然のように享受してきたであろう対応や、
優しさに触れることも苦手なのです。
そんな人たちから距離を置きたいとささやかな抵抗として、悪態をついたり、性格が悪くふるまったり卑屈で陰湿な行為をしてしまいます。
ああいやだ。
でもやはり嫌なのです。
そんな他人の悪態をついてしまう自分のことも嫌いです。
そもそも私は悪態をついていいほどの資格もなければそれついての許可すら得ていません。
往々に自己肯定感とあまり関係のないことを書いてしまっているのですが、まだつらつらと書き続けていきます。
自己肯定感、というべきか、「頑張れば報われる」「公平に評価される」のように「努力をすれば多少のリターン」が返ってくると思える
環境で育って来た人が苦手なんでしょう。
別にそれが妬ましいわけでも、自分がその環境にいれば、といった感情を持っているわけではないです。
ただ苦手なのです。
彼ら、彼女らはとても優れた人間です。
これは本当になんの嫌みも嫉みも黒い感情を向けることなく言い切れます。
ただ、同時にそんなまぶしい人たちを見ているとつらくなるのも事実なのです。
自分だけではどうしようもなかった差を感じます。
自分も周りの人たちに支えてもらって生きてきた実感はあります。
しかし、そのどうしようもない「差」のようなものを感じる瞬間。
それが彼らの自信につながっているのではないかと邪推する瞬間。
そういったものが非常に苦手なのです。
どうしようもない感情で、誰も悪いことではありません。
僕が間違っているのでしょう。
そのような場に出くわすたびに、
「自分のこれまでの人生」ひいては「今まで触れ合ってきた人」「出来事」を間違ったもののように扱われ否定される感覚がどうしてもぬぐい切れません。
だから僕は自己肯定感の高い人、自信に溢れた人が苦手なのでしょう。
だから何かしらの創作を続けるのでしょう。
作品の人格と私の人格が切り離されていても確かに私。確かに誰か。
この誰でもない自分をさらけ出すのがとても心地が良いから続けているのでしょう。
少しでも自分を自分で肯定できるように今日も何かをやってみます。
面白かったら珈琲代を恵んでください。 そのお金でお酒を飲みます。